蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

破壊する先に何があるのか 映画『スター・ウォーズ エピソード8:最後のジェダイ』

 ようやく観ましたよスター・ウォーズエピソード8を。

 まあ、もう時期も時期だしネタバレで語っていくんでそこはよろしくです。

 公開後にその“破壊”を許容するかどうかの姿勢がこの映画の“前進”“革新”を受け容れる者とそうでない者、みたいな分断が広がっていてウンザリして、結局映画館では観なかった(あと、長いってのもあったけど)わけで、DVDでの鑑賞となりました。

 結論としてはまあ、悪くないかな、と。個人的にはもうあんまり覚えてないエピソード7よりは好きだと思います。同時にスター・ウォーズ好きの不満もなんとなく分かる映画でもありました。

 つまり、スター・ウォーズといえば、という部分を突き放しているというか、わざと外している。

 それから、この映画の大きな主題は「ヒーロー」の否定であり、全編がこのトーンで貫かれていて、よって、ジェダイというある種の伝説の存在を半ば否定する形でルーク・スカイウォーカーを葬り去る。そこがまあ、反発を呼ぶ一因になってるのかもしれませんが、全否定ってほどでもないし、ジェダイそのものというよりジェダイがすべてを動かすといった期待や幻想を否定する、という方向性っぽいので、個人的には強く反発しなくてもいいのかなあ、とは思いますが。

 一方、光が濃く成れば闇も濃くなる、という問題提起は出るべくして出たような問題提起で、スター・ウォーズシリーズの中では踏み込んだものというか、元々ジェダイとシスというものを真っ二つに割っていた光と闇をひとりの人間が混在させる、そういう新たなフォースの使い手の誕生、そしてバランスという落としどころを狙っているのかもしれません。ただそれによって従来のジェダイ観は破壊された。

 まあでも、ジェダイはともかく独断専行で“ヒーロー”になろうとするポーをレイアがたしなめて、彼がやがてその場その場の英雄的行為を諫めるようになり、英雄ではなくリーダーとなる、という流れは悪くないと思います。しかし、その英雄的行為がだいたい特攻ってのはなんだかなあ、という気もしますし、そういうのを否定するようなそぶりをしつつボルド提督に特攻させてしまうのはどうしてなんでしょ。そもそもボルド提督がクルーザーに残る意味あるんだろうか。ドロイドとかでいいのでは?

 そういう、演出のむらがあってどうも一貫性が薄くなってるのも気になるところです。割と脚本の行き当たりばったり感が強いというか。まあ頭がもげて壊滅寸前の軍隊なんてそんなもん、ということで一つよろしく――なのでしょうか……それで納得できるかどうかは観た人次第かも。

 まあとりあえずスター・ウォーズを象徴していたライトセイバーを破壊し、旧作における“最後のジェダイ”を葬った。ハンソロも死んだ。次はミレニアムファルコンが標的なのかもしれない。旧作の遺産を葬ることで新しいものを打ち立てる、しかしその行為は、あくまで旧作の遺産で成り立っている。破壊できるのはこれまでそれが打ち立てられていたからだ。結局は旧作の遺産に依拠した破壊なのであって、それ自体を評価できるかというと、個人的には微妙というか、問題はそこから何ができるか、ということなので次回を見なければ今回の“破壊”は評価できないかなあ、という気がします。

 では、破壊しきった地平に何があるのか。2時間半という長尺で色んな場面を挿入してある割に物語は実のところ全然前に進んでいない。レジスタンスがニュー・オーダーから辛うじて逃げ切ったか――というだけなのだ。次への種まきをしているのかもしれないが恐ろしいほどの停滞ぶり。これ何なんだろう、先を読ませないようにするというハリウッド脚本の悪癖が炸裂したような、右と思わせて左というようなひっくり返しの連続で、そのため伏線に乏しく、物語の流れを作るのではなく単発的なエピソードの陳列状態になっている。これって大丈夫なんだろうか。

 敵地に潜入して装置を破壊すると思ったらしない。マスターのもとで修業すると思ったら特にしない。ジェダイとシスが剣を交えるかと思ったらしない。したかと思ったら実は一方は思念体(なので実はつばぜり合いしていない)であったとか、この映画はこれまでやってきたことを反復するように思わせてはぐらかすことを執拗に繰り返す。まあ、同じことをやってもしょうがないし、すでにエピソード4のプロットを反復した7まであるのに同じことやっても縮小再生産になるだけで、このあえて反復しない、という行為を評価する向きもあるんだろうけど、私としては、違うことやりたいんならストレートに違うことをやればいいだけだと思うし、前振りとして過去を反復するのはそれこそ過去に依拠している。それは結局、破壊のための破壊ではないか。在ったモノを壊すという行為と自立した新しいものを作るということは違う。まあ、それは次に持ち越しということなのかもしれないが、しかし今作を革新作とは言いづらいかなあという感じです。

