蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 なんだかんだで二〇一九年も終わり、この感想文やら雑文やらの集合体も三年近く続きました。とりあえず百記事書けたらということで始めて何とか書き切りましたし、二百くらいいったら終わってもいいんじゃないかと思ってたりしてますが、とりあえず何らかのフィクションに触れて、それについて書きたい気持ちが続く限りはやっていこうかな、と。まあ、時間と気力の問題もあるとは思いますが。

 紹介というには回りくどくて野暮ったいアジ文章だったりしますが、目的としてはフィクションを齧って、その時の自分の気持ちというやつを書き留めていくことが主ですので、それがもし、誰かの琴線に触れてくれれば幸いというか。

 しかし、誰に届くか分からないというのは、なかなか良いものですね。どのみちいつか消えていくものであっても、どこかの誰かさんに届く瞬間がある。実感なんてほとんどないけど、そういうファンタジーを少しでも信じようとする感覚が、こんな文章を書かせている一つの原動力なんだろうと思います。

 砂漠に散らばったがらくた――気に入ったものを拾ってまた遠くに去ってゆく。ネットの感想ブログというのはそんなフィクションを齧って進む人々の束の間の結節点なんだろうと思いながら、できるだけ続けていけたらな、と。私の感じた「面白い」(もちろん「つまらない」も)が、ほんの少しでも伝わることを祈って。

 それでは、今年もよろしく。

素晴らしい実写化:映画『夏、19歳の肖像』

夏、19歳の肖像 [DVD]

 島田荘司の映像化は、本邦でも近年になって多数作られているのだが、台湾で制作されたこの『夏、19歳の肖像』がたぶん一番いい出来だろう。原作を基本としながら、現代の話としてスマートフォンを有効活用し、サスペンス性やミステリ性を底上げして、原作の映画化というだけでなく、一つの映画作品としても非常に質の高いものになっている。島田ファンだけでなくとも一個の面白いミステリ映画になっていると思う。おススメである。

 主人公と彼がのぞく家に住むヒロインはもちろん原作準拠だが、その周りの人物などは新たにオリジナルな人物配置を行っているが、本筋としてはかなり忠実だ。そして、一九八五年の原作を二〇一八年に持ってくることで当然導入されるスマートフォン。これが原作のサスペンス性を壊さずに、むしろより謎や緊張感を増幅させていてその組み込み方が巧い。

 そして、原作の青春の過ぎ去ってゆく寂しさを描きつつも、後年の島田荘司テイストーーネジ式的なその先の希望のようなものを感じさせる終りになっていて、そこもまた個人的にはよかった。

 ただ、動機の部分はストレートに金銭的な後ろ盾のみになっていて、「家」や「土地」なるものの執着という部分はばっさりと切られていた。その辺は分かりづらい日本的な部分だったのだろうか?

彼らが“ぼくら”になる7日間:映画『ぼくらの7日間戦争』

 宗田理の『ぼくらの七日間戦争』といえば、ジュブナイルの金字塔で自分も小学生高学年から中学生の時にこの作品に触れ、シリーズを結構読んだ覚えがある。『ぼくらの魔女戦記』の一巻の最後あたりがたぶん一番好きだ。

 このシリーズとズッコケシリーズやかぎばあさん、エルマーシリーズといった児童書が自分の青春物語に対するイメージというか嗜好の核を作っているのは間違いない。もしかしたら、自分の青春は小学生中学生で止まっているのかもしれない……。

 まあ、それはともかく懐かしの作品が新しくアニメ映画としてよみがえるというわけで、期待半分不安半分というか、むしろ不安七割くらいで観に行ったのだった。ちなみに実写版は観ていない。

 観た感想としては、観て良かったというのがまず言える。確かに、批判評にはそれなりの正当性はあるし、何かが引っかかってそれが展開上論理的に解消されなければならないという観点から見れば減点だらけになるだろう。とはいえ、それでもこの映画は楽しいというか、ただの新海・細田フォロワーではない、独自の味を持ち得ていると思う。

 原作小説からは登場人物の名前から違うし、廃墟に立てこもるという要素ぐらいしか引き継いでいるものはない。その立てこもりも、自分たちの意志というよりは成り行きにすぎない。彼ら自身も二人、三人の繋がりはあるのだが、全体としてはあまりよく知らないクラスメイトの集まりでしかない。そんな彼らが、自分たちが密かに抱えた思いを解放することでようやく“ぼくら”になる、そんな映画だったように思う。

