『誰も語らなかったジブリを語ろう』を読む。押井守ジブリ作品を忌憚なく語っているわけですが、主に宮崎駿、ついでに高畑勲にその他(宮崎吾郎米林宏昌等)への彼らしい遠慮のない作品評ももちろん面白いんですが、他者の作品を論じる中、押井監督自身の監督論、創作論が語られ、一粒で二度おいしい本となっています。他者の中で己を語らずにはいられない、そういう押井らしさ(?)が実は一番楽しかったり。

押井監督はティテールで映画は成立しない、宮崎駿監督のような溢れるディテールを野放図に描きたいだけ盛り込むのではなく、ディレクションに必要なのは引き算であり、何がいるのかいらないのかを厳密に精査する能力こそが監督に必要なものなのだと執拗に説く。それが出来ないがゆえに宮崎駿は監督として二流、三流なのだと。さらに客観性がカケラもなく、脚本の才能はゼロ、と。脚本については 結末をはっきり決めてスタートしない点も押井監督は批判しています。だから彼の映画は最後があやふやであり、ストーリーを観た後にすじだてて説明できないと指摘します。しかし、ディテールが並外れてすごいために、あのシーンはすごかった、という形で語られやすいのだと。

映画は思いを“熱く”語るツールではなく、構造的なものとしてあるべきだ、それこそが本質だ、と押井監督は言い続けます。監督の力は映画に芯を与え、構造を作り出すことだと。

まあ、僕もいわゆる“ライブ感”みたいな創作論は胡散臭い眼で見てるんですが、ただ、押井監督の指摘に賛同しつつも、映画というか作品の“語られ方”って、結局はディテールに集中してしまうんじゃないのかしら。結局はあのシーン、あのキャラクター、という視点からなかなか僕らは抜け出せない部分がある。それは押井監督の作品ですらそうではないだろうか。ラストシーンから逆算してキッチリすべてをそこに落とし込んだとしても、あのラストシーン良かったね、というふうに語られてしまう。だからこそ、構造を志向する押井作品がなかなか理解されないということなんだろうけど。

僕がよく読むミステリにしてもそうだ。ミステリは結末を決め、そこから人物配置や手掛かりを逆算していく。それはひとえに結末を強烈に、鮮烈にするためだ。しかし、そえれゆえミステリは、こんな話だったね、という物語ではなくトリック、ロジック、衝撃の真相、そいう言ったディテールにいちいち還元されたうえで語られてしまいやすいジャンルである。これこれのトリックが、ロジックが、隠れた構図が、キャラクター性が、すごいorいまいち、というふうに。

そこでプロットを、構造こそを重視すべきだ、という声が出てくるのだが、僕らはどちらかというとディテールに快楽を感じやすい。そういう風に作品の受け取り方を形作られているわけで、げんに押井監督の作品は宮崎監督の作品の前ではちと分が悪い。(いや、僕は同じくらい大好きなんだけど)

まあ、小説の場合は、キングや宮部みゆきといった、ディテールよりも「物語」を強烈に感じさせてくれる作家だっているわけだし、映画についてだって全部が全部そうであるわけではないとは思う。ただ、そういう語りやすさに人は陥りやすい。そこには沢山の人との共感のしやすさや共有感という面も潜んでいると思うのだが、とりあえず眼につく印象的なものたちから一歩引いてみて、この作品はどんな物語だったんだろう、というふうにじっと考えてみる、そういう形の振り返りっていうのは、作品を感じ取るうえで、もっとやるべきものなのかもしれない。

しかし、宮崎監督のエプロン姿を「――職人のつもりらしく、自分でかなり気に入ってるみたいだけど、僕から見たらレザーフェイスだからね(笑)」というのはめちゃくちゃ笑った。なんだかんだである意味しっくりくる気がしないでもない。アニメ界のレザーフェイス宮崎駿。つよすぎる……。