蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

少女の運命を世界が引き受けること:映画『天気の子』

 観てきましたよ、新海誠の最新作を。とりあえず感想に入る前に、私個人の新海誠作品との距離感というか、遍歴みたいなものを書いておきましょうか。(あ、先に言っておきますが、あらすじはめんどいんで省略しますね)

 新海誠の名前を知ったのは一応、その最初の作品である『ほしのこえ』でした。弟が、一人でアニメ作ったすごい人がいるということで知らせてきたのが始まりだったのです。観てすごいとは思ったものの、正直、当時のというか(今も)その時に流行っていたサブカルチャーの気分というか、まあ言ってみればエヴァの支配する空気になじめないものを感じていたので、特にその作家性にのめりこむことはなかったのでした。その後も一応、弟に付き合わされる形で『空の向こう、約束の場所』『秒速五センチメートル』『星を追う子供』をDVDで観ましたが、何とも言えない気分だったことを覚えています。

 そんなわけで特にファンでもなければ意識もしてなかったわけなのですが、そんな自分が何故『君の名は。』に足を運んだのか、あまりよく覚えていないんですよね。ただ何となく予告につられたのとSNSで話題になってたから、だったかと思います。それで、『君の名は。』を観てから、もう一回『ほしのこえ』から『言の葉の庭』まで観てみた次第です。それでもまあ、初期作品の印象はあんまり変わらなくて、個人的に新海作品で良いなと思ったのは『言の葉の庭』と『君の名は。』という感じです。

 あと、特に新海誠をめぐって語られる泣きゲ―にも興味ないし、それらが席巻していた90年代後半から00年代のサブカルチャーの空気が苦手だった人間の感想ということを始めに言っておいて始めようかと。セカイ系という言葉もあんま好きじゃなかった。(ちなみにアニメは10年代に入ってからの方が割と好きな人間です。一応、世界名作劇場とか『白鯨伝説』あたりの衛星アニメ劇場で育った人間ですが)

 とはいえ、なんというか感想が言いにくいんですよね。ああ、面白かったなという感慨は確かにあるのですが、手放しでエンタメとして楽しんだ、と言うには胸の中に澱のようなモノが観終わった後に結構溜まっている。純粋に楽しかったという意味でなら、『君の名は。』の方が私は好きだとは思います。まあでも、この『天気の子』は大ヒットした前作の陰画のような、ある意味双子のような作品なので、どっちが好きかはあまり意味はないかな、とも思いますが。

 今回も前作同様、少年と少女の話ではあるのですが、前作が男女のお互いへの思いの比率が同じような感じで、それぞれがそれぞれの場所で頑張ることで手を伸ばし合う物語だったとするなら、今作は男の子の思いの方に寄せていて、男の子が女の子に手を伸ばす物語――そういう意味で、過去作品の構造に回帰しています。男の子が女の子の力に意味を与え、彼女がその役割を演じることで女の子から引き離されてしまう。だから今度は自分が与えてしまった役割から彼女を解放するために、あらゆるものを振り切って会いに行く。そういう男の子の、まあ言ってみれば幼いエゴで物語が駆動してゆく。そのどこか不均衡な感覚が、観る人を戸惑わせると同時に、主人公を好きになれない要因の一つになっているように思いますね。

 主人公である森嶋帆高君は16歳で、いい子ではあるのですがかなり幼い印象を与えます。まあなんというか、すべてにおいて行き当たりばったりで後先ほぼ考えていない感じとか、女の子や女性に対する初々しいというよりは、それに相対する自意識のウザったさとか。個人的に一番アレだと思ったのは、陽菜さんの「雨やんで欲しい?」という言葉に平然と「うん」と答えるところ。まあそうしなければ彼女が“失踪”しないという作劇上の都合もあるのでしょうが、彼女の運命を知ったあの状況でうんと屈託なく言える考えのなさは、帆高君を象徴しているように思えますね。

 まあ、こんな感じでちょっと好感を抱きにくい主人公を据えながら、しかしその主人公への好感で駆動するエンタメの文法を取っているため、確かに構造上後半のカーチェイスや帆高君がひたすら走るシーンなど、エンタメなんだろうなと思いつつ、俯瞰的な形で観てしまうそういう人が前作よりは多かったんじゃないかな、という感じはしました。

 ただ、その俯瞰しつつも、その主人公のまっすぐさに感じ入ったことは確かで、それが最後にもたらしたものに対して、その踏み越えた感に驚かされつつも、彼がそれを選んだのなら、それはそれで構わないんじゃないかな、という感じでした。もちろん、そのこと自体がいいのか悪いのか、という議論はあるとは思いますが。

 全体的には、手放しで楽しかったと言える映画ではなかったのですが、それでも一回目よりは二回目の方が断然良かったし、なんというか、雨が波紋を広げてゆくようにしみじみとした良さが広がってゆくような、そんな映画だったと思います。個人的には『君の名は。』よりは勧めずらい所はありますが、でもいい映画だよ、という感じでした。

 ※ここから先は、ネタバレ込みで色々と踏み込んだ感想となるのでそのつもりでお願いします。

 

 

 

 

世界の形を決定的に変えてしまったんだ――

 このセリフを聞いて、またまたあ、なんかいわゆる00年代的エモーショナルな比喩か何かなんでしょ、と思ってたら沈みましたからね、東京。三年雨が降ってああなるのか、とかそういう突っこみは置いておいて、少年が少女を取り戻したことでそうなってしまったことを監督は描いた。