 なお、新海だ細田だとか、見た目であれこれ言いたくなる人がいるのは分かるが、実質、そんなに絵似てるだろうか……。見た目のリッチさはないが、ミニマムな堅実さ、的確さのある作画やレイアウトだと思う。特に彼らが立てこもる石炭工場の美術はとてもいいし、夜空に浮かぶコムローイ(ランタン)の光景や夜の空気感もいい。この映画、青春映画としての夏の青空はもちろんあるのだが、どこか彼らが身を寄せ合うような夜の光景が印象に残る映画ではないだろうか。

 あと、確かに前半部はスピーディーというにはあまりにも段取りをすっ飛ばしている感は否めない。ただ、それでも実のところ、とある女の子たちの気持ちのラインは最初からさりげなくもきちんと描写されているし、なんとなく集まっている、背景がほぼ語られないからこそ、彼らが隠していたもののを暴かれる瞬間が鮮烈になる部分はある。

 それからもうさんざん言われているように、いわゆる百合というやつが炸裂します。まあ、個人的に登場人物の関係性をジャンルとしてラベリングする言葉ってあんま好きじゃないんですが、とりあえず、この作品の一番の見どころは二人の女の子の秘めた思いのやり取りにあるのは間違いない。なのでそういうのが好きな人は早めに劇場に急ぐべきだろう。

 

あらすじ

  鈴原守はクラスであまり目立たない、本ばかり読んでいる少年だ。戦史好きという彼は、それを話し合える同年の友達がいるはずもなく、もっぱら同じ歴史マニアが集う平均年齢高めのチャット。そんな守るには気になる女の子がいる。隣に住む幼馴染の千代野綾だ。幼稚園の頃から一緒だった彼女の誕生日にプレゼントを贈る守は今度こそ、その時告白をしようと心に決めていた。しかし、その綾の誕生日一週間前に急に彼女が議員である父の都合で引っ越さなくてはならなくなったということを知らされる。

 せめて誕生日まではこの街にいたかったな――そうこぼす綾に思わず守は口にしていた。

「逃げましょう!」

 守の言葉に自分もそう思っていたと顔を輝かせる綾。誕生日を迎えるまでの7日、東京行きを強行する父から逃れてバースデイキャンプをしよう。閉山された石炭工場の跡地に集まったのは、守の他に綾が呼んだ四人。守にとって特に親しいわけではないクラスメイト達だったが、なんだかんだと楽しく過ごしていくことができそうな雰囲気に。

 そんな折、彼らは自分たち以外の誰かが工場内にいることに気がつく。マレットと名乗る不法入国の子ども。そしてそれを追ってきた入国管理官の二人組。大人たちから隠れ、社会の外側にいたはずのバースデイキャンプは、彼らの登場で守たち6人をのっぴきならない場所へと押し出してゆく。

 Sven Days War――彼らの自分自身を問う戦いが始まった。

 

感想

彼らが戦う理由

 この作品は原作を大幅にアレンジしていて、話自体は全然違うものとなっている。しかし、現代ならではの要素を盛り込んで、原作のスピリットを自問する形で「今、ここ」で語る七日間戦争とは、という制作陣の真摯な思いが形となった作品に結実した。

 まず、大きな違いとして立てこもる人数(原作ではクラスの男子がほぼ全員)とかがあるが、何と言っても特に仲のいいメンバーでやり始めているというわけではないところ。原作では大人に一丸となって抵抗する仲間たち、という前提があったが、本作の登場人物たちは、一応クラスメイトということや、友人、幼馴染、というつながりはありつつ、全体的には小さなクラスターの寄り合いでしかない。そして、彼らは特に進んで大人なるものに反抗しようとしているわけでもない。

 綾だって、結局は街やみんなと離れることは仕方がないとは思っている。ただ、せめて自分の誕生日を街で迎えたい、というささやかな願いがあるだけだ。そんな明確に戦うものがない彼らが大人たちを向こうに回して戦う理由となるのが、マレットという子どもの存在。不法滞在外国人という問題をはらんだマレットをその両親に再会させる――それが、彼らが戦う大きな理由となる。

 このマレットというキャラクターがなかなか重要な存在で、ある意味本当の「子ども」という存在でもある。高校生にしたことでも明らかなように守や綾たちは「大人」の部分もある。それは、体面のために嘘をついていたり、不正義だとわかりながらも見てみぬふりをする領域に片足を踏み込んでいることでもある。彼らは「子ども」であるマレットから見返される存在でもあるのだ。「子ども」たるマレットのお前たちも大人たちと一緒じゃないのか、という言葉が守たちをその場に踏み留まらせる。

