ブレードランナー2049 感想 :パンドラの箱に残った“希望”は誰のものか

ネタバレなし感想とかめんどくさいんでネタバレ全開でいきますからそのつもりで

というか、観てないとあんまりわかんないかも。あらすじも略。

 

 

 

 

 

 

初日に観てきてすごい良かったのもあって、ようやくというか、開設したもののほとんど放置してたブログに感想を書くという気力が湧き上がってきたと言いますか。それでももう5日ぐらいたってますが、そこはそれ。

 

とりあえず、ざっくり結論から。

ブレードランナー』――説明不要の名作カルト映画の続編にして、その陰画とも言える映画に、この『ブレードランナー2049』はなりおおせた、といってもいいのではないでしょうか。

とにかく、続編として云々、比べてどうだとか、テーマが、結末が、とかそういう些末なことはブン投げて、映画を観る喜びの一つ――その時間と空間にひたすら浸る――に満ちた映画でした。抒情的――というのは前作もそうではありましたが、このブレードランナー2049は、前作を動とするなら静といっていい、そのひたすら静謐な画面の中に抒情性を溢れんばかりに納めた映画となっています。

 

冷え切った未来としての30年後

この作品は前作『ブレードランナー』の世界観を忠実に再現しつつも、30年の時を推し進めた姿を描いてます。その時の経過が顕著な形で表れているのが、猥雑さの後退であり、画面にはひたすら静謐な退廃の姿が描かれていきます。前作『ブレードランナー』は暗い暗い、とはさんざん言われてはいましたが、それでもその昏くよどんだ世界の下で人間の猥雑な営みが喧騒と共に描かれていました。人々はけだるげながらもタバコを朦々と燻らし、女を抱きながら酒をかっくらい、淫靡な熱気をいまだ発している――そのくらいには、人類というものが熱を帯びていたのです。

 しかし、30年後には煙草を朦々と燻らせる人物もいませんし、酒は享楽に浸るためというよりは、何処か孤独の慰めのように人物たちは杯を干します。

どこか寂しく、熱の冷めた世界――それは冒頭のワンショットですでに提示されます。前作『ブレードランナー』の冒頭――あの有名すぎるランドスケープは炎を吹きだす石油コンビナート群がどこまでも続いていく風景。

対して、今回は整然と並ぶ冷え冷えとした太陽光パネル――人類はすでに化石燃料を使いつくしたのか、雲に覆われた空からそそがれるわずかな光をかき集めている、そんな世界。そして、主人公は喧騒の街のなかに佇むのではなく、枯れ果てた木が一本立つ寂れた農場に降り立つのです。

 まさに死の天使といった趣です。新型のネクサス9である主人公が旧型のネクサス8を狩る。レプリカントレプリカントを狩る、という構図は前作のデッカードレプリカントか? という曖昧さではなく、はっきりとした形で提示され、同族狩りというより陰鬱な意味合いをくっきりと浮かび上がらせます。

旧型の同族を“解任”した彼はそこで、木の根元に埋まる箱を発見するわけですが、まさにそれはパンドラの箱といっていい代物だったわけです……。

この映画は、この箱から始まり、箱で閉じる円環構造を持っています。そしてこのパンドラの箱には文字通りの災い、そして希望が残ることになるのです。

しかし、ここにはものすごい捻じれが潜んでいます。彼が発見した箱の中には災いが潜んでいるが、その災いは人類にとってであり、希望はレプリカントにとっての希望――という単純な物でもない。

まず、災いは人類といってもすべてではなく、地上に取り残されている人間にとっての災いなのです。要するに、それを災いと言いたてるジョシ警部補を代表する地球残留組にとってでしかなく、ウォレスに代表される地球を捨てた富裕層にとっては自身をさらに宇宙へと拡張するための福音――ギフト――である。そして同時にレプリカントたちにとっての福音でもある。もちろん違う意味で、ですが。(ただ、希望一辺倒としてレプリカントたちは捉えていますが、もしかすると彼らにとっての災いになる可能性も十分にある。希望は絶望と表裏一体という意味で)