 しつこく作中で代償がどうとか個人へのそれとして伏線を張りつつ、破る気満々だったが、その代償を払わないのではなく、都市の方に、そこへ住む人々へと転化した。何も知らず、知ろうとせず、少女を犠牲にしようとした世界に代償を支払わせたのだ。そして、それは彼らが三年後に再会し、ともに生きてゆく世界でもある。

 情況を変える大きな力を持つ少女と彼女に惹かれる無力な少年。その関係性が彼らを取り巻く大きな状況と対峙する時、押しつぶされるのは幼い彼らであり、無力な少年に同調することでやるせなさや、短い少女との触れ合いに感じ入るタイプの物語がある。それはどちらかというと通過儀礼的な形で消費されている、と思う。もちろん異論はあるだろうが、そういう物語の悲劇を泣きとして享受しつつ受け止めることで「大人」の側から、物語を批評的に見ようとする態度、それは00年代がどうとかじゃなくて、割とある物語とその受用のされ方だった。

 痛みを、喪失という代償を払い、大人になりなさい。そういう物語の定型を信奉する場合、その規格からはみ出した物語を主人公たちに都合のいいものだと攻撃する傾向がある。前作はそういう批評的態度の標的になった部分があり、今作もまたそういう批判は散見される。

 しかし、どうなんだろう。特別な力を得た少女にすべてを背負わせて文字通り人柱にした世界で、なにも知らない、どっちかというと彼女を使役して晴れを享受していた人々はそれでいいのか? というふうに思える。というか、監督はそんな幼い少女一人で救われる世界というものを拒否して、少しずつ少女の運命をその他多くの人間たちに背負わせることを選んだ。一人の人間が人知れず原罪のようなものを背負って消えるのではなく、それをみんなで分け合うこと。私としては、喪失の物語がどうこうというよりも、そういう物語の方がずっとましだと思った。

 なぜ、須賀さんが部屋の窓を開けて室内に水を入れてしまうのか、一見して謎な行動なのだが、おそらくそういう「水」を引き受ける物語であるということを暗示しているのではないか。須賀さんの部屋は沈む東京への暗示なのだ。

 主人公の帆高君ははっきり言って好きなタイプのキャラクターではないし、その幼さや視野の狭さにイラつく人は多いと思う。まあでも、だからこそできることなんだろう。純粋なまでに愚かだからこそ、出来ることはある。ただひたすらに会いたい少女のために線路や高架を走る帆高君。そこには前に向かって進む意志しかなく、すべてを振り切って走り抜ける姿は、たぶん多くの人間がやりたくてもできない、出来なくなった眩しさがある。まあ、メタ的にも見えるというか、帆高君と彼にやめろとか笑ったりする周りの人はたぶん監督と観客だよね。線路を走る彼を止めもしないし、ただ単に口しか出さない我々をしり目に、監督は突っ走る。そういえば、どこかの南極アニメの女隊長さんが言っていた。「思い込みだけが、現実の理不尽を突破する」のだ。

 監督はパンフレットのインタビューにおいて、調和を取り戻す物語はやめようと思ったと語っている。さらに、帆高と社会の価値観が対立する物語であり、その価値観とは社会の常識や最大多数の最大幸福であると。それらがしたり顔で個人を押しつぶして調和を取り戻そうとする社会や物語に監督はそれこそ狂っているのではないか、という気分をぶつけている。帆高と対立する価値観こそが正しいと思っているのなら、監督の方こそ狂っている、となるのかもしれない。

 まあどちらにせよ、世界なんて狂っていて、その狂った世界で生きていかなくてはならないわけで、そこで新しい物語を生み出したい。そんな監督の意志は観る人々に様々な波紋を投げかける、そんな映画になっていたことは確かだろう。

 この映画の作画――その雨や光の描写は相変わらずすごく、じっくりと描かれた東京の街やそこでの帆高の生活を音楽とともにダイジェストで回してゆく前作で確立されたやり方は相変わらず楽しい。天気の子という題名だけあって、雨だけではなく、快晴や嵐、雷や雪といった様々な天候とその中の都市の姿も楽しめる。ただ、正直コメディ要素は前作ほど上手くはいっていないような気がした。それと、やっぱりあくまで帆高君の思いの物語という感じで、陽菜さんはそのためのマクガフィン的要素が強い。その辺は何か「古い」感じがしなくもない。

 あと、はっきりわかる商品のタイアップがウザいという声があるが、監督曰く貧しさの表現でジャンクフードに喜ぶ話として、タイアップの商品でそれをやるというのは逆にすごい気もしたし、そもそも都市の話なのだから、都市のご飯としてどん兵衛だとかからあげクンだとかは、そういう生活実感を感じさせる上で効果的だったように思う。

 

 まあ、そんなわけでそろそろ筆を置こうと思いますが、一人の女の子に助けられる世界なんかよりは、彼や彼女が思いのままに突っ走れる世界の方が、まだましで、そのために狂った世界を彼らと一緒に引き受けるのも悪くない。そんな気もしたのでした。それが正しいのかは分からないけれど。

 

