蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

無音の中の音 映画『クワイエット・プレイス』

※ネタバレ前提で語ってます。

 

 ホラーと音は密接な関係にあるといっていい。無音が何かが起こり得る予兆と緊張、そして実際に起こる何か。ホラー映画はその配分が出来を左右するが、優れたホラーはどちらかというとその無音の部分――何かが起きる予兆が怖かったりする。

 とはいえ、これまでは何か事が起こる――そのリアクションとしての悲鳴や絶叫、に軸足が置かれていた(と思う)。炸裂する音そのものに恐怖をのせることをメインとしてきたわけだ。無音の予兆はそのための前提的なものだった。しかし、最近のホラー映画はその予兆の恐怖をメインとして引き延ばす方向性(おそらく日本のホラーの影響があると思われる)が出てきて、『ドント・ブリーズ』がその種のエポックといってよく、今作もその延長線上にある。というか、『ドント・ブリーズ』の盲目の元軍人を宇宙生物にして、より舞台を広いフィールドで無音と音の恐怖を展開したのが『クワイエット・プレイス』といえる。

 しかし、ホントにものすごい緊張感の連続である。音を立てれば死に直結する状況下、凌いでも凌いでも襲い来る宇宙生物の恐怖(そこはやりすぎなくらいこれでもかとやる)。その中で、家族の物語が静かに、しかし激しく描かれる。発せられる言葉がほとんどなく、音による感情表現を極限まで抑制した中で描かれる人間の悲しみ、怒り、そして愛。

 無音の中の感情表現。言葉は発せない、だからこそ音が映える、重要な意味を持つ。ところで無音の映画、ということでサイレント映画を思い浮かべるかもしれない。しかし、それとは少し違う。実際のところ、この映画は結構音がする。それはサイレントの完全再現を目指した『アーティスト』とは違う。

 実のところこれは“音”の映画なのだ。夫婦がイヤホンで音楽を聴きつつ静かにダンスするシーンがあるのだが、妻がイヤホンを外して夫の耳にあてるところで、音楽がぶわっと広がるところなんか、かつてあった音楽のある日常が伺える素晴らしい演出だ。この映画の音の部分はある意味、人間的な部分を担っているといえる。

 そして無音の“恐怖”を司るのが宇宙生物だ。目の見えないコイツらはなんというか、盲目のエイリアンって感じで、母親役のエミリーブランドを探してなめるような至近距離構図とかは、まんまリプリーのオマージュっぽさがあるし、まあ、ほとんどこのお母さんはリプリーみたいなもんではある。

 映画全体の構成はゴジラ型というかジョーズ型というか。最初は恐怖の対象を見せずに、しかし確実に迫っている感じを演出し、中盤あたりでその姿を現すと今度はその具体的な恐怖の対象との闘いとなっていく。この辺はセオリーというか、過去作をよく研究している。最初はどこから襲ってくるかわからない画面外の恐怖から、画面の中に姿を現して以降は、そのおぞましい姿と凶暴な怪物を音をたてないようにしていかに避けるか、というメタルギア的な緊張感へと移行していく。

 声をあげて泣けないことはこんなにもつらいのか。子供を守るために咆哮を上げる父親の声なき声はすさまじく。そして、父があきらめず続けた聾の娘への贈り物がついに無音の抑圧を跳ねのけた時、母親の決意とともに、人類反撃の“音”が静かに響く。そのショットガンの撃鉄の音で終わるのはすごくカッコいいラストだ。

 設定的には深く考えると、この程度の宇宙生物で人類が追いつめられたりするんかな……もっと人間は狡賢いぞ、と思ったりするのですが、そういう部分はきっぱり切り捨てて、津波のように押し寄せる緊張感で観てる間はすっかり映画に飲み込ませて、余計なこと考えさせない作りにきっちりとなっていました。実際的なグロ描写はほぼないので、怖いの苦手な人でも楽しめると思います。