蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

エロスとデスは兄弟 映画『イット・フォローズ』感想

 デヴィッド・ロバート・ミッチェルというほとんど無名の映画監督と、キャスト、そして二百万ドルの低予算で作られたこの映画は、大した宣伝もなかったにもかかわらず興行収益二千万ドルをあげ、2014年のホラ―シーンの話題をさらった。

 この映画は殺人鬼や悪霊が元気に暴れ回る映画ではない。どちらかというと、冒頭の浜辺のショッキングシーン以外はすごく地味だ。毎回姿を変え、“感染”したものにだけ見える“それ”――イットがゆっくりと歩いてくる。そして捕まると死ぬ。ホラーの要素としてはそれだけだ。しかし、そのジワジワとした怖さはティーンを中心に大きく広がった。

 シンプルな怖さ。それは、人はいつか死ぬ、という当たり前の事実であり、子どもから大人へ、その境界に立つティーンにとって、無縁だと思っていた自分にいつかやってくる“それ”を、映像的に意識させるものとなっていたからだろう。そして、その恐怖はもちろんティーンにとってだけではなく、彼らよりもずっと死に近い大人たちにも共通の恐怖なのだ。

 ひたひたと、それはいつか必ず僕らに追いつくのだ。

 

あらすじ

 大学生になったジェイは付き合っていたヒューとついに初体験を果たす。

 その後、車の中で寝そべりながら、彼女は述懐するように言う。“子どものころ、こうして好きな男の子とデートするのが夢だった。一緒にドライブしたり、手をつないだり、ラジオを一緒に聴いたり……きっと世界が違って見えるんだろうなって思ってた……ようやくその年齢になったけど……ここから先はどこに行ったらいいのかな”

 その直後、ヒューにクロロホルムを嗅がされ気がついた時には、車いすに縛り付けられ廃墟の中に彼女はいた。そして目覚めるのを待っていたらしいヒューは言う。

「これから君はイットに追いかけられることになる。まずはそれを教えておく」

 何が何だかわからず混乱する彼女を運び、ヒューは階下の線路に佇む全裸の女性を示す。あれがイットだ――それは性行為で“感染”し、それから逃れるには、誰かと性行為してそれを移す必要がある、自分が君にしたように――と。

「やつは色んな姿で追いかけてくる。動きは遅いが賢い。とりあえずは車で距離を稼げ」

 ジェイをイットが追いかけ始めるのを確認すると、ヒューはジェイを連れ出し、彼女の自宅まで運ぶと放り出すようにしてそのまま姿を消した。

 そして、後日ヒューの言う通り、イットがジェイを追いかけ始める。老婆の姿や中年女性、大男に小男といった姿となって彼女にしか見えないそれらが彼女を捕えようと一直線に歩いてくる。ひたひたと。ただひたすらに。

 ジェイは事情を妹や幼馴染たちに話し、彼らの協力でイットから何とか逃げ延びようとするのだが……。

という感じのお話。

 

感想 こっからはネタバレ前提なので未視聴ならば注意です。

 

 

 

 

 死、というものを、いつか自分は死ぬのだということを意識するのはいつからだったろうか。幼稚園児のころ、宇宙の終りを夢想してめちゃくちゃ怖くなったことがあるが、自分の死について考えたわけではなかったと思う。近しい人の死に触れても、小学校のころはやはりそれは自分とは無縁なものと感じていた。知識として人間は死ぬと知っていても、それが自分に当てはまると考え始めるのはやはり、思春期ぐらいからだったと思う。だけど、それでもそれはまだ曖昧な予感に過ぎなかった。

 この映画におけるイットは明らかに死のメタファーだ。それはゆっくりと、だが確実に迫ってくる。この映画が大ヒットした一因として、そのいつか訪れる死の予感を明確に映像として映し出したからなんだと思う。そしてそれが死を曖昧に意識し始めたティーンたちに突き刺さったのではないか。彼らを追いかけてくるイットの姿がことごとく、彼らよりも年上、中年以上の男女の姿であるというのも示唆的だ。