追記:他の人の感想を見ていると、素直で真っ直ぐな映画、であったり、暗くて自意識過剰な映画だとそれぞれが違った見方が出てきていて、ある種鏡のような見た人に様々な想念を抱かせる映画となっているようだった。

 一方で、やっぱり俺たちの新海だったという言説がちらほら散見される。「俺たちの新海」とはどういうことなのだろうか。こういった言説は、まあまあよくあることで、メジャーマイナー関係なくある程度作品を続けていれば、その作家の最初からのファンという人々が醸成する、作家を中心とした「我々」という共感的な認識が形成される。

 そしてそれが、はっきり言って厄介なのは、「我々」から踏み出そうとする、もしくはそう彼らが一方的に感じた場合に鎖となって、作家を縛り付けようとすることだ。それが、「俺たちの何々」という言葉の根底にあるものなのではないか。つまり、前作は彼らにとって「我々」の外に出ていたのだろう(本当にそうか、という問題もあるが)。だから、今回は戻ってきてくれた、という気分が、その言葉を言わせているのだろう。

 はっきり言ってくだらない。それにそれは、様々な人に大きくリーチする『天気の子』という作品を小さくすることでしかない。優れた作家は常に自分の故郷となる場所に軸足を置きつつも、常に前進し変容しようとするものだ。宮崎駿は初期のファンのあのうざったい「冒険活劇」という鎖を無視することで小さな「我々の作家」という存在であることを振り切った側面がある(もちろん、プロデューサーの役割も大きいだろうが)。新海誠は、前作で怒った人をもっと怒らせたいという姿勢を示したが、それとは別により厄介で、だからこそ怒らせないといけない存在があるのではないか。

 まあ、そんな風な私の思いも、作る側からしてみればどうでもいいことではある。気にせず進んでいくのだろうし、私はそれを見ていきたいな、ということだ。

 追・追記:『天気の子』観て「地球規模で迷惑なバカップルの話」と短絡するのは結局、お前が黙ってれば全部うまく回るんだよってのが染みついてるんだよ。確かに自然にそう思うくらい学校が職場が国がそう言ってくる。自分だってそれに浸かり切ってるけど、いい加減ふざけるな、と思わないか。

ボンクラ・マッドマックス 映画『ターボキッド』

 

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 この映画、チャリンコマッドマックスとか言われてたりしますけど、それなんか違うというか。確かに世界観はポストアポカリプスで、あっちは車やバイクでこっちはチャリというのはそうなんですけど、チャリで激走するヒャッハー! なやつらがぶつかり合ったり宙を舞ったり、首から落っこちてヤバイ感じでぐんにゃり、みたいなのを思い浮かべちゃうと、マッドマックスちゃうやんけ、となっちゃうかもしれません。

 なんというか、荒廃した世界観やマスク被ったキャラとか水を独占する凶悪な集団とか、ガジェット的には取り揃えてるわけなんですけど、どっちかというとそういうマッドマックス風味な世界観で語られる、いわゆるオタクちっくなボーイミーツガールのお話です。

 とはいえこの映画、ゴア描写がヤバイ。とにかく手がちぎれるのは序の口で、顔が輪切りになったり、体が分解されたりと血しぶきマシマシな描写が満載。よって、そういうのがだめな人はあまりお勧めできない内容だと思います。

 個人的にはどっちかというとタイトルに書いた通り、ボンクラ・マッドマックス、という映画だったように思いますです、ハイ。

 

あらすじ

 1997年、世界は崩壊していた。戦争が核の冬を呼び込み、寒冷化した地上は水も食料も乏しく、ひたすら暴力によって荒廃している。そんな無法地帯でゴミ漁りをしながら少年キッドは独り生きていた。漁った廃品は街のクズ屋に渡し、わずかながらの水を得る。その水はこの地の領主であるゼウスが取り仕切っていて、その水によってゼウスは人々を支配しているのだ。

 そんな荒廃しきった世界を鼠のようにして生き延びているキッド。彼は幼いころから、漫画のヒーローにあこがれている。住処の地下シェルターでターボライダー主題歌を聞きながら、ヒーローに思いをはせる孤独な少年。

 ある日、クズ屋のおまけにもらったターボライダーの漫画を公園跡地で読んでいた彼に、急に近づいてきた少女がいた。不思議な雰囲気を振りまき、彼に友達になってほしいと迫る彼女はアップルと名乗る。これまで旅してきた友達が死んじゃったの、と彼女が指さす先にはミイラ化した死体。あまりのことに逃げ出すキッドだが、彼の腕につけた腕時計型発信機でアップルは彼の住処に上がり込む。そしてニコニコしながら言うのだ「友達になって」と。

 半ば気味悪がりながらも、物おじすることなく距離を詰めてくるアップルに、キッドは渋々ながらも友達ごっこに付き合う。次第になんとなくアップルに気を許すようになるキッド。ある日、廃品漁りに出る二人だったが、その途中彼女はゼウスの配下たちに連れ去られてしまう。逃げるキッドは、自転車が突っこんだ先で謎のシェルターを発見し、そこでターボライダーそっくりのスーツとレーザー武器であるグローブを手に入れる。力を手に入れたキッドはアップルを救出にゼウスの工場へと赴く。

