蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

「論理」の吊り橋が架からぬ場所へ:T・Sストリブリング『カリブ諸島の手がかり』

われわれが理性と称しているものは、ふつう思われているように絶対確かできっかりとした働き方をするもんじゃないんです。理性が働くところを調べてみたら、それが実にあいまいで、いくつかの仮説のなかからあてずっぽうに解答に飛びつくようなものだとわかるでしょう。理性がやっと正しい仮説にたどり着くと、やおらそこから目的の地点へと論理の橋を架けはじめます。おかげで理性は橋を渡ったも同然だと思うわけですが、実はそうじゃない。いざ渡りはじめると、橋はぐらぐらゆれだすんです。

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

 

 

 私はストリブリングの名探偵ポジオリ教授シリーズを偏愛しているのですが、そのミステリの特異性というか、自己言及性やその先駆性についてものすごいものを持っていると常々思っていて、そのことを今回は書いていこうかな、と。そのために全部で三冊出ている翻訳の感想を書いていくつもりです(あくまでつもりですが)。まずはその第一弾である『カリブ諸島のてがかり』について。

 ポジオリ教授――彼はT・S・ストリブリングの創造した名探偵なのですが、クイーンやカーが活躍し、探偵小説の黄金期と呼ばれる20年代後半からの時期にあって、なんだか妙な位置にいる探偵です。名探偵とは事件を解決するヒーローであるという役割が、ホームズから脈々と受け継がれており、まだそれが大方の認識であった時代。そんな探偵小説黄金時代のただなかで、名探偵がほとんど無力な存在であるように描かれ、アッサリ敗北してしまう姿が描かれてしまう。そんな『カリブ諸島の手掛かり』を筆頭にして、ストリブリングは数々の短編で、名探偵とは、推理とは、という問いかけを含んだ事件を、かのクイーンに先立つ形で、ポジオリ教授に遭遇させていきます。それは、英国人らしい茶々で名探偵に取り組むバークリーとはまた違った、異様ともいえる事件を作り上げていきます。バークリーは茶化しつつも、ミステリの大枠を信頼している前提はあったように思います。一方でストリブリングにあったのはミステリに対する純粋な疑いの視線です。

 そういう意味でもやはり、クイーンの先駆けというか、おそらくクイーンの後期作はストリブリングの影響を少なからず受けているように思います。まあ、『カリブ諸島の手掛かり』以来、探偵小説から遠ざかっていたストリブリングにポジオリ教授ものを依頼し、自身の編集するEQMMエラリー・クイーンミステリー・マガジン)に新作発表の場を与えたぐらいですしね。

  さて、ポジオリ教授が活躍するシリーズについてですが、そもそもこのシリーズには本格ミステリとして期待されるような意外な犯人、驚天動地のトリックや緻密な論理、さらには鮮やかな構図の反転や伏線の妙といった、「採点」しやすく分かりやすい要素はことごとく「弱い」と言っていいでしょう(そういった美点がないわけではありませんが)。まあ、ストリブリングと言えば、とやたら挙げられる「ベナレスへの道」には分かりやすいラストの衝撃がありますが、そこばかり見ていると、ポジオリ物の短編が持つ本当の特異性を取りこぼしてしまいかねません。 そもそも、「ベナレスへの道」はそれ単体――特にラストの実は……という部分で評価するよりも、『カリブ諸島の手がかり』という連作の流れの中で評価されるべきだと思っています。 まずはポジオリ教授が初登場する「亡命者たち」からして、当時としては特異な名探偵の在り方をストリブリングは描きます。当時のほとんどの作家は作品に探偵を登場させる以上、ホームズにせよクイーンにせよまたはポワロだろうがH・Mだろうが、初登場時から絶対の名探偵として、いわばヒーローとして出てくるのですが、ポジオリ教授はそれらの名探偵と違って、初めからゆるぎない名探偵としての地位を与えられていません。「亡命者たち」にて、犯罪学者として事件解決に自ら名乗りを上げるようにして初登場する教授ですが、結果的には事件を快刀乱麻と解決することなく、事件自体がひとりでに終わるような形で幕を閉じます。その後も、ポジオリ教授は事件に介入しては苦い結末を味わっていくのですが、何故か世間では彼を名探偵として認識していってしまう、という皮肉な展開のすえ、有栖川有栖氏が言う所の"探偵小説の底が抜ける”結末が教授を連れ去ってしまいます。

 『カリブ諸島の手がかり』におけるポジオリ教授は結局最後まで名探偵らしいことはあまりしないのにもかかわらず、名探偵として地位だけは確立していきます。ここでストリブリングは、名探偵や真実が、ただそれだけで成り立っているのではないことを暴き立てていきます。探偵小説の中で、絶対のものとして扱われる名探偵や彼らが推理する真実は、はたしてそれ自体で成り立つのか? ストリブリングは名探偵やその推理が帯びていた絶対性に揺さぶりをかけていきます。探偵の推理やそれが描き出す「真実」は、それを聞くもの――第三者やそれらが形成するコミュニティという「名探偵」の外側にあるのでは無いのか? つまり名探偵はかれがいる場所の法や社会の慣習といったシステムとは無縁の存在ではいられない。彼が存在することを許しているシステムによって、またその範囲においてのみ、名探偵は名探偵でいられるのではないのか。そんな疑念を突き付けてくるのです。

 そして、問題作「ベナレスへの道」をもっていったんポジオリ物は途絶えるのですが、前述したように彼の作品に惚れ込んだエラリークイーンによって、再度ポジオリ物を乞われ、クイーンの編集するエラリークイーンズ・ミステリマガジンにて、再スタートを切ります。そして、教授は活躍の場をカリブ諸島からアメリカの東海岸へと移すのですが、そこでもまた教授はシステムが作り出す犯罪に向き合うことになります。