◇お互いを知り“ぼくら”になる

 彼らの戦いは、目の前の大人との戦い以上に、自分の中の大人――やがて大人になってしまう自分自身との戦いでもある。そして、この作品の本領は、そのどこかのほほんとしていた彼らが隠していたものがSNSによってさらされるところから始まる。

 前述したが、前半部のあまりにも最低限の段取りでメンバーが集まることが、なんとなく楽しい思い出を作って終わり、という外見以上のものを持たないかに見えたメンバーたちの、その隠されたものがあらわにされる瞬間を鮮烈に見せている。もしかしたら時間や予算の都合もあったかもしれないが。さらにさんざん言われている新海誠の『君の名は。』や『天気の子』の二番煎じみたいな演出や牧歌的なジュブナイル風味が一気に覆り、この作品本来の顔を見せるという二重構造にもなっている。

 そして、自分たちが隠し裡に抱えていたものを共有することで、ようやく彼らは綾を中心にしたなんとなくの集まりから、一つの結束体――“ぼくら”になる。この映画は他人を知る、知ってもらおうとする映画なのだ。守は自分の気持ちを綾に知ってもらうと同時に彼女の気持ちも知る。自分の気持ちは通じ合うことはないかもしれない。しかし、それでも伝え合うことで彼らはお互いをかけがえのない“ぼくら”になれた。

 その後半部の転機となる暴露部分だが、守と綾は主役級の割には暴露される「裏」というものが特になく、終始ニュートラルで健全なキャラクターで、なんとなく集められたような残りのメンバーに強烈な「裏」があったというのもなかなか面白い構成だ。前半部は守や綾の周りにいるだけのような「仲間」たちに急に陰影がつく。中でも山咲香織というキャラクターは裏主人公と言えるくらいの内面が前半部から丁寧に織り込まれている。彼女の顔半分に影が差す演出はベタながらも的確に彼女のキャラクター性を描き出している。さり気ない部分も含めてその表情に要注目なキャラクターだ。

◇最後に

 今作は原作とは対照的に空が解放のモチーフとして描かれる。ラストシーンやコムローイを浮かべる場面。中でも告白を経て結束した彼らが二度目にコムローイを飛ばすシーンは挿入歌の「おまじない」を含めて印象的な場面だ。今作は青春映画の定番、青空よりもどこか夜の空のシーンが良いように思う。どこかしっとりとしたトーンの夜空に浮かぶ、彼ら自身の思いを込めたコムローイ。その開放のイメージがこの映画の本質を示しているような気がした。

物語り続ける、その後姿に。

 『白鯨伝説』というアニメを知っているだろうか。一九九七年から一九九九年にかけてNHK衛星第二で放送されたSF冒険アニメで、監督は『ガンバの冒険』や『エースをねらえ』OVA版の『ブラックジャック』などを手掛けた出崎統。タイトルの通り、メルヴィルの『白鯨』をモチーフにしている。

 当時のNHK衛星第二はアニメをたくさん放映していて、ガジェット警部やスプーンおばさんを食事時に観ていた。そして、モンタナ・ジョーンズと並んでよく覚えているのがこのアニメだった。

 ぼんやりとご飯を食べながらテレビを見ていた僕は、まずはそのオープニングのカッコよさに引き込まれた。白くて太いタイトル文字が出ると、荒々しい線で描かれたイメージボードのようなキャラクターや世界がOP曲「風と行く」とともにゆっくりと流れてゆく。はっきりとは分からないけれど、真っ白な鯨だけは目に焼き付くそのOPは今でも好きなOPだ。

 そして、今見てもそのクオリティの高い第一話の冒頭。子ども心にすごいな、と思いあの神々しいまでの白鯨の姿に圧倒された。そして、語り手のラッキー・ラックをはじめ、エイハブ船長や仲間たちの生き生きとした姿に夢中になった。

 物語ははるか未来。人類は宇宙に拡大し、そんな宇宙バブルというべき時代の遺産として使い捨てられた宇宙船が宇宙をただよい、それを鯨取りと呼ばれる廃品回収業者たちが競って回収し金に換えている。そんな荒くれ者たちの一団の一角、エイハブ一味に押し掛けたラッキー・ラック。ラッキーの故郷、惑星モアドは新型惑星開発弾の実験場として住民の強制退去が連邦政府によって進められていた。そのレジスタンスに力を貸してほしいと懇願するラッキー。当然嫌がるエイハブだが、連邦政府側の戦闘戦艦についての話を聞いて態度を一変させる「そいつ雪のように白かったか?」そうエイハブは声を張り上げる。彼の脳裏に浮かぶのはかつて自分の片目片足を奪った因縁の相手、超巨大戦艦『白鯨』の姿。運命――そうと言いようのないものに導かれ、エイハブは再び白鯨にまみえるべく惑星モアドへと向かう……。