 一方、街では人がたびたび消えていた。アームレスリングのチャンプ、フレデリックは消えた弟がゼウスの下にいるらしいことを突き止め、ゼウスの工場へと乗り込んでゆく。捕らえられたフレデリックはそこでゼウスが牛耳る「水」の正体を知る。そこにはアップルの姿もあり、彼女を救出に来たキッドが乱入。彼らは共闘してゼウスと闘うことになるのだった。

 

感想  ※この先はネタバレ込みで語るので、そのつもりでお願いします。

 

 荒廃したマッドマックスな世界。しかしそこには車やバイクの姿はなく、移動手段は何故だかみんなチャリ!(説明はねえ‼) マッドマックス張りの激しいチャリンコアクションを期待してたところはスカされた形でしたが、荒廃した世界で強面の男たちが総じてチャリに乗っている絵面は面白いです。北斗の拳のモヒカンたちがみんなチャリに乗っている光景は、どんなシリアスなシーンもカッコいい&厳つい男もオタク少年と同様のダサさの中に収まって笑わずにはいられません。案外、このチャリンコ効果というものは、この主人公であるオタク少年がマッドマックス的な世界でも埋没しないための重要な要素なのかもしれません。

 悪のアジトたる工場入口に横付けされた無数のチャリは、なんだかゲーセン前の光景みたいで著しく緊張感を欠き、主人公たちが逃げるのも、なんか不良から泡喰って逃げる可笑しみが漂います。だからこそ、オタク的なボンクラ要素が馴染んでいるのかな、という気もしますね。

 とはいえ、ゴア描写はほんと容赦ないです。首や胴体真っ二つで血が噴水みたいにピューピュー飛び散りますし、それはもう基本で、ミキサーで目ん玉あたりの顔をひき潰されたり、ばらばらにした手足を機械に放り込んで水を作るためにひき潰すは、最低なのが、キッドの知り合いのクズ屋拷問シーン。腸を自転車の車輪につなげて漕いだら腸が飛び出して車輪に巻き付きチューブになるとか悪趣味ここに極まれり。主人公が手に入れるレーザーグローブもエグくて、当たった人間が水風船みたいに血液散り飛ばして爆散します。

 そんな強烈な血みどろの中で何が語られるのかというと、オタクなボーイミーツガール。ヒロインのアップルは初っ端からヤバ目な不思議ちゃんぶりが強烈で、女の子をろくに知らない少年にぐいぐい来ます。ふと現れた美少女にぐいぐい来られて戸惑いながらも仲良くなり、そして、やがて明らかになるのは、アップル、彼女は家庭用のロボットだったーーって、なんかアニメみたいだな。というか、日本の特撮やアニメよりな気がするんですよねなんだか。タイトルロゴの出るシーンの光の使い方なんかもろ80年代から90年代の特撮(仮面ライダーBlackとかメタルヒーローあたり)っぽいですし、劇画的なアメコミ読んでるのにキッドが描くアップルの似顔絵はなぜか日本の漫画チックなタッチだし。なんというか監督のその辺の趣味も感じましたね。

 そういえば、水がないなら、人間がいるじゃん! ということで人間絞って水を作るっていうネタはなかなか個人的には見たことなかったので、ちょっと新鮮な感じがしましたね。食い物にするというのは結構あるんですけど、わざわざ水。マトリックスの電気くらいメンドクサそうですが、サトウキビ絞るような感じでぶつ切りにした人体を放り込んでメキメキ機械が巻き込んでいってました。

 ロボットヒロインの再起動だったり、ゼウスの赤い機械の目はターミネーターだろうし、ハンマーでヌンチャクや機械の隻腕とかヒューマンガスちっくなマスクマンだとか、映画オタクのあれやこれやが詰め込まれて、ほんとボンクラ・マッドマックスという感じでした。

 でも意外と終りはしっとりというか、死んだら星になるという主人公が母の思い出を語るシーンが上手く効いていて、おバカで残虐なだけじゃない、儚い恋物語として芯が通っていたかな、という感じでしたね。なかなかいいB級映画だったかなと。まあ、残虐シーンはひたすらひどいですが。

 何のために、このブログでだらだら長い文章を書いているのか。その感想をもって人に作品へ手を伸ばしてもらうため? 残念ながら私にそんな力はない。

 そういうのは芸能人がアメトークとかで言及したり、SNSで著名なアカウントが触れるので十分だろう。それは誰がやるかが重要で、そのキャラクターに人は大きく影響されるのは、ある意味当り前のことだ。彼らがサイコー、というそれに張り合おうなんて思っちゃいない。

 じゃなんでこんなメンドクサイ、ただでさえ読みにくくて、へたくそなかんそー文を書いてるかって、そりゃまあほとんど自分のためだ。その時の印象を忘れないように、そしてその時の自分の中に想起された何ものかを言葉にしておきたいわけだ。その言葉を探すために長々と自分の中にもぐって、言葉にならないことばたちを拾ってくっつけて無様なオブジェを作っている。まあ、ただ読み捨てたり観て終りっていうのがちょっと虚しいからというのもある。

 自分の言葉を探す、正直それがこんなにも難しいとは思わなかった。ほとんどが人の猿真似だ。適当なテンプレをそれっぽく加工するのが関の山。でも、一瞬だけでもいいから、その時感じた自分の感情をカタチにしたい。それはほとんどが敗北の連続で、なんでこんなことやってんのか分かんなくなる時もある。というか、分かんないので、こういう泣き言みたいなことを書いているわけだ。ていうか、実は『ザンヤルマ』の記事が気負った割にはあんなものにしかならなくて、ぶっちゃけ気が滅入ったというのが大きい。