 

 とまあ、えらい長い前置きになりましたが、ここからはその第一弾である『カリブ諸島の手がかり』について、収録作ごとに語ってゆきましょう。ネタバレ前提で語るので、そこは注意をお願いします。

 

 まずは、「亡命者たち」

 舞台はオランダ領西インド諸島キュラソー。そこにあるホテル、サラゴサホテルはかつてベネズエラから亡命してきた男とその娘が経営している。そこへ、ベネズエラの独裁者、“偉大なる”ポンパローネがその秘書とともに国を追われ、サラゴサホテルに逗留していた。そしてその元独裁者と食事を共にしたホテルの主人が毒殺される事件が起こる。嫌疑をかけられたポンパローネは己の潔白を晴らすために警察以外の真相の探究者を募り、そこへ名乗りを上げたのがオハイオ州立大学の心理学者ポジオリであった。

 元独裁者によって見つけ出される探偵という、その誕生からしてなかなかです。名探偵といえば法や秩序、そしてそれが円滑に機能する(と思われている)民主主義という観点から語られる場合が多いわけですが、元独裁者によって生み出されるポジオリ教授は、その出自からして著者の皮肉な視線が込められているように思います。そして、そんな教授が理性について一席ぶつシーンが、この記事の冒頭に引用したものです。

 一見、橋が架かったかに見えても、いざ渡り出すと揺れる。それはある意味、名探偵の論理が机上のものでしかないのでは、という疑いの視線です。そして、“名探偵”はその橋を恐る恐る渡る。そして、自分が架けたその橋に翻弄されることになるのです。

 この事件のワインと埃のロジックは筋が通っているように見えてどこかあやふやです。毒入りの埃のついたワインを持ってきたのは毒殺された主人自身であり、目印のそれが、きれいにされたのならば彼が気がつかないのはおかしい。そして、最後に娘の豹変も変です。彼女はポジオリの話を聞く機会はなかったはずだし、秘書を殺す理由もよく分からない。事件のラストは、それも含めどこか薄気味悪さが漂っています。そしてラストの一文の、どことなく湧いてくる狂気を押し込めるような文章が、それに拍車をかけているのです。

「カパイシアンの長官」

 次の舞台はハイチ。そして、その北部の都市、カパイシアンの長官であるボワロンに反乱軍を統べるまじない師との対決を依頼されます。彼の“魔術”の真相を探ってほしいというわけです。反乱軍の中へ足を踏み入れ、まじない師のもとへ行かなくてはならず、正直なところ尻込みするポジオリ。あげく逃げ出そうとするも、なんだかんだで退路をふさがれる形でまじない師のもとへと送り出される姿は、名探偵というにはいささか情けなくて笑いを誘います。

 この作品で、ストリブリングは早くも定型的なミステリを逸脱します。名探偵とまじない師が対決し、名探偵がまじない師の胡散臭い“魔術”のトリックを見破る、というのが通常の名探偵物語として期待される展開でしょう。しかし、はっきり言ってここではその魔術や対決などはどうでもいいのです。名探偵と未開世界のまじない師との対決、そのミステリ的な展開の外側に、もっと大きな枠がある。ポジオリは、名探偵は、カパイシアンの長官が仕掛けた思惑の道具でしかない。実のところポジオリが魔術の謎を解くことなどどうでもよく、彼が反乱軍のところへ送り込まれることそのものに意味があったというその真相は、そういえばメタルギア・ソリッドみたいなテイストです。

 「名探偵」という存在自体を利用するという、この先進的な試みはやはりクイーンに影響を与えたことは想像に難くありません。そして、名探偵というちっぽけな存在はその“魔術”についての説明をしたものの、政治や文化の大きな流れに押し流されてゆく。

 この作品、分量がかなりあり、事件について以外の厚み――文化論や宗教観があって、そこもまた読みどころですね。アメリカ文化の帝国主義的な影響――文化の均一性に対する警戒感みたいなものが「芸術的なモチーフをなくすことで、その民族の世界全体がだめになってしまうんです。モチーフを生み出す民族だけが、それをあらゆるかたちで響き合わせながら、芸術を発展させることができるのです」というある人物のセリフに現れているように思います。

 この芸術論が独裁論と響き合い、芸術のために独裁者を作ろうとする奇妙な理論も展開されたりします。以下の抜粋する部分がその根幹となるのですが。

民主主義の自由なんてどれほどのものです? たちの悪い政治の仕組みのおかげで、人類の指導者にふさわしい人物が自分についてくるよう人々を説得することに力の大半を費やすはめになっているじゃないですか。それにひきかえ独裁政治は、指導者が一民族を挑発し、民族はその全精力を壮大な事業に捧げるんです。 

  要するに、一個人の巨大な権力が、民族を総動員して巨大な芸術をなす。よって芸術を解する専制君主を待望する。それがまじない師を騙る男の求める反乱の果ての「天国」であり、それが、ポジオリと犬の鼻で崩壊するのは皮肉なのか何なのか。

 最後にポジオリの、文化がとてつもなく進んで、どんな異質な人種や文化も歓迎する日が来るかもしれないという希望を語りつつも、このような言葉で締めくくられます。

でも、その日は遠いよ、オステルワスキー。ひょっとしたら来ないかもしれない。そんな遠い時代が訪れる前に 、全世界の人々の心がすっかり白人化してしまう、このほうが充分ありうる話だよ。そうなったら、だれもが毎日毎秒、食料品を作るのに専念する。どう始末するのか、だれも知らない。たずねる者もいない。世界中にこんな主義が広まるんだ。食料は生産するものであって、消費するものではない。衣類は作るもので、着るものではない……