 ――てな感じの話なのだが、この作品、めちゃくちゃ総集編をやっていたことで有名で、またかーと思いつつ、それでも毎回欠かさず観ていたのだった。しかし、全三十九話の予定は結局二十六話に短縮され、制作会社は倒産し、第十八話でいったん打ち切りとなる。そんなすったもんだのあげく、虫プロ制作でようやく残りの八話が制作されて完結した。

 僕が残りの八話を視聴したのは結構あとになってから。DVDで視聴した。結局打ち切りみたいになって終わったという理解で、残りが制作されたことは知らなかった。だから、驚きとともに、その最後がどうなるのかという期待を胸にディスクをセットした。

 当時からたぶん十年近くたっていたと思うけど、変わらず彼らはそこに居て、そして変わらず面白かった。出崎監督は時間がかかっても物語を語り終えようとしてくれていた。いいぞ、すごいぞ、しかし、ラスト三話あたりからこれ終るんだろうか、という疑問が頭をもたげ始めた。あと二話、あと一話、これは……あとBパートしかないぞ……!

 そして、最終話が終わる。ギリギリ、終りの終わりまで、ペンを走らせるようにして出崎監督は物語り続けた。制作状況の悪化に伴う大幅な話数の短縮で、満足のいく形ではなかっただろう。実際、物語はエイハブ船長と白鯨の決着を語れるかどうかすら怪しくなっていた。そのあまりにも足りない余白にしかし、監督は――出崎統は物語を描き続けた。

 いろんな事情で最後がわやになるアニメは多い。そのまま低い点数になるくらいなら、いっそ0点を取るとか、答案用紙をビリビリにするとか、そういう「ずるい」やり方でインパクトを残す選択肢だってあるだろう。しかし、最後の最後までペンを走らせる。物語ることを放棄することなく、登場人物たちの姿を語り切ろうとすることを監督は選んだ。

 そして、僕はラストの壮絶な流れとエイハブの慟哭と同じくらいに、その監督の語り切ろうとする意志に心を動かされた。エイハブたちの物語は終わっていないのかもしれない、しかし、監督は全身全霊をもって語ろうとし、最後の瞬間まで彼らと向き合い、そして課せられた制約の中、物語なるものに立ち向かい続けた。

 白鯨伝説、その物語に焼き付いているのは、そんな僕にとっての物語る者の後ろ姿だ。

 

 

とりあえずこのゲロかっこいいOPと第一話を見てくればそれでいい。


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あの夏、終わってしまった何かに:映画『Summer of 84』

 閑静な郊外。そこには見知った穏やかな人々がいる――そういうことになっている。

 しかし、誰もその心の裡を知りはしない。お互いが本心を見せたりはしない中、ふと疑いを抱くとき、そこを覗くことは何を招くのか。

 この映画は、80年代のノスタルジックな、しかしどこか得体のしれない郊外の風景を描き出す。15歳の四人の少年たちの青春物語というに風にはじまった物語は、やがてどこかじっとりとした暗がりが彼らの周りに淀み、決定的な出来事が彼らを後戻りのできない場所へと押し流してゆく。

 なにかの“終り”とは唐突にやってくる。これはそんな映画だ。

 

あらすじ

 1984年、オレゴン州イプスウィッチ。ごく普通の郊外に住む15歳の少年デイビーは、仲間のイーツ、ウッディ、ファラディ、そして年下の少年たちとつるんで夜にかくれんぼをして遊んでいた。そんな中、彼は隣人の警察官マッキーの家に見慣れない少年が彼といるのを目撃する。不審に思いながらも、鬼に見つかり、そのまま遊びの中に戻るデイビー。

 しかし、彼はその後家でシリアルを食べるために手にした牛乳パック――行方不明者の目撃情報を呼びかけるために印刷された顔写真を見て、それがマッキーの家にいた少年であることに気がつく。

 イプスウィッチの近隣の街ではここしばらく同年代の少年たちが行方不明になる事件が多発していた。もしかしたらマッキーが何か関わっているのかもしれない。デイビーは仲間たちを秘密基地に招集し、マッキーを監視することに。どこか探偵団的な高揚感の中、彼らはマッキーの不審な行動を少しづつ明らかにしていったかに見えたが……。