 まあ、それはどうでもいいことだ。チリみたいなもんだし、いちいち自分の言葉が綴れなかったとしても、好きなものを語るネットのチリの一つで十分だ。そういう色んなチリも積もればな一つのチリ。そういうものになれるから、ネットは素晴らしいのかもしれない。

だだっ広い孤独:映画『荒野にて』

確かにわれわれ人間は弱く、病気にもかかり、醜く、堪え性のない生き物だ。だが、本当にそれだけの存在であるとしたら、われわれは何千年も前にこの地上から消えていただろう。    ――ジョン・スタインベック

 孤独の風景。そのイメージはどんなものだろうか。部屋の片隅や大都市の群衆の中――御手洗潔が東京タワーから見る明かり一つ一つに孤独な魂を見たように、それは人々が住む都市の中にある――そんなどこか人工の風景に置かれた個人を思い浮かべるかもしれない。ある意味20世紀的な孤独だろうか。

 だが、孤独というものが人間一人一人の内にあるとするならば、その人がいる場所は関係がない。狭苦しい部屋や街を出れば孤独は癒されるだろうか。大自然はそれを受け止めてくれるだろうか。そんなことはなく、部屋の外、都市の外にもただただ、広々とした孤独が広がっている。

 行き場のなくなった少年と競走馬。どん詰まりの彼らが行くその荒野もまた、果てのない孤独そのものなのだ。こんなにも広いのに、どこにも居場所がない。そんな現実がどこまでもどこまでも広がってゆく中を、少年は歩いてゆく。

 

 あらすじ

  チャーリーは15歳の少年だ。そして、少しづつ父以外のものから切り離されてきた。母が去り、父と大喧嘩した叔母が去り、そして学校に行かなくなったことで友達とも会うことはなくなった。仕事を変えて転々とする父についてゆくことで、チャーリーはその父という細い糸でしか社会とつながっていられない。いつの間にか、そんな場所にチャーリーはいた。

 ある時、早朝の競馬場近くをランニングしていた彼は、タイヤ交換を手伝った縁で、車の主の競走馬を世話する仕事を始める。彼はそこでリー・オン・ピートという名の競走馬の担当をするようになる。オーナーのデルや女性騎手のボニーなどを通して、彼の日常は少しの広がりを得てゆく。

 しかし、それも長くは続かなかった。チャーリーを父親として愛してはいたが、自分の楽しみの方を優先してしまう父は、その不倫がついに相手の夫の知るところとなり、殴り飛ばされて大けがを負ってしまう。その際に突き破ったガラスが腸を傷つけ、それがもとで死んでしまう。唐突な父の死。

 そしてピートもまた、その競走馬としての命がつきかけていた。ボニーは競走馬を愛するなと諭す。レースに次ぐレースで足を痛め、これで勝てなければというレースでも惨敗し、ついにオーナーであるデルはピートを売り払うことに決める。メキシコ行き――それは殺処分を意味していた。

 わずかな幸福が少年の掌から零れ落ちてゆく。チャーリーはピートを乗せたトラックを盗み、わずかな、そして唯一のつながりとなった叔母であるマージ―が住んでいたワイオミングへと向かう。一人と一頭。持金は早々に尽き、トラックはやがてエンストし、彼らは荒野に分け入る。少年はピートに語り掛ける。本当は友達といたかった。彼らとフットボールがしたかった。でも、学校をやめてから会いに行くことはできなかった。今の自分を見られたくなかった。自分は大丈夫だと思ってもらいたかった。

 当り前だと思っていた日常から滑り落ちてしまった彼ら。そして、少年はあまりにも非力だった。

 二度目の別れは唐突に、無慈悲に、あっけなく訪れる。それでも、少年は歩き続けるしかない。かすかな記憶と希望を握りしめ、どこまでも広がる孤独の荒野を抜けることを祈って。

 

感想 ※ここから先はネタバレ前提で語る形となるのでそのつもりで

 

 この映画は道から始まる。コンクリートで舗装された道だ。人はそこを通ってゆく。コンクリートで舗装された道は、人が社会で生きていることを示している。少年はそこから滑り落ち、道なき荒野を歩くことになる。そしてそのどこまでも広がる荒野は、少年の孤独だ。

 少年は居場所を次々と失ってゆく。父と住む家、ピートの厩舎。荒野の先で世話になる親切な男たちの家もまた、少年がいるべき場所ではない。監督はこの物語を少年と馬ではなく、経済的な葛藤がある状況の中でもがいている人々の物語だと語る。

 アメリカの田舎の貧しい人々。そこはセーフティーネットが乏しく、零れ落ちた者を他の者が救い上げるのが難しい社会。父が傷つき、救急車を求める少年の叫びをぼんやりと見て、鈍い動きの隣人は、そういう今の社会を象徴しているような光景だ。

 社会から零れ落ち、そして誰かとの関係性が乏しくなっていくことが少年を孤独にする。彼は虐待を受けているわけでもなければ、いじめられているわけでもない。自ら望んで独りになったわけでもない。しかし、それでも独りになってしまうことがある。寄る辺なきものになってしまう。そうしようと思わなくても、道から外れてしまうことがある。そして、どこに行っても茫漠とした孤独が広がる場所へ放り出されてしまうのだ。

