蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

読書を追いかけて:『バーナード嬢曰く』

 

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

 

 というわけで、早くもというか、ようやくというか、この読書にまつわる滑稽で愛すべき漫画も四巻目。相変わらず読書好きたちの本に対するあれこれかつ、魅力的な本の紹介を行い、また回を重ねるごとに青春物的な郷愁をたたえているというか、人物たちを通して、本を読んでいたあの時の空気、みたいなものを追体験する要素が増してきているように思う。

 ド嬢の魅力というのは、まず扱っている本の幅広さ、その懐の広さだ。最初は古典の名言を引っ張ってきてあれこれギャグを展開する話だったが、次第にSFやミステリ、かつてのベストセラーといった本を取り扱い、読書好きがついやってしまうことや失敗、恥ずかしい自意識を含めて魅力的に紹介してくれる。今回もまた、多彩な本の数々が紹介されている。その紹介の匙加減が絶妙で、的確でくどくなく、しかしどこか引っかかりを与えてくれる。つい手にとって内容を確かめたくなるのが常だ。そしてなにより日常的なエピソードにさらりと本を絡めてくる、そのさりげなさがほんとに上手い。日常の中にある本の風景、それをさりげなく描き出すのが施川ユウキの巧さだろう。

 そういえば、ド嬢の人物設定も絶妙だ。読書家でも、読書家になりたい、という人物でもなく、“読書家ぶりたい”という人物、町田さわ子を中心にして、ガチな読書家である神林栞、遠藤君、長谷川さんといったそれぞれSF、一昔前のベストセラー、ミステリに軸足を置く彼らを配する。さわ子は読書家になりたいというよりは、“読書家”という概念にあこがれを抱いている。どうやったら読書家っぽくみられるのか、カタチから入ろうと悪戦苦闘し、それを見とがめる神林をはじめとした三人が突っ込みを入れつつ、本を紹介するわけだ。

 どうしたら読書家っぽくみられるのか、というさわ子の視点は滑稽だが、読書をする人間ならそれっぽさを外部にアピールしたい欲求、というものに覚えがないわけではないだろう。そんな恥ずかしい自意識をなんの衒いもなく行うさわ子を通して、読書家とは何か、読書するとはどういうことか――というまあ、そんな大げさなそぶりではないにせよ、さわ子を通して、本を読む風景に思いを寄せる、という観点もド嬢の大きな特色のように思われる。

 そうなのだ、ド嬢は本を読む風景を描き出す。かつての、そして今の、読書がそこにある私たちの風景。彼らみたいな体験はしなかったかもしれないけれど、本を通してそんな郷愁みたいな感覚が呼び出される。新幹線の途上で、雪降るバス停で、図書室の机の下で、冬の海の浜辺で――そこに描き出される本を、“読書”を携えた風景は何故か懐かしく、そしてほんのちょっぴり孤独だ。

 読書は孤独な営為だ。みんなで読書することはできないし、読書する“私”はいつも一人だ。それでも本を読む、という喜びを分かち合うことはできるし、誰かの好きな本が、それについての言葉が、私と誰かと本を繋げる。ド嬢は、そんな読書の孤独を行き交う交点を描く。理解されない孤独ではなく。

 読書家ぶりたがるさわ子だが、実のところド嬢には、それを見せつける外部は特に描かれない。趣味を描く漫画には顕著だが、趣味とは無関係な一般人に見られる“私”という視点に基づく姿――シーンは描かれない。私の趣味は理解されない、もしくは特殊であるという“理解されない孤独”なる自意識とそれに基づく仲間意識、そういうもので囲い込もうとはしない。読者をそういう輪に引き入れて、“仲間”でワイワイする、確かにそれは楽しいのかもしれない。でも、私が好きな物はもっと自由なはずなのだ。なんの後ろめたさもなく、自由に楽しみ、語らう。ド嬢のその、なんの衒いのなさや、読書人の困った自意識を笑いに変えつつも、その実、読書なるものへの貪欲な姿勢こそ、私がこの漫画を読み続ける大きな理由だろう。

 四巻の帯には「誰だって、始まりはにわかだったんだ」というコピーが載せられている。誰もが始めは、いやいつだってへっぽこな町田さわ子で、自由に、夢中に読書なるものを追いかけていける。漫画、バーナード嬢曰くには、そんなかつての、そして今の自分自身の読書へのあこがれが詰まっている。