「アントゥンの指紋」 

 次のポジオリが訪れたのはフランス領、マルティニーク島。そこで今度は国立銀行の金庫破りに遭遇する。前二作でのあつかいに反して、名探偵としての名声が高まってしまっているポジオリは、ここでも名探偵としてこの事件に出馬を要請されます。犯人は手袋をしていたという状況証拠がありながら、指紋を残しているという奇妙な謎にポジオリは突き当り、さらにその指紋の主――アントゥンを追うも、彼は三日前に死んでいたという事実。その真相は、ちょっとギョッとさせられるものがあります。死人の指紋、そして探偵がその埋葬された場所を暴けば、まあ、手首を切り取られた死体が……みたいな話を予想しますが、ストリブリングはそこを少しひねった形にして、謎の解答とともに妙なおぞましさを出しています。そして常に目の前にいた犯人に気がつくも、逮捕することは叶わず、またしてもポジオリは名探偵として不完全な形で事件と、そして最後に犯人が遺した言葉を見送ることになります。

クリケット

 イギリス領バルナバトス島。そこでもまた、ポジオリは事件に遭遇する。この作品は、これまでのポジオリの虚名が確固としたものとなる話であり、またその「名探偵」の虚名の構造こそがメインの話ともいえます。この事件においてもポジオリは再び煮え湯を飲まされる結果となるのです。というか、犯人を間違えるという失態を犯すのです。真犯人は別の刑事に無事逮捕されるのですが、ポジオリがそれまで取っていた行動を目撃していたそれぞれの人々の証言が、回想という形を経て新聞というメディアに統合されることで、あの時のアレは犯人逮捕のための行動だったのか、という風に「解釈」され、さすが名探偵、とポジオリは人々から祭り上げられるのです。メディアを通して、人々のポジオリは名探偵という思い込みが、より強固なものとなる。

 真相への個々のアプローチは間違ってはいなかったが、真相を外す「名探偵」。このあたりの読み味はバークリーに近いかもしれないですね。ここで、ストリブリングは名探偵とはその推理によるよりも、人々がそう思うから「名探偵」であるという視点を導入しています。本当のことを見通すから「名探偵」になるのではない。「名探偵」とは、人々が生み出すものなのです。「カパイシアンの長官」にて、元独裁者によって誕生した「名探偵」は、民衆によってその地位を確固たるものとする――それはなんとなく、皮肉な視線に思えますね。

「ベナレスへの道」

 そしてついにこの作品です。

 トリニダート島でポジオリ教授は不思議な感覚にとらわれます。ヒンドゥー教徒の結婚行列を眺めていた時のこと、寺院にのみこまれたその行列が、目の前から消えたのではなく存在自体が消えたのではないか、というぎょっとするような印象をポジオリは覚える。そしてポジオリ教授は同時にその寺院に解脱(ニルヴァーナ)の教えを感じ――寺の建築そのものが自己滅却の教義を思い起こさせたのです。以前より、建築物が人の心にどういった影響を与えるのかというテーマに心を奪われていたポジオリは、その寺院に興味を持ちます。そしてその寺院に泊まることを試みる。白人が泊まれるわけがない、と知り合いには一蹴されたポジオリですが、彼は好奇心を抑えられず、ひそかに寺に入り込み、一夜を明かします。それが、恐ろしい運命の始まりであった。

 その後、寺院でポジオリが目撃した花嫁行列の花嫁が首を切られた死体で発見されるというおぞましい事件が発覚。寺院にいた五人の乞食、花婿、と次々に容疑が向く中、ついに寺院にいた白人――ポジオリに嫌疑がかかり、彼は逮捕されてしまう。

 ちょっとした気まぐれがやがて真綿で首を絞めてゆくように、悪い方へ悪い方へとポジオリを追いつめてゆく展開は、それだけでもエキゾチックな怪奇小説として面白みがあります。そして、この事件の背景には読者やポジオリのいる世界とは全く異なった論理があることが分かります。一方でポジオリに嫌疑をかける理由などは「こちら側」の理論で動いている。犯人であるヒーラ・ダースはそういう、二つの場所で引き裂かれた人間なのです。彼は言います「そんなわけで、外国へ出て異郷の地に住み着いたわれわれヒンドゥー教徒は、世襲的階級(カースト)を失うんですよ。まさに社会的面目(カースト)を失った存在になりますから。われわれはインド人でもイギリス人でもない。引き裂かれた存在なのです。だから、再び同胞にまみえるような人間になるには、西洋に染まった身も心も、ここトリニダートに置いていかねばならないんですよ」

 西洋の理論に則ってドルやポンドを集めてきたこの富豪は、そのよるべなき自身の老いた姿を埋め合わせるために、インド人の部分ーーヒンドゥー教の理論を用いた。そして、ベナレス(聖地)への道を開こうとしたのです。そしてそれがポジオリを連れてゆくことになってしまう。ヒーラ・ダースの自身の西洋への禊によって、西洋の側であるポジオリは今度は彼の側へと足を踏み入れてしまう。

 『ポジオリ教授の事件簿』で山口雅也氏が言うところの《向こう側》へ足を踏み入れたポジオリ。そこで彼は、この『カリブ諸島のてがかり』の中で一番といっていいほどの見事な論理の橋を「名探偵」らしく作り上げます。しかし、その「橋」はもう、ポジオリを元いた世界へ返す、いかなる場所にも架かることはないのです。