 少年たちの荒野の逃避行は、どんなに広々とした場所を征こうとも、開放感はなく、ただただ胸を締め付けられる。その征く姿を美しく撮られれば撮られるほど、彼らの孤独感が観る者に刻まれてゆく。

 最後に残ったあるか無きかの細い糸を手繰るようにして叔母のもとにたどり着いたチャーリーは言う。父やピートは溺れる者の様だった、だから助けたかったのだと。誰もが自分自身のことで精いっぱいな世界で、自身もおぼれながら、他者を助けようとした少年は、そこでようやく涙を流すことができた――岸にしがみつく子供のように、叔母にしがみついて。彼は自分のやりたいことを語る。学校に行き、フットボールがまたしたい――。

 チャーリーを取り巻く環境や人々は決していいものではなかった。父はふらふらした生活はやめなかったし、厩舎のオーナーや女性騎手は自分たちの利益を取ることを優先した。炊き出し先で出会ったホームレスは酒が入ると豹変し、金を奪った。チャーリーだって、車を盗んだし、万引きも食い逃げもした。金を奪ったホームレスを殴ったりもした。

 それでも父は真にチャーリーを愛していたし、デルやボニーは親切にしてくれた。ホームレスも身を案じて自分のキャンピングカーにチャーリーを招いた。そして、叔母はチャーリーを迎え入れてくれた。チャーリーもまた、父やピートのために働き、彼らを愛した。すべては彼を孤独にした。しかし、それでも彼を孤独のままにはしなかった。

 ラストシーンはコンクリートで舗装された道。チャーリーはそこを再び走ることができた。彼は振り返る。その表情は幸福感であふれたハッピーエンドではなく、これまでの現実を振り返り、それを見つめるようなものだ。彼の人生はまだ終わりではない。

 それを背に、これからも道は続いてゆくのだから。

炎とその一瞬の静けさ:映画『プロメア』

 CGアニメの一つの到達点といっていいのかもしれない。素晴らしいアクションが、アニメーションの“動き”の快楽が横溢している映画であり、早くも今年ナンバーワンのアクションアニメ映画が出てきちゃったかもしれない……というと気が早すぎるかもしれませんが、しかしこの映画のアクションは一見の価値があります。DVDで観るのはもったいないというか、大画面でぜひ、とお勧めしたいですね。

 あらすじ

 製薬会社の高層ビルが爆炎を上げて燃え上がる。

 その要救護者多数の現場に向かう巨大なレスキューモービル。それはこの都市、プロメポリスが擁する高機動救急消防隊、バーニングレスキューのものだ。

 炎上するビルの炎は、普通の炎とは違う。それは生きもののようにうねり、バーニッシュと呼ばれる三十年前に突如現れたミュータントたちが発する特殊な炎。

「オレの火消し魂に火がつくぜ」バーニングレスキューの新人、ガロ・ティモスは燃え上る炎を見上げて見えを切る。屋上にいる要救護者救出のため、レスキューギアとともに直上射出。そして、救護者救出後、炎の中にガロは異形のものたちを見る。

 マッドバーニッシュ。炎を操るミュータントであるバーニッシュの中でも、炎上テロリストとされる者たち。その多くが逮捕されたが、そのリーダーと二人の幹部は逃走中だった。その彼らがガロの目の前にいる。

「燃やさなければ、生きていけない」「燃えていいのは魂だけだ」

 それが、マッドバーニッシュリーダー、リオ・フォーティとガロとの邂逅だった。

 

感想 ※かなり軽くですが、内容にふれているため、そのつもりで。

 あっちーな、オイ! みたいな感想が口々に聞かれ、みんなが期待する、いよ、トリガー屋! な要素が凝縮された二時間(正確には111分)。まあ、まずそう言って間違いないでしょう。私は正直ガイナックスの流れをくむTRIGGERというスタジオのアニメは、そこまでハマったためしはないのですが(リトルウィッチアカデミア以外は、グレンラガンキルラキルもそこまで……という人間です)そういう、いきなりの水を差すようなことを言っちゃいつつも、しかし、そんな私ですらもそのノリと勢いの熱い奔流に飲み込まれました。二時間程度というのもよかったのかもしれません。

 とにかく主にビルやメカ、炎や氷といった3Dとキャラクターの2Dという作画の融合具合が独特の世界観を作り出していて、まずその世界観が気持ちいいい。一見マインクラフトみたいなピクセルのカタマリって感じなんですが、そのあえて目指したローポリ風の3DCGに、中間色を避けたビビッドな色が乗り、とても気持ちのいい空間が出来上がっていて、そこを縦横無尽に飛び回るキャラクターたちが見事に融合しています。線を抑え気味にして、ベタ塗とグラデーションで統一感を出したという画面は、その融合具合がとても爽快で、そこへ炎と氷がぶちまけられて、そのクラッシュ感というか、そのピクセル的な3Dの破片が飛び散る感じがまた一層爽快感のある画面を作っています。炎の表現は凝っていて、特に赤を使わずピンクや緑の蛍光色を使った色の表現はとてもいい。