 

感想

 隣人が殺人鬼かもしれない――そんな自分たちだけが気づいた世界の秘密についての、少年たちのひと夏の冒険。

 ――なんて思っていたら、最後にとってもイヤな気持ちになること請け合いですので、それを期待する人は『IT』とか見た方がいいです。

 確かに導入部分はそんな感じで少年たちの探偵ものっぽくはあります。少年たちは、UFOだのシリアルキラーだののゴシップ記事を自室に恥ずかしげもなく貼り付けているオカルトマニアっぽい主人公を筆頭にデブ、眼鏡、不良とかなりきっぱりとキャラ分けがされていて、そこに主人公の幼馴染の女の子が混じってくる。なんというかいかにもな感じ。実のところ主人公とデブことウッディ以外はあんまり深く描けてはいない感じなのですが、外見のキャラ分けがきっぱりしているので、見分けつかなくなることはなかったです。あと、主人公以外は家庭に事情がありそうなことだけはどことなく匂わせています。

 それにしても、前半部分はすごいです。何がって、猥談が。この少年たち、ものすごいエロガキで、ことあるごとに裸見てえ、ヤリたい、みたいなことばっかり言ってちょっと辟易します。80年代の15歳というものはこういうものなのか、そもそも15歳の少年とはこういうものなのか。とにかく、中年の猥談好きなオッサンとはこれがこのまま年を取ったんだろうなあ、とは思いますが。

 とはいえ、このやたらと飛び出す少年たちのエロトークというものは、ある意味平和な瞬間の象徴みたいなところがあり、それは後半にかけてスーッと引いていきます。

 この映画、みんなで殺人鬼らしい隣人の証拠を探そうぜ、というノリで進んでいき、恐怖の瞬間を迎えつつも、ある意味少年探偵団ばんざーい、な展開を迎えはするのです。が、最後の最後に付け加えられたいわばエピローグのような部分によって一変します。なんというか、じっとりとした恐怖の感覚が観る者を捉え、そして何かが決定的に終わってしまった感覚を残して映画は終わるのです。

 その終わりの感覚というのは、青春の終わりというより、主人公の人間関係の終りみたいな感覚があります。少年たちは通過儀礼として思春期をくぐり、青春を終える――そんな定型的な青春物語からはどこか永遠に脱落してしまったような、そんな感覚。

 主人公デイビーに唐突に振るわれた終りの刃は、仲の良かった知り合いたちの結びつきをあっという間に断ち切り、そしてそのまま終わってしまう。幼馴染は去り、路でかつての秘密基地を解体する親友たちと目を合わせてもそのまま通り過ぎてしまう少年の姿。

 そしてラストは冒頭と同じく新聞配達をするデイビー。犯人からの“呪い”を受けつつも日常に復帰しているかに見える彼ですが、彼の「隣人」たちはすべて何を考えているか分からない人達になっている。

 人は決して本性を見せない。そんな街で、彼はこれからも生きていく。そうするしかないのだ。

魂の行方:筒城灯士郎『世界樹の棺』

恋を成就させたいのに自ら失恋に向かっていく人も……世の中にはいると思うんです。

世界樹の棺 (星海社FICTIONS)

 今年の本格ミステリで一番好きかもしれない。そんな作品に出会えました。まあ、なんというか波長が合う、完全に好みに合致した感じなので、広く勧められるかというと、ちょっとわからなところはありますが。とにかく、私は面白いと思ったし好きですね。

 著者はあの筒井康隆が書いたラノベビアンカ・オーバースタディ』の続編を第18回星海社FICTIONS新人賞に送ってそのまま受賞しちゃったという、なんかすごい経緯の作品、『ビアンカ・オーバーステップ』でデビューを果たし、今作が第二作目となります。SF方面の人かと思ってましたが、本格ミステリのセンスも十分あるようです。必要な情報が出そろってからの、“読者への挑戦”もあり、それに見合うだけの推理がきちんと待っています。本格ファンとしては、読み逃してはならない作品だと思いますね。おススメです。

 本作は、一見してファンタジーな世界でSFな要素を絡めつつ、密室殺人を中心にしたミステリ――かつ、ミステリとして収束することがより大きな世界のビジョンを解放する形になっていて、それぞれのジャンルが絡み合って、一つの物語世界を構築しています。