 ポジオリ教授がカリブ諸島をめぐるうちに、浮き上がってくるのは、その「名探偵」という存在の頼りなさ、そしてその根拠のなさです。「名探偵」も、彼の「推理」も、その場の状況に翻弄され、押し流され、ついには彼岸へと流されてしまう。そんな名探偵の姿は、エラリー・クイーンを通して、現代日本本格ミステリーの「名探偵」という概念に大きな影響を与えたのではないか――それは贔屓、欲目なのかもしれませんが、そう思わずにはいられないのです。

のっぺりとした絶望の世界で:映画『太陽を盗んだ男』

 DVD観て、そういえば昔、こんなの書いてたなというのを思い出したので。

 『太陽を盗んだ男』――。長らくカルト的な扱いを受け、映画好きたちがひそかに、しかし脈々と語り継いできた伝説の映画は、やがて多くの支持を得てオールタイムベストなどの常連となる。かつての邦画に宿っていた熱気、映画を観ることの喜びが荒削りな形で観る者に叩きつけられ、今観ても映画を観ることの原始的な快楽の一つである映像そのもの楽しさは輝きを失うことなく、時を経るごとにその唯一無二の輝きを増しているのです。

あらすじ

 夜明け前の原子力発電所を、双眼鏡越しに静かにに見つめる男がいた。彼の名は城戸誠。中学の理科教師として日々をどこかけだるげに過ごす彼は、その生活の裏側で原子爆弾を作るという計画を進めていた。派出所の警官から催眠ガスで拳銃を奪い、原発襲撃の準備を進める中、城戸は修学旅行の引率中、バスジャックに遭遇する。生徒と城戸を乗せたバスをジャックした犯人は、天皇に会わせろと皇居へと突撃するが、その手前で警備に阻止され、犯人はバスに籠城する。犯人の要求を包囲する警察に伝えるため、一人解放される城戸。そこで彼は指揮を執っていた男、山下に出会う。事件は山下の捨て身の活躍により、犯人の射殺という形で幕を閉じ、城戸は再び日常に回帰する。

 いよいよ計画を固め、原爆制作の要であるプルトニウムを奪取するため原発へ忍び込んだ城戸。まんまとプルトニウムを奪い、本格的に原爆の制作に取り掛かった城戸はついに原子爆弾を造りだし、原爆保有国が8つあることから、自分はその九番目の男――9番と名乗り、日本政府を相手に脅迫を開始する。そして、彼がその交渉のために指名した一人の男、それは城戸が遭遇したバスジャックを解決に導いた男、山下だった……。

 

感想 ※ネタバレ前提ですので注意です
 この映画は、黒澤や小津などの一般的に言われる芸術性の高い名作映画といったものではなく、映画全体の造りもかなり荒っぽいものです。しかし、この映画に込められた映画なるものへの熱量は、観る者を映画の中に巻き込んでいく非常に魅力ある力を秘めています。もちろん、原爆を作って政府を脅迫する、というプロットも面白いのですが、何よりもまず映像が面白い。ショットの一つ一つに演出の工夫やアイディアが込められていて、単純に映像を見ているだけでも楽しいのです。今となってはこんなショットの映像は撮れないだろうものがバンバン出てきて、その映像のとんでもなさは本当にすばらしい。

 そして、キャストも魅力的です。原爆を作る教師、城戸には当時人気絶頂の沢田研二。そして彼を追う刑事、山下には菅原文太という初共演の二人がとにかくイイのです。沢田研二は70年代終わりから80年代にかけて顕著になる、豊かさの中で何をすればいいのか分からず、ただただモラトリアムの中を漂流しているような若者の姿をどこかけだるげに演じ、対する菅原文太はそのアナーキーな刑事っぷりももちろんですが、何と言っても後半のターミネータに先立つターミネーターっぷりはインパクト絶大です。

 沢田研二演じる城戸誠は、冒頭で日常に倦んでいることが示されます。形容しがたい鬱屈したものを抱え、雄叫びを挙げながら金網をよじ登ったりする彼は、その鬱屈を原子爆弾制作にぶつけていきます。しかし、原爆を造る前からそれを使って何をしたいのか、彼自身にも分からないことも示され、日本政府を相手に脅迫を始めたものの、最初に要求することと言えば、いつも9時に終わってしまうテレビのナイター中継を続けろであり、次に要求することと言えばローリングストーンズの日本公演。しかも、二番目の要求は彼自身が考えたわけではなく、ラジオのDJが事件をネタにつくった原爆コーナーで、DJ自身が提案したものをそのまま持ってきただけなのです。さらに、ラストで彼が文太演じる山下に言うように、それが実現するとはそもそも思っていない。

 彼自身のそういった目的の無さは、たびたび映し出される太陽のショットがことごとく雲がかっていて、美しいながらもどこか茫洋としたものになっていることでも表されています。

 原子爆弾を造り、それがもたらす絶大な力を手に入れても、それを使って何をすればいいのか分からない。彼が欲しかったものとはなんだったのか。

 城戸は孤独な男です。学校で同僚と話すこともなく、アパートで独り暮らし。世間と隔絶し、半ば引きこもって破壊兵器を密かに造っている……というと『ゴジラ』における芹沢博士的なものを髣髴とさせます。しかし、彼には芹沢博士にやってきたようなカタストロフは訪れません。しかし、豊かで平和で、それなのにどことなくのっぺりとした日常がはてもなく続いていくような感じは、突然訪れるカタストロフよりも対処しがたい、当時の日本の若者が対面した新しい絶望に他なりません。彼はそんなやるせない絶望を、自分とは違う、しかしどことなく魅かれた一人の男に託そうとするのです。