 それからこの作品、3Dな画面を表現としてもうまく使っていて、四角や三角といったもので構成されたものをそれぞれプロメポリスという体制側、そしてバーニッシュ側というふうに使い分けています。そして、それらの融和としての円の意匠。その辺はレンズフレアがはっきりと表現していて、そういうレンズフレアの使い方は新鮮でした。なんというか、四角いレンズフレアがプロメポリスを照らすところでおっ、という感じで、なんかすごく新鮮に思えたんですね。あと、それを考えると、四角い入れ物に入れられて、三角に切り取られる円、というピザは、プロメアを象徴する食べ物と言えるでしょう。

 作品全体ではアクションに次ぐアクションで後半なんか怒涛の展開続きなんですが、それゆえにメンバーがピザを食べてるシーンだったり、ガロとアイナが氷結湖でスケートしたりという穏やかなシーンが意外と印象的に残ったりします。洞窟の中のシーンだったりエリスとアイナの場面もですね。アクションだらけの本編だからこそ、静かな場面が一層印象に残る感じです。

 プロメアというものがもたらしたものと人間の意志というテーマは深掘りやろうと思えばできそうなところもあると思いましたが、そこはあまり突っこまずに地球を燃やし尽くす、という解決で突っ走り、やり切ったその爽快感が冷めぬまま、ガロとリオの拳と拳、突き合わされるそれを丸いレンズフレアが照らして幕、という潔い終わり方はとても良かったと思います。ストーリー展開はベタで後半のSF設定をベラベラしゃべるところはグダグダなところはありますが、そのアクションはとても清清しく、そのセリフよりも様々なキャラクターの感情を語っていたと思います。

 あとなんというか、見えを切る、というのはアニメにとってやっぱ大事なことなのかもしれない。スパイダーバースもすごかったんだけど、超絶アクションの積み重ねが、なんかずっと動いてた、で終わってしまったのは、多分人間は結局、静止画の印象的なポーズの方が記憶に残るからなんじゃかかろうか。優れたアクションを包む印象的なパッケージとしての見栄は、意外と大事なのかもしれない、そう思ったりしたのでした(あのシーンって、思いだしやすくて記憶が強化される、というのがあるのかもしれない)。あと音楽ですね。澤野弘之による鳴ってほしい時に鳴るその素晴らしい音楽が、より一層アニメーションの快楽を高めていることは間違いない。

 まあとにかく、そのポップで色鮮やかな世界と、ところどころに挟まる静謐な空気。その炎の中の静かな一瞬もアクション以上に要注目な映画だったと思いますね。

 

ヒーローなんかじゃない:映画『タクシー運転手』

 ヒーローでも何でもない男がいる。彼は貧しいタクシー運転手で、家賃を滞納しつつ娘と一緒に暮らしている。その日を生きるために働いている、ごく普通の男だ。初めはただ、支払いのいい外国人を乗せる仕事を耳にし、それをかすめ取って一儲けしようとしただけだ。だが、それは彼を“戦場”に導くことになる。

あらすじ

 1980年。韓国では長く続いた軍事独裁政権が終わりを告げたかに見えたが、依然政権は軍が掌握し、民主化を求める学生たちのデモは全国に広がっていた。光州では20万人規模のデモが起き、軍はこれを暴力で鎮静化しようとし衝突は激化。光州市は軍に封鎖される事態となり、現地で何が起こっているのか分からなくなりつつあった。日本にいたドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターは現地の様子を報道するため単身韓国に渡り厳戒下の光州に入ろうとする。そこに現れたのが、タクシー運転手のマンソプ。旨い話を聞きつけて、もともとチャーターしていたタクシー会社から仕事をかすめ取る形でユルゲンを光州に送り届けることになった彼は、サウジアラビアに出稼ぎに行った時のあやふやな英語で調子よくごまかしながら光州に向かう。変な外国人をソウルから光州に送り届けるだけの仕事――その程度だと思っていたマンソプだったが、光州に入って彼が見たものは、血だらけの人々とそれを追い立てる軍隊の姿だった。催涙弾が街を覆い、人々の悲鳴と炎が飛び散る。軍がそんなことをするはずがないとうろたえるマンソプの前で、市民と軍の衝突はいよいよ激しくなってゆく。それはまるで戦争の様だった。そして、やがてマンソプにもその「戦争」の火の粉が降りかかってくる。

 

感想

 学生デモなんてくだらない、高い金を親に払わせて大学に行ってすることか。おとなしくしていればこの国ほど幸せに暮らせる国はないのだ――マンソプそういうごく一般的な、政治に無関心な市民だ。彼の大切なことは目に見える範囲にある。彼は自分の感覚的な思いが及ぶ範囲でしか物事を見ようとしない。

 自分の暮らす国で起こっていることだが、興味も関心もなく割のいい破格の報酬目当てに光州へとタクシーを飛ばす。そんな彼が光州に入ることで、ようやく自分の国で起こっている事態に直面する。事実を目にしたマンソプだが、だからと言ってどうなるわけでもない。真っ先に考えるのは、自分の身の安全だ。私服軍人に追われ、殴られ、恐怖にかられた彼は、ユルゲンやそこで出会った人々に背を向け、一人光州から逃げだす。