 基本的にミステリ読みの自分としては、謎解きによって人の外、もしくは内側の世界を一変させる、今まで観ていた世界を越境すること――そういう要素が好みなので自分の琴線にめちゃくちゃ刺さりました。

 おぞましさも、哀切さも、すべて飲み込んで、彼女の日常は続いてゆくのだろう。天国と地獄が重ね合わされたような読後感はなかなか後を引きますし、この物語の構造は、一読だとなかなか全容をつかみづらく、再読することでより詳しく理解したいという欲求が起こります。そして、もう一度初めから読んでみることでより理解が深まるところがあると思いますので、再読必至な物語と言えるでしょう。

 あと、この作品はいわゆる百合というやつです。壮大すぎる百合なので、百合好きはマストバイ。百合ミス好きはこれを読む&推さない手はないと思うので、それを自任してる人たちはぜひぜひこの作品を読んで広めて欲しい所です。

あらすじ 

 とある小国で恋塚愛埋はメイドとして仕えている。ある日彼女は”相棒”のハカセとともに〈古代人形〉たちが住む〈世界樹の苗木〉の調査に出向く。これまで交易していた〈古代人形〉たちが何故か姿を消してしまったというのだ。世界樹を調査し、交易屋を探せ――それが国王が二人に発した勅令だ。〈古代人形〉たちが中に入るのを禁止していた内奥へと足を進める恋塚と博士。彼らはそこで、棺を運んでいる少女たちと出くわす。

 彼女らの住処に案内された恋塚と博士。〈古代人形〉の行方は少女たちも知らないらしい。恋塚らの街に住んでいたという少女たちは、なんとなく気がついたら、苗木の中の館で暮らしていたという。守衛がいるはずの関所をどうやってくぐったのか……彼女らを不審に思いつつ、すすめられるままその館で一夜を過ごすことにする恋塚とハカセ。そして事件が起きる。年長で一人だけ名前すら明かさなかった茶髪の女性が殺され、しかも入り口の鍵がなくなり、彼らは館に閉じ込められてしまう。事態の打開を図る恋塚とハカセだが、やがて第二の殺人が。

 事件を解明しようと乗り出す恋塚とハカセは、館に隠されていた世界の秘密にふれ、ついに二人は事件の真相に到達する。そして、よりおぞましい世界の「真実」が姿を現す……。

 

感想

 お姫様とメイド(恋塚)のパートとメイド(恋塚)とハカセのパートがカットバックで語られていくわけなのですが、一国の存亡がかかる不穏な空気が横溢するお姫様パートと、密室殺人を中心にしたミステリのパート。二つのパートはそこにまたがって登場する恋塚をはじめ、どこか共通する部分がありながら、しかし何かが決定的に違う違和感を纏い、それぞれの物語は進んでゆきます。その二つの物語は、一体何なのか。それを結びつけるのが、恋塚とハカセが遭遇した殺人事件です。人間そっくりの〈古代人形〉なのではないか、という疑いがぬぐえない六人の女性たち――殺されたのは、殺したのは、果たして人間なのか、古代人形なのか。

 まず、この古代人形という人間そっくりの存在と、そこに組み込まれた特殊設定が作り出す事件はがっつり本格ミステリなロジックが支えています。恋塚とハカセは一つ一つ仮説を組んでは状況に否定され、試行錯誤しながら真実に迫ってゆきます。その過程が面白くできていてよい。メインとなる第二の事件は、一見何てことなさそうな状況ですが、証言や状況を整理することで、簡単に見えた事件が密室殺人へと謎が深まってしまうという展開で、とてもいい。こういう何てことなさそうな所から謎がより手強くなる演出は、著者にきちんとしたミステリのセンスがあることをうかがわせます。そして、上手くいくかに見えた推理が、あと一歩およばず、真実がすり抜けてからがまた、ワクワクさせられます。

 本作のミステリ部分は特殊設定を軸にしたものですが、その設定を特殊なロジックというよりは、ごく当たり前の人間のレベルに落とし込んで展開させ、状況を再構成しつつ真相を明らかにしていきます。状況の理由がパズルのピースがハマっていくように再構成されてゆくさまがとても気持ちいい。

 そして、事件が解決されるとともに、もう一つのパートである、姫とメイドのパートが大きな意味を持ってきます。帝国が狙う世界樹の棺、それを持ち出した彼女たちの逃亡劇の果て。棺の中にある物が姿を現し、それまでの物語の「真実」が姿を現します。このスケール感がすごく、物語が統合されることで、新たな物語が顔を出す構成はある種のカタルシスがあり、本当に素晴らしい。前述しましたが、事件の謎ときが世界の謎ときに連動して、読者が物語を越境する感覚は個人的に大好物なので、大いに堪能しましたし、そういうものが好きな人に特に勧めたいところです。