 あと革新性、旧作との決別を謳ってるようにしつつもヨーダのパペット感とか、過去の音楽垂れ流しとか旧作回帰な部分は何なんだぜ。サービス? よく分からない……。

 いろいろ言われてるローズとフィンのパートいるのか、とかレイアのフォースで宇宙遊泳とか、ルークの豹変とかよく挙がる不満部分は、スター・ウォーズにあんまり思い入れがないせいもあってか、青筋立てることなくまあ……という感じでスルーしてしまった(できた)のでした。色々列挙されている“謎”についても正直どうでもいいというか、レイの両親とかスノークの出自とかそんなに気になります? やたらと散りばめた謎で風呂敷広げる物語は大抵ろくでもないものと相場が決まってるので、あまりそういうのに執着するのもどうかと思いますが。

 物語はともかく、この映画はシーンの美しさや印象に残るショットという意味ではかなり素晴らしいものがあると思います。スノークの間の赤い空間とそこに控える赤い甲冑の親衛隊たちが醸し出す妖しくも美しい空間だったり、最後の赤い大地に塩が降り積もった惑星での戦闘、大地をひっかく様に戦闘機が表層の塩を削って赤い線が引かれるさまは、ビジュアルのための惑星設定バリバリながらもとても印象的なシーンを創り上げています。夕陽や炎といった使い方も巧く、月や雨が作り出す闇夜の陰影も悪くない。そして、本作のテーマカラーの赤の使い方がなかなか印象的だったようにも思いますね。あとレイとレンのフォースでの交感シーンは、カットの切り返しだけでそれを成立させていて、シンプルで説得力のあるシーンを生んでいたと思います。ついに二人が同じ画面に収まるところなんかはこの映画の一つのピークでしょう。

 また、いろいろ言われているマーベル的なギャグですが、個人的にはあまり気になりませんでした。まあ、そこまで欲しい要素ではないかもしれませんが、長大な尺のある程度の息抜きにはなっていたとは思いますし(とはいえ、そもそもそんな余計なことがあるから長いのだと言われてしまえばそうなんですけど……)。

 この映画は旧来のものを破壊しつつも、ただ、エンタメとして最低限の軸までは破壊していないので、大雑把に場面場面を見て、引きまわされるままに観ていけば楽しめるようにはできているますし(異論はあるでしょうが)、主人公たちを追い詰めつつもそれは三部作における二作目の役割の範囲内で落としてるわけで、この先どうすんだよ……というほどの破たんはなく、次回はレジスタンスのピンチに銀河周辺の同盟が応えてニューオーダーを打つ、という形ですっきり終わるんじゃないかと思います。いやまあ、それが面白いのかどうかは別の話かもしれませんが……。

 しかし、旧三部作から戦ってきたレジスタンスもを葬って、ニュー・オーダーと戦って勝つにせよ、これでスター・ウォーズサーガが終わるということもなく、恐らく新たな戦いが始まるかと思うと、何だか虚しい気もしますね……。

スター・ウォーズそのもののこれから>

 そもそも、スター・ウォーズサーガってこれから広がりを持つんだろうか? これと近いものをすでに私たち日本人はよく知ってるはずだ。

 宇宙世紀――というやつだ。

 そう、一連のガンダム宇宙世紀サーガである。一年戦争という最大の戦いが終わったシリーズは、やがて局所的な小競り合いや政治闘争へとその争いは小さくなってゆく。そして、最終的には一年戦争時やシリーズ間の穴埋めや年代記の時間を大幅に飛ばすか、ということになる。それら偉大な原点ありきのシリーズたちは原点を乗り越えただろうか? そこはいろんな意見があるかもしれない。とはいえ、個々の作品の好みはともかく、先があるのかといわれると何とも言えないものがあります。スター・ウォーズもまた、このままだと出来事の穴埋めは行き詰まり、先を描くために何千年かすっ飛ばして仕切り直すか、最終的には旧三部作やプリクエル自体をリブートするのも時間の問題でしょう。

 行き詰りつつあったガンダムは、そこをいわゆる“ガンダム顔”をしてるMSが出てくればガンダム、という強弁によってシリーズをパラレル化し、仮面ライダー戦隊シリーズと同様に際限なくガンダムユニバースを広げていく選択を取りました(そういう意味でGガンダムという作品はガンダムでやる必要がないといわれつつも、偉大な作品ではあるのでしょう)。

 スター・ウォーズも選択肢として、フォースと光る剣が出てくればスター・ウォーズという方向性をとるかもしれません(後ヘンな仮面の悪役とか……)。というか、これまでのキャラクターを捨て去ったのでその下地はできているといえるのではないでしょうか。

 実のところ顔と名前の固定されたキャラクターってシリーズとして物語を延々続ける究極的には邪魔になる場合が多く、ヒーローものやガンダムがここまで続いてこれたのは、中身をとっかえる器――それはマスクだったり、ロボットだったりがあったからで、スター・ウォーズも極端な話、ライトセイバーさえ出てくればスター・ウォーズって感じで、現代のアメリカの高校生が主人公の学園物だって出てきちゃうかもしれません。それがまあ、楽しいかは別の話ですが……。

 しかし、宇宙に光る棒を持ち込んだ、というか棒を光らせるだけでチャンバラをSFにしてしまった。それは本当に画期的で、スター・ウォーズの本質はこの光る棒にあるといっても過言ではないでしょう。

 まあ、そんなわけでグダグダ長くなりましたが、個人的には新三部作の行方よりはスター・ウォーズサーガのこれからの展開が気になる方かもしれません。