 

“箱”の物語

この映画は、この“パンドラの箱”を代表とするように、入れ物、のイメージが横溢しています。あとで述べますが部屋や都市、スピナーといったものが、箱や抜け殻、卵の隠喩として頻繁に出てくるものとなっているように思います。

この物語は基本的に入れ物に納められていた人形が自分の意志で外に出る、という物語です。それは主人公のKしかり、AIのジョイしかりで、人間もまた地球という箱を出たがっている、という意味ではそうなのだと思います。

部屋は明らかにKにとっての箱ですね。自室や任務を終えた後に入れられる検査室、それからスピナー、どれも彼をネクサス9という“人形”たらしめている箱だ。そして彼はそこから出ていくことにする。製品としての人形ではなく“特別”であろうとするために。

それはジョイもまた同じで、コンソールから消去され、それまでいた“箱”から出ることで製品としてではなくKにとっての取り返しがつかない“特別”へと成るのです。

もう一つ重要な箱――入れ物は都市です。そしてこれは人間にとっての入れ物である。Kが希望を求めて赴くラスベガスは、人間の抜け殻として描かれます。都市に足を踏み入れたKがまず出会うのが予告で印象的な人間の像の頭部――その張りぼてが露になっている――であることで明らかでしょう。膨大な過去を抱え、打ち捨てられた都市はかつての人間たちの抜け殻だ。しかし、その後Kが遭遇する生命――蜂によって希望の地でもあることが暗示されてもいます。誰にとってなのかは分からないが――。

抜け殻の都市は人間がいよいよこの星を去ろうとしている、そんな気配をどことなく感じさせます。この作品の人間たちは、どこか“人間味”のようなものを欠いた、映画を観る我々とは何か違うモノのようにも思えます。ウォレスがその代表格といっていいでしょう。彼はどこか半神半人といってもいいような、人間が“神”へと近づいているような予感を感じさせます。造物主たちはいずれ去り、残された被造物たちの世界が、人間の抜け殻となった世界で新たに芽吹くのではないか――そんな気もしました。

 

特別とは何か

自身の植え付けられたはずの記憶が現実であり、自分は作られたのではなく、レプリカントから誕生した特別な存在なのではないか? そんな疑惑が芽生え始めるKですがしかし、最終的には自身の”特別性”――特別な存在であることを否定されます。ただあるだけでは特別ではなかった。しかし、それでも特別であることはできる。製品であるジョイがKにとっての特別となったように、その意志と選択が“個”を特別にする。

 冒頭の太陽パネルやウォレス社のデータバンク、スキンヘッドの子どもたちといった所々で挿入される、同じものがたくさん集まった集積回路のような画は示唆的です。そこにあるだけでは特別ではないのです。Kは反乱分子たるネクサス8の残党から与えられた任務――デッカード殺害を拒否することを選び、最後の戦いに赴きます。

 

Kと対になりつつ、交わることのない完全な鏡像たるレプリカント、ラヴとの最後の戦いもまた寓意と隠喩に満ちています。まず、場所である海。これは新たな生命の誕生を。さらに、スピナー――デッカードが囚われていたどことなく丸っこいフォルムのそれは卵を思わせます。そして卵の中で戦い、勝利することでKは産み直される。レプリカント同士が戦う場所が、人間たちのいる都市と海を隔てる巨大な壁の向こう――人間たちの外で行われるというのもどこか示唆的です。

すべてが終わり、最後の最後にデッカードは言いいます「君にとっての私は何だ?」

K――ジョーは答えません。デッカードがKにとって何であるかではなく、デッカードにとってKはジョーである――それで十分なのだから。

彼に降りしきるのは雨ではなく雪――その思いを流れるのではなく止めるように。

 

デッカードが天使ジョンに導かれた先にある箱には希望が残っていた。しかしその箱から取り出せない希望はレプリカントたちやウォレスら人間が期待するに値する希望なのか。それは分からないにせよ、一人の天使にとってはそうであったのだ。