 

 

※ 以下はネタバレ込みのメモみたいなものなので、特に目を通す必要はないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミステリ的には、 犯人を見たけど憶えていない、という京極夏彦の作品をSF的な解釈で成立させた作品でもあるだろう。

人形の機能

 ●〈創造主の安眠〉:アンドロイドが自分のことをアンドロイドではなく、人間だと思い込むこと

●〈ケッコンシステム〉:人間の魂をアンドロイドに移すシステム。

人間から人形に魂を移し替えられる。人形から人形も可。

魂を移し替えられた人間+人形は「人間」としてふるまう。

 

◇恋塚ーハカセパート (以下ハカセパート)

時系列:以後(おそらく)

キャラクター

恋塚ー人形(姫の魂) 博士ー人形(旧世代のメカ) アンリ(人間) インビ(人形) ウロン=吸魂の巨人 フメイ(人形) ホノカ(人形) グレイ(人間:帝国兵)

 

◇恋塚ー姫パート (以下姫パート)

時系列:以前(おそらく)

キャラクター

恋塚=人形(姫の妹の魂)姫(人間)ハカセ(メカ?)ラインハルト(人間?) 長(?)

 

  ■恋塚の流れ

  1. 恋塚はもともと、人工呼吸で姫の妹を助けようとした際に、姫の妹の魂を取り込んでいる。
  2. 姫パート(以前)に棺から出てきた吸魂の巨人(ウロン)に魂を捧げて帝国兵の殲滅を願う。吸魂の巨人は魂をエネルギーに力を使うため、恋塚の(姫の妹)魂は消滅したと思われる。
  3. その後、姫が恋塚の抜け殻にキスすることで、恋塚(姫の魂)になった。P303:「そのときは、しょうがないから、『眠れる森の美女』みたいに、わたしがあなたの王子になって、キスしてあげるわ」

 

気になる点

クリスタルの短剣:姫パート(以前)で壊れているが、ハカセパート(以後)では恋塚が変わらず磨いている。恐らく、人形の恋塚が壊れていると認識せずに「いつもの通り」磨いている。つまり、以前と以後で恋塚の中身(魂)が入れ替わっているということか。

傘山教:空を覆う赤いカーテンを遮断して、通常の空を見せているらしい。帝国の首都にあるらしいので、帝国もやはり、人間多数の国家なのか。

世界樹の苗木の長:こいづかと名乗る彼は何者だったのか? 個人的には一番の謎。彼は何者だったんだろう。彼の「血」が剣を急激にさび付かせているため、人間とは思えないが……。恋塚シリーズというか、“恋塚”というのはメーカー名なのか?

世界樹の木の苗木からなぜ〈古代人形はいなくなったのか〉:世界樹で交易していた方が人間だった? 外の人形たちに魂を移すことでいなくなった?(それだと死体が出ていないのが奇妙だが)

インビら6人はどうやって世界樹の苗木の中に入れたのか:グレイはもともといたとしても、残りの五人はどうやって門番を通過したのか。

なかなか説明が付けづらい所もあるので、正直他の人の解釈を読みたい。あと、ここ読み落としてるよ、という指摘があればぜひお願いしたいです。

 

 あと、二度目の巨人兵器との戦い、ということなのだが、果たしてそれは本当なんだろうか。もしかしたらこれを繰り返しているのではないか? 例えばマトリックスのシステム化されたザイオンのような。恋塚とハカセのフェーズは果たして何番目なんだろうか……という思いもよぎるが、正確なことは分からない。

狂気が見た白昼夢:映画『まぼろしの市街戦』

 

  名前は聞いていたけど、観たことがなかった映画。今回、デジタル修復版が出て、気軽にに観れるようになって、ようやく鑑賞を果たせました。

 あらすじ

 第一次世界大戦後期、ドイツ軍が占領していたとあるフランスの町。劣勢により、ドイツ軍は街を撤退することにするが、彼らの後にそこを占領することになるイギリス・スコットランド軍を吹き飛ばそうとコンクリートで固めた火薬庫に時限装置の仕掛けを施す。街のレジスタンスがそれを察知し、連絡を試みるが、肝心の仕掛けについて言及する前に撃たれ息絶えてしまう。