 先ほど、彼には原爆を使って何をしたいのか目的が無い、と書きました。確かに彼は原爆を使って脅迫するにしても、その内容は他愛のない思い付きや他人の考えの流用でしかありません。しかし、一つだけ彼が明確に彼自身の意志でもって要求したことがありました。それは、自分との交渉役を山下にすること。

 バスジャックで出会った山下に、自分にないものを感じた城戸は、山下にどこか憧れめいた感情を持ち、電話越しに彼と話す城戸は普段の気だるげな様子とは打って変わって楽しげです。彼は山下には普段自分が見せないような部分を見せていきます。それはどこか、自分のことを理解してほしい、という風にも見えます。ラスト、山下に対面した城戸は言います。「あんたなら一緒に戦えると思った」

 彼は仲間を欲していた。彼自身の絶望と戦う仲間を。

 「この街は死んでいる――」そう重ねる城戸。

 しかし、そんな城戸をはねつけた山下は言い放ちます「お前が一番殺したがっているのはお前自身だ」

 自身の中に眠る本当の願望を突き付けられた城戸は、山下との最後の対決の後、彼自身がカタストロフとなり、そしてこの映画は終わりを迎えるのです。

 それにしても、改めて観るとこの映画は、本当に見どころのある画面が次から次へと出てきます。人物たちは何処か低体温気味なのに、映像からは妙な熱気が伝わってくるのです。まあ、なんというか、よくこんな画が撮れたな、というショットが次々出てきて、いろんな意味でハラハラさせられます。もうこんなことできないんじゃないでしょうか。明らかにゲリラ的に撮っていたり、早朝でいくら人通りが無いからと言って好き勝手車を飛ばしすぎだろとか、女優をスタントなしで海に放り込み、あり得ない高さからスタントマンが落っこちていたりと色々やってくれます。そういう無茶な画ももちろんですが、凝ったカット割りや編集などの演出面も見どころの一つです。そしてなんといっても時折切り取られる街の風景が美しい。特に太陽と雲が描き出す光と色のグラデーションを存分に生かした街の遠景ショットなどが素晴らしいので、そこも大きな魅力であると思います。まあとにかく、語れども語れども魅力が尽きない荒々しい魅力を持った映画、それが『太陽を盗んだ男』なのです。

 

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闇を払うは滅びの剣:麻生俊平『ザンヤルマの剣士』

 今回は私の好きなライトノベルを紹介しようかな、と。まあ、ぶっちゃけ本読めないし、それっぽい感想というか、妄想もまとまらないので……。後々それぞれの巻ずつの解説というか感想を書いていきたいとは思ってはいますが、まずはざっくりした印象解説をとりあえず書いときたいな、と。

www2u.biglobe.ne.jp

 ※その前にこの評が的確かつ見事なので、まずはこれを読んで欲しいです。ていうか、これで十分じゃね……(ということでしたが、こちらは現在サイトがなくなっています。とても簡潔で要を得た評だっただけに、とても残念です:2020/4/21)

 

 私自身はラノベが本格的に現在のような確固としたジャンルとして確立する前の、カンブリア紀っぽい、何でもアリ時期のラノベ読者だと思うんですけど、わりとすぐ本格ミステリに移行して、そこまで数は読めてないんですよね。

 とはいえまあ、そんなラノベ揺籃期の一番印象に残っている作品の一つとして、『ザンヤルマの剣士』について語りたいわけです。などと言いつつ、この作品はリアルタイムで追っかけてたわけじゃなくて、乙一氏がこういう暗いの書いてもいいんだと挙げていた、というのを聞いて(また聞きなので出典は知らない)読んだクチなんですが。

 それで読んだら、まあ暗いんですよ。なんなんでしょう、露悪的なグロとかそういうのじゃなくて、人間のもつ本来的な弱さみたいな、そういうものを主人公は自分や他者に見てゆく。そして、そこから生み出される悲劇や企みと戦ってゆくわけです。

 大まかなあらすじとしては、主人公の高校生、矢神遼はある時不思議な老人から不思議な形状の剣を渡される。それは波状のさやに収められた一見して抜けるとは思えない形の短剣。老人は言う。その剣を抜くことができたなら、巨大な力を得ることができるだろうと。そしてその剣こそが人類以前の文明であるイェマドを滅ぼし、再びこの世に滅びをもたらすとされる「ザンヤルマの剣」だった……みたいな割と定番な感じなんですが、すごく大雑把にもっぱらファンの間でのざっくり要約は“ドラえもんのいないのび太が、笑ゥせぇるすまんを追いかける話”、です。どういうことかというと、遼に剣を渡す老人裏次郎は前文明イェマドの生き残りで、イェマドの文明の遺産である便利道具を道行く人間に与え、彼らが道具の力に魅入られ、自滅してゆくのを見て楽しむ半分愉快犯みたいなやつなのです。そして、イェマドの最終兵器を与えられた根暗少年の遼が、その道具に魅入られた人間たちと戦いつつ、遺産を回収もしくは破壊し裏次郎を追う、というのが大まかなメインストーリーなんですね。

 イェマドの遺産というのは、イェマドの人間にとって、取るに足らない道具だったりするんですが、それでも人間にとっては社会や国家が動くほどの力を持っているわけです。で、そういうものを個人が手に入れてしまうことで、その人の欲望が噴出してしまう。そして、それに対峙するザンヤルマの剣を持つ遼は彼らを通じ、人間自体の弱さや愚かしさと向き合わなくてはならなくなるのです。