 この映画はホラー映画であると同時に、青春映画でもある。登場人物は大学生しかほぼ登場せず、大人たちは背景にいるモブ、もしくはイットとして出てくるのみ。なんというか、ヤングアダルト物っぽい感じ。メインの少年少女は大学生なんだけど、酒やタバコの描写とかも薄目かつ、見た目も少し幼げでぱっと見、高校生臭さが抜けきっていない感じだ。

 ジェイは前述した述懐のように、大人なるものへのあこがれ、そしてそれを性行為という形で達成したものの、そこからどこへ行けばいいのか、戸惑い、大人と子どもの境界線上にいる。ある意味、セックスすれば大人になれるのか、というティーンの思いと戸惑いを象徴するキャラクターだ。そして彼女にずっと思いを寄せつつもそれを表現することができない少年、ポール。そんな彼を見透かしながらも何も言わず、『白痴』を引用することでそれを示す文学少女のヤラ。そんな感じで、ポールのジェイに対する恋心がじれったいながらも少しづつ表出していく映画でもある。

 あと、この映画、ジェイのためにみんなが彼女の自宅や幼馴染の別荘、学校といった場所で集まって護衛するわけなのだが、それがお泊り会みたいな感じになってて、そのへん、『台風クラブ』みたいな青春物感。

 そして画面が美しい。どこか瑞々しいというとヘンな感じがするかもだが、昏い美意識みたいなものが画面に満ちている。そこからいつイットがあらわれるのか、という緊張感と静謐感が忍び寄り、なんとも言えない映画の時間を創り上げている。

 さらに、なんといっても廃墟の描写。デトロイトを舞台にした本作は、廃墟と化した家々が連なる現在の姿を残酷な形で映しつつ、それが、ある意味死を色濃く連想させる絵面となっている。音楽も印象的というか、カーペンターっぽいシンセが廃墟の描写などと相まって恐怖感を盛り上げてゆく。

 ホラーとしては、退廃的な美の世界で、曇りや雨といったいかにもな天候の使い方がゾクゾクくる。そしてなんといっても追いかけてくる“イット”のアイディアだ。ゆるい動き、というのはゾンビで、追いかけられる対象の人間にしか見えない、というのは幽霊。そのハイブリットである、ゾンビ幽霊みたいな造形がユニーク。人がたくさんいる中に紛れていて、一見すると分かりずらく、しかし、それとわかると明らかに異質なものが迫ってくるという、二段仕込みの緊張感を視聴者に与えることに成功していて、観ている間じゅう、ずっと嫌な予感に囚われ続けることになるのだが、これが怖い。やはり、ホラーの神髄は予感であるなあ、と。

 

 エロスとデスは兄弟

 『生ける屍の死』という小説に上のフレーズがある。この映画はまさにそんな感じだろうか。エロス(性愛)によってデス(死)が自覚されつつも、死はまた性愛によって遠ざけられる。とはいえ、イットを他人に移しても、移した人間がイットに捕まれば、また追われる。呪いは解除されるわけではなく、順番が後回しになるだけなのだ。性の目覚めと共に、死もまた追いかけてくる。性交によって感染するということは、それが可能な“大人”は全てがその対象であり、それは、生き物すべてに降りかかっている普遍的な真理だ。生きとし生けるものはすべて死が訪れる。しかし、それを性愛によって子どもを産むことで遠ざけていく。そうやって生き物は存続していく。

 大人になるということは、死を自覚し見つめざるを得ないことなのかもしれない。それは必ずやってくる。一日がすぎればまた一歩。ひたひた、ひたひた。そして一年が、十年が過ぎて、あるいは突然、誰もがそれに捕まる。それは避けようがない。

 この映画のラストシーン、ポールの愛を受け入れ、セックスしたジェイ、手をつないだ二人の後ろ、遠くに近づいてくる男の影、最後に二人の背中を映して物語は終わる。結局は逃れられないのかもしれない。しかし、二人で歩く、愛する誰かと一緒にいる――その永遠にも思える瞬間だけは、死の恐怖を遠ざけているのかもしれない。