 真実の中から外へ。彼は元居た場所へと戻ってきた。しかし、元の何も知らなかった自分には戻れない。外では、かつての自分と同じように何も知らない人たちが、政府の流した情報を信じ、迷惑なデモ隊が多数拘束された程度の「平穏」な日常が流れている……。食堂でふるまわれたおむすびを見つめるマンソプ。同じように光州でおむすびをくれた女性は、軍人に殴られ、血まみれで病院に運ばれていた。

 自分には娘がいて、自分の帰りを待っている。しかし……マンソプは自分が眼にした真実を見なかったふりをして娘と暮らすことはもはやできないのだ。自分の生活を守ることでいっぱいで、ずるい所もあり、小心な男は葛藤の末、ついに光州へと引き返す。ユルゲンを、彼がカメラに収めた真実を、光州の人々の願いを、政府によってその目を覆い隠された人々へ届けるために。

 この映画は事実に基づいた映画でありながら、実際に光州での事件を写真に収めた記者を主役にしてはいない(一応もう一人の主役ではあるが)。あくまでメインに据えたのは実際の、ユルゲン氏を送り届けた人物とは違う、あくまで小市民的な造形としたごく普通の男。彼は別に正義感やジャーナリスティックな真実への興味など持ち合わせてはいない。ただ、そこに居ただけだ。しかし、そこに居てしまったことが彼を決心させる。真実を伝えてほしい。そう願い、軍に立ち向かう人々。それはごく普通の人々が戦う姿だ。マンソプもまた、そんな人々の中の一人として、そしてタクシー運転手として自分にできることをしようと決心する。

 そこに居る人たちが、自分たちの仕事の延長で立ち向かっている。それを象徴するのが、タクシーの運転手たちで、彼らは自らのタクシーを駆り、軍に立ち向かっていく。そこは手に汗、目に涙の素晴らしい場面だ。彼らは別にヒーロー然としているわけではない。どこにでもいそうな普通のおじさんたちなのだ。そんな人々が自分たちにできる精いっぱいで立ち向かってゆく。そこにはなんのスーパーパワーもない。しかし、だからこそ私には、スーパーヒーローの映画以上に感じ入ることができた。

 卑小な小市民が、自分の見える範囲の外にも生きる人々を認め、自身の目にした真実から逃げない。これはそんな映画だ。彼はヒーローなんかじゃない。しかし、だからこそ自分にできることをする彼の姿は、ヒーローであること以上に尊いのだ。

 なんだか結局、全然上手く書けないじゃん、という思いがうつうつと重たくのしかかり、文章指南書に手を出すことにした。というわけで、鶴見俊輔の『文章心得帖』を読んでいるわけだ。いつまで続くか分からないにせよ、こんなふうに外に向けて公表する以上、一応分かりやすい文章書きたいと思っているのです……一応ね。

 この本の中で著者は紋切り型を突き崩すことを執拗に求めている。要するに他人の言葉で書くのではなく、自分の言葉で書けということだ。まあ、基本中の基本としてよく言われることだろう。とはいえ、紋切り言葉を共有するというか、それで囲い込むことが即効性を持つわけで、なんだかんだ言ってそういう「共感」型文章が「読みやすい」んじゃないの、と思わなくもない。だが、僕はそういう「人気者」的な気の利いたことはできそうもない。リアルでもネットでも、隅っこでブツブツつぶやくだけなのだ。

 まあいい、続きに行こう。その紋切り型を突き崩すために必要なのが誠実さ、明晰さ、そしてわかりやすさ、ということらしい。誠実さはそういう紋切り型に頼らず自分の言葉で話すようにすること。明晰さははっきりとしていることで、そこで使われている言葉がきちんと自分で説明できるということ、そしてわかりやすさは言葉通り、特定の読者に対して〈わかりやすい〉こと。その読者は、自分であってもいい。とにかく分かりやすくということだが、けれどもと著者は続ける。わかりやすさというのはたいへん疑わしい考え方で、究極的にはわかりやすいということはないとする。

 自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。だから、表現というのは、何かを言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る。そういう風に著者は結論付ける。

 そして、割り切れる文章がいい文章ということではなく、重大な問題を抱えてあがいているというか、そのあがきをよく伝えているということがいい文章なのではないか、というふうに著者は言う。

 結局のところ、こうこうすれば、良いのだというような形式やマナーなんてなく、ただただ、なにを、いかに伝えるのかということについて、徹底的にあがくしかないということなのか……なんかますます気が重くなってきたぞ。

 まあでも、そういうことなのかもしれない。とりあえず誠実で明晰で分かりやすくを目指して、その永遠にたどり着けない場所に向けて精いっぱいあがくということ。そして自分の言葉を探し続けること、なのかもしれない。

 しかし、ある種のセラピーみたいな、「解放」を求めて始めた部分があると思うのだが、霧の中を彷徨ってるみたいになっていくのはどうしてなんだ。過去の文章を読み返すとその不格好ぶりに毎度毎度目を覆いたくなる(まあ、そのたびコソコソ修正するんだけど――だからといって綺麗に成形されてるわけでもないが)。

 まあ、お決まりの言葉はなるべく使わずに、紋切り型を突き崩すことを目指して苦悶するしかないのかな……と。なんか余計気が重くなっちゃったじゃないか、みたいな感じで回帰してしまったが、この本自体はとても面白いというか、あてもない文章の暗がりを征く、そのほんの少し先を照らしてくれるような、そんな文章たちが詰まっている。

 

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)

文章心得帖 (ちくま学芸文庫)