 大体初っ端からキツイ。彼が最初に闘うのが、ほのかに好意を持っていた同じ高校の女性教師で、次が同じように遺産を持ちながら、友達になれると思っていた人物だったりします。彼ら自身の弱さは、遼自身のものでもあった。そして、傷ついてきた主人公の前に満を持して現れるのが新興宗教という完璧な布陣。三作目の『オーキスの救世主』はオウムの事件に先駆けていたこともあり(まあ、当時自己啓発セミナー花盛りの時代だったわけではありますが)、特にザンヤルマといえば、という風にファンから挙げられる代表的な作品でしょう。

 そして、ザンヤルマの暗い所は、割と救われないというか、毎回はっきりすっきりとした終わり方じゃなくて、最悪じゃないにせよどこかやるせない思いを残すんですよね。「オーキス」も宗教に囚われたクラスメイトや人々はオーキスムーブメントが潰えた後もまた似たような救いを求めてさまよってしまう、みたいな描写があったりして、それがまあ、この作品が重たいライトノベルの一角として語り継がれる要因でしょう。そして、そんな人々の普遍的な弱さを執拗に描いてきたからこそ、読んだ者の心の中に残り続けてきたのだと思います。政治に対するポピュリズム的な人々の姿や忘れっぽい有様なんかもなんていうか、時間が経てば経つほど、“変わってない”という思いを強くさせます。

 それと、他の優れたサイト様の指摘にあるように、ザンヤルマは“敵の正しさ”というのが毎回がっちりとあって、それを簡単には突き崩せない。それは、主人公である遼にもある一面であったり、その人の側にとっては論理的に正論だったりして、容易には否定しがたいものがあったりするわけです。そして、遼は悩む。その主人公の逡巡がある意味この作品の根幹みたいなものですね。そして出した結論が必ずしも正しいものではないのかもしれない、主人公の勝利を見つつもそんな風に読者にわずかな刺を残す。それがこの『ザンヤルマの剣士』という作品なのです。

 それから敵の造形というか、そのスケールアップがなかなか良くて、より力の強い遺産が出てくるとかじゃなくて、その遺産を利用する側がスケールがアップするというのが上手い所です。どういうことかというと、遺産の力をめぐる主体が個人の欲望から次第に組織や企業、国際組織という風に大きくなってゆくわけです。オーキスムーブメントなどの宗教団体から、TOGO産業という企業、そして民族主義的な思想背景を持ち、遺産を管理しようとする国際組織FINALという風に、社会的な形で敵がスケールアップしてゆくというのは、なかなかライトノベルとしては珍しかったと思います。テーマ自体も社会的な領域に踏み込んでゆきますし。富士見ファンタジア文庫はおろか、ライトノベルとしてもちょっと特異な位置を今でも占めているのはこの部分によるものでしょうね。

 元凶である裏次郎のキャラクターもなかなか凝ってて、彼は最初から人類に対して悪意を向けていたわけじゃなくて、イェマド滅亡後、新たに生まれてきた人類に対してイェマドの段階に達するようにあれこれ干渉し、導いてゆこうとしていた。しかし、それが逆に人類の愚かさを裏次郎に刻み付けてしまう。ついに絶望した彼は、人類はイェマドとは違うただの愚かな存在でしかないということを、気まぐれにばらまいた遺産で証明しては悦に入るという暗黒面に堕ちてしまう。ある意味彼もまた善性を纏っていたキャラクターなわけです。後々、もう一人の剣士である佐波木君という著者に扱いかねているのをあとがきで謝罪されちゃうラスボスよりもキャラクターとして立っていて、裏次郎がその人類への絶望をわずかながら改めるところが、ある意味クライマックスといえなくもないです。ザンヤルマの文字通りの裏主人公かもしれませんね。元歴史学者っていうのもポイント高い。そして、彼のこのセリフがまたすごいんです。

「欲にとり憑かれた人間に、どうして世界を滅ぼすなどという何の得にもならない仕事ができるものかよ! それができるのは純粋な人間、愚かなまでに純粋な人間のみ! 教えてやろう少年。今世の人間の心の闇の深さを。どんな無知蒙昧の迷宮で愚行に耽っているかを。その迷宮の中、その闇がおまえの心を包む時、おまえは手にした剣でこの世を滅ぼすのだ」

 この一巻の最後にあるセリフが最高にかっこいい。欲にとり憑かれた人間には世界を滅ぼせないんですよ。愚かなまでに純粋な者のみが世界を滅ぼす。しかし、その愚かなまでに純粋な心が、だからこそ裏次郎の企みを挫くのです。

 この作品の本当に素晴らしい所は、痛みや疎外を描くだけではないところにあります。人間の弱さや卑屈さを描いてしまえば、何かを描いてしまったような、そういう地平から、精いっぱいの一歩を踏み出そうとする。痛みや疎外に傷ついたとしても、それでも手を伸ばす。たとえ、理想的な結末に至らなかったとしても、純粋であり続けようとする、その意志の物語。それが、『ザンヤルマの剣士』なのです。

 そういうわけで、なかなか一筋縄ではいかない話が展開する『ザンヤルマの剣士』ですが、この作品、同時代*1にあの『新世紀エヴァンゲリオン』という存在があって、世界を滅ぼせるほどの巨大な力を持たされながらも戦うことに逡巡する主人公、暗く重い展開、そしてラストに姿を現すとあるモチーフ、という共通点により、何かと一緒に言及されたりしますが、個人的にはその終盤のアレについての根幹は、ほぼ正反対だと思うのです。正直エヴァよりこっちが流行ってたらなあ……と思うことしきりなのですが。まあそれはどうでもいいことです。