 街に爆弾があることはわかった。しかし、それがどんなものなのかは分からない。イギリス・スコットランド軍は、爆弾の詳細とその解除のために、一人の通信兵を街に先行させることにする。フランス語が喋れるということでその任務にあてられた二等兵プランピックは、相棒の伝書鳩を入れた籠を片手に街へと向かう。

 街はドイツ軍が撤退し、住人達も避難した後でもぬけの殻のようになっていた。しかし、まだそこに残された人々がいた。精神病院に残されていた人々だ。街に潜入したプランピックは、最後まで居残っていたドイツ兵らに追われ、その精神病院に逃げ込み、なんとか彼らをやり過ごす。その際、名前を問われてハートのキングと答えたところ、それを聞いていた精神病院の人々に王として担ぎ出され、人のいなくなった街でパレードを行いながら教会へ向かい、戴冠式を行うことに。

 ひたすら戸惑うプランピックだが、自身を王と無邪気に慕う彼らや一目ぼれしたコクリコという少女たちとの、戦争から無縁なひと時を楽しむようになり、また彼らに親しみを抱く。

 街に仕掛けられた爆弾の存在するところは判明するが、それを起爆させる時限装置は分からない。ただ、起爆するのは恐らく日付が変わるころだとは判明する。とりあえずみなを街の外に連れ出そうと煽り、先導するプランピックだが、彼らは街から出ようとしない。街の外には野獣がいる、そう彼らは主張し、戻ってしまう。そんな彼らを見て、プランピックは一人で出ていこうとするも、出来ず彼もまた街へと戻る。最後を彼らと過ごそう――プランピックはそう決心する。

 最後の夜、彼はコクリコと過ごす。時間はあと三分。「無限の三分だわ」そう言うコクリコに微笑むプランピック。しかし、その次に言ったコクリコの言葉が、ついに彼に起爆装置の場所をひらめかせる。そしてプランピックはその場所――騎士が鐘を叩く時計塔へと走るのだった。

 

感想

 戦争というのは、巨大な精神病院みたいなものなのだ。この映画は、そう言って戦争を嗤う。チャップリンの『独裁者』は文字通り独裁者を嗤いのめしていたが、ラストの戦争についての演説はかなり真面目だ。それに対してこの映画は最後まで戦争を嗤い続ける。

 戦争という非日常が日常に変わり、異常は正常へと変わる。そんな中でも精神病院に閉じ込められていた「異常者」たちは、街から彼ら以外がいなくなることで、戦争という異常の空白地帯になった街に出る。戦争という日常にぽっかり空いた平和な街という非日常な場所は、そっくりそのまま患者たちのいる場所となる。

 患者たちは、その街で思い思いの服装を着て街の中でパレードを行う。司祭や伯爵、将軍や娼館のマダム。そして主人公は王様の格好。どこか古臭い格好だ。そして、どこかサーカスめいた雰囲気も漂う。実際、クマやチンパンジー、ライオンといったサーカスの動物たちが闊歩していたりする。あくまでそこは「非日常」の場所なのだ。

 プランピックは、兵士という服装を王のそれで上書きされることで、街の人々の中に入る。そして、いったん兵士としての自分に戻るが、それを捨て去り何者でもないプランピック自身として、彼らの中に入ってゆく。世界が狂気と化した時、狂人の居場所とされた場所が、まともな場所として逆転する。殺し合いをする方がよっぽど狂っている。最後に素っ裸のプランピックが、精神病院の鉄柵の前に鳥籠を持って佇む姿はすごく象徴的だ。その鳥籠の中に入っているのは“平和”の象徴であるハトなのだ。

 狂人たちに呆れられる世界は、しかしその後、史実として第二次世界大戦というより悲惨な狂気を呼び込むことになる。精神病院のなかに帰れた人々も、やがて、彼らこそ率先して迫害され、収容所という狂気の中の狂気へと追いやられるだろう――この映画の冒頭で出てきた滑稽な「伍長」によって。歴史のことを考えると、この一瞬だけ現れた白昼夢のようなその光景のはかなさが、一層際立つような気がして、美しく滑稽だけどどこかやるせない思いもまた、押し寄せてくるのだ。

 それにしても、戦時中に突如出現する祝祭空間の雰囲気はすごくいい。CGとかではなく、実際にある街並みと人々の衣装と音楽によって、どこか不思議な空気感が醸成されていて、その白昼夢感がたまらない。そして、美しさを感じさせるカメラ。その何とも言えない映像を観るだけでも見る価値はある。というわけで、観ていなければぜひ。