 また、この『ザンヤルマの剣士』は、巨大な力を授けられてしまった少年、というテーマを見事にやり切ったという作品としても、個人的には筆頭の物語です。巨大な力を少年がふとしたことから手に入れてしまい、その力に振り回されつつも次第に使いこなしてゆき、世界を救った後にその力を返上する。そういう物語としても素晴らしい達成を見た作品だったと思います。根暗な主人公がだんだんとハードボイルドな感じになってゆくのも魅力ですね。

 あとキャラクターですが、地味といえば地味ですがみな忘れがたい人物です。裏次郎と同じイェマドの生き残りで、遼に手を貸す氷澄は嫌味で完璧なキャラクターかと思いきや葛藤して放浪したり、ホームレスに身をやつし、その過程で人間的な成長を遂げたりと、なかなか魅力的です。そして遼の親友であり、シリーズのオアシスである神田川君。後半つらい目にあったりですが、彼がいたことが、遼にとってどれほど助けになったことか。それから何といっても、遼のいとこにして主人公より強いヒロインである朝霞万里絵です。アメリカ帰りの彼女は現地でサバイバル訓練を受けていて、武装集団と普通にやり合います。あとアパートの屋上でベーコン作ったり、なんかあると酒を飲んだりとなかなかすごい女子高生。遼を逃がして囚われた彼女を救いに行くため、あーだこーだと勇気を奮い起こそうとしている遼をよそにあっさり脱出し、あげく情報収集までしてしまう、というかそのために捕まった、という場面は笑ってしまいます。実は主人公よりも色々フラグを立ててたり。かなりどうでもいいですけど、個人的な三大いとこヒロイン(ってなんだよ)の筆頭です。(残りの二人は『夢のつばさ』の深山勇希と『ベン・トー』の著莪あやめ……ってスゲーどうでもいいですね)

 ※こっからはちょっとネタバレ込みで話しますんで、そのつもりで。

 

 本作がエヴァと比較というか、同列に語られる最大の要因は最終的に立ち上がるモチーフがコミュニケーションの問題だからです。人々を隔てている「心の壁」を壊し、一つにまとめ上げる。人類補完計画とザンヤルマの剣が持つ機能は共通しているように思えますが、実のところその方向性は真逆なのです。というか、まず前提が違う。エヴァは一つになることが気持ちいいことであるという前提で、でもそれを否定しなきゃね、という話でしたが、ザンヤルマの場合は、一つになることで人々は嫌悪や絶望で自壊してしまう。一つになるということは危険なことなのだ。

 発達の果てにイェマドの人々は個とその「守護神」で完全に充足する存在となっています。個々がそれぞれ独立して存在し、その完全性こそが平穏であるとする。そのような形での「他者の不要」。そこでザンヤルマの剣が守護神に干渉することでそれを打ち消してしまい、むき出しの個々が衝突し合うことで古代イェマドは崩壊する。それはある意味、現在を予見しています。ザンヤルマから二十年ほど、我々はグローバリズムやインターネットで一つにまとめ上げられようとしていますが、そこにあったのはより反発しあう現実です。ネットが星を覆い、光や電子が駆け巡っても、我々はそれを快とは思わない。より強い反発を招き、人々は激しく傷つけあっています。そして深刻なのが、イェマド同様、心地のいい守護神(それは今についていうならばイデオロギーや人種、国家なのかもしれない)を破壊したとしても、どうにもならないのではないか、という予感です。

 それでも、だからこそ個々のつながりを求めてゆくしかない。著者は我々が生きる世界の絶望を描き、主人公にそこを彷徨わせる。そのなかで出会った人々がいたからこそ、主人公は人類の持つ愚かさという闇を払えた。一人で挑むしかなかった裏次郎の誤算はそこにあったのでしょう。結局のところ、我々はシステムによって強制的に分かり合うことはできない。それをなすのは、そうしようとする個々人の意志と勇気でしかないのでしょう。友達になろう、そう言って佐波木に差し出す遼の手こそが、希望なのだ。

 まあとにかく、そういう意味でも、私個人としてはザンヤルマの想像力の方がしっくりくるわけであり、この作品が自分の中で特異な位置を占めている理由なのです。

 なんだか妙に長くなりましたが、中身はともかくそれだけ思い入れは示せたということで。それでは、最後はイェマドのこの言葉で締めくくろうと思います。

 「今日からあなたの幸せな日々が始まりますように」

 

*1:■『ザンヤルマの剣士』:『ザンヤルマの剣士』1993年3月25日-『イェマドの後継者』1997年12月25日 ■『新世紀エヴァンゲリオン』:1995年10月4日 - 1996年3月27日 ■『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』:1997年7月19日

真っ白な牢獄:倉野憲比古『スノウブラインド』

 

スノウブラインド (文春e-book)

スノウブラインド (文春e-book)

 

 

 ドイツ現代史の権威、ホーエンハイム教授。その邸宅は蝙蝠館と呼ばれ、軽井沢近郊の狗神窪と呼ばれる小さな窪地に佇んでいた。そこはかつて住人が野獣と化したという奇妙な伝説が残る土地。12月、そこへ毎年の恒例として招待される教授のゼミ生たち。携帯の圏外の山奥は、すでに見渡す限り、どこまでも白い風景が続く。いわゆる雪の山荘と化した蝙蝠館で事件は起きる。使用人のパトリックが密室内で毒を飲まされて死亡。その後、さらに奇怪な事態が残された人間たちを襲う……。

 いわくありげな土地に建つ屋敷、雪に閉ざされ起きる事件、密室、というコテコテの本格ミステリ的なガジェットで幕を開ける本作ですが、その先にある解決は本格ファンが期待するような気の利いたトリックや整然としたロジック、あっと驚く結末の意外性などを期待すると本を投げることになりかねません。あらかじめ言っておくと、本作はそういう本格ミステリではありません。一応、ミステリ的なひっかけネタが組み込まれているのですが、あくまでフレーバーみたいなもので、全体の装飾の一つみたいなものです。基本的には、いかにもな本格ミステリのガジェットとそれが醸し出す雰囲気を楽しむことに軸足を置いて読むのがいいかなと思いますね。繰り返しになりますが、ガジェットに基づく期待――ミステリ的な“気の利いた”もてなしは一切期待しない方がいいです。大切なので、二度言いましたよ。これは我々が概ねそう思う本格ミステリが、そういうものと整備される前の、いわゆる変格探偵小説的なものを目指している作品なのです。

※ここから先は、ネタバレ前提でいきますのでそのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この作品が目指しているのは、要するに物語の円環構造です。すべては登場人物の一人であるホーエンハイム教授の妄想――見果てぬ完全犯罪への夢。それももはや叶うことはなく、過去の失敗した事件を認めずにこれから行う“未来”の事件を過去から延々と仮構するという、ものすごくねじれた構図の中に読者を閉じ込めようとします。その最後に夷戸武比古の視点というのもまた、教授の中の夷戸武比古でしかないのかもしれない。いつまでも続く、真っ白な教授の妄想は再びまた、冒頭へと帰ってゆく。

 そういう、ドグラマグラ的な円環構造を確かに作り上げていて、その真っ白な牢獄に閉じ込められる感覚、というものこそがこの作品の読みどころであり、その構成美というか、円環のカタチを愛でる、そういう作品なんですね。

 そしてそこで起こる事件はある意味、殺人事件をあーだこーだと練り上げる著者の頭の中みたいなものでもあり、登場人物たちのフロイト精神分析とか、変格探偵小説談義やポンポン出てくるホラー映画タイトルは、著者の好きがただ漏れ状態みたいな饒舌さで、その辺は黒死館殺人事件的な面白さがあります。そして、そういう構成だからできる、事件の軌道修正を図るために時間軸を巻き戻して、同じ人間を何度も違う形で殺し、一人の殺人で複数の事件が形成されるのは、まさに作品を練ってる最中という感じがして面白いです。

 あと、教授のイドたる夷戸武比古が自身の謎解きに酔って暴走し始めると、まずいまずい、みたいな感じで教授の意識が表出するのは、殊能将之の某作っぽくて、そこもなんか面白かったです。

 まあ、多分その事件それぞれが高水準の「解決」を提供していれば、麻耶雄嵩みたいな本格教のカルト作になれたのかもしれませんが……しかし、著者が愛でているのは、そういう本格ではない戦前の探偵小説であり、物語の迷宮に読者を招き入れることなのでしょう。それはこの時代ではあまりにも困難な選択。この後2011年に『墓地裏の家』を発表後、現在(2019)まで沈黙したままなのですが、何とかふたたび筆を執って、その作品が世に出てこないかなあと思います。わざわざミステリとしないで幻想小説じゃないとだめなの? という気もしますが、やはり「探偵小説」じゃないとダメなんだろうな……。

 映画とか本とか創作物について何かにつけて分かんないからダメとかいう感覚、本当によく分から無いんですよね。みんな頭いいのかな。他人の考えた妄想ってそう簡単にわかるもんなのか、という感じになってきて、最近は分からなくても別にいいというか。そのうち分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それでいいじゃないですか。何故そうすぐ答えを知りたがるのか。やはりそういう風に教化されてるんでしょうかね。まあ、分かんないとバカ扱いされちゃうし、「分からないといけない」という世界で生きているんだけどさ。

 でも、だからこそ、分かんなくてもいい世界、というのを自分の中に確保しときたい、そんな風に思ったりする。まあ、いいか、みたいな感覚。そうやって保留して時々何だったんだろうなあ……と思い返しているうちに生活の中でふとわかる瞬間がくる……かもしんないし、来ないかもしんない。それでいいんじゃないですかね。それが他人の物語とともに生きることなんじゃないか、そんなことを最近ぼんやり思うのでした。

 五月一日、ファーストデーだからということで、映画三本見てきた。セコイので安い日まで待っていたのだ。

 とりあえず一発目は『シェザム!』だったわけだが、なんかあんまりノれなかった。というか、なんかもう、個人的にスーパーヒーロー物に食傷気味なのかもしれない、ひどく疲れた。お話は分かるけど、もはや定型的過ぎて、もうちょっとなんかないの、みたいな。この作品のヴィランは主人公の裏面としての悪役、主人公側を肯定するためにある悪役で、存在自体は退屈なんだけど、実は私はこっちの方が興味深かった。だいたい、勝手な都合で呼び出されてちょっと誘惑されたら即否定で落伍者扱い、そんでバカげた妄想じみた体験を四半世紀ほど追い続けるのである。しかも一人で。それを想うとなんか泣ける。家族からも理解されない妄想を一人追い続けるというのは、物語を紡ぐ側のある面だと思うんだけど、そこに無頓着であっけらかんと悪として扱っちゃうのって、映画制作陣はよっぽど幸せな人たちなのかもしれない。……まあ、設定したテーマに囚われてるだけなのかもしれないが。ギャグはメタ的な笑いというか、頭では面白いんだろうなとは思いつつ、ゲラゲラ笑うには至らず、ちょっと冷めていた部分もあった。あと戦闘シーンがあんま面白くないよ。なんかダラダラぶつかり合ってて、能力生かすようなシーンも特にないし。まあでも、一面的というかくっきりパッキリしすぎているにせよ、家族というテーマできっちりそつなくした構成は(それがいいかどうかはともかく)、上手くできていたと思います。

 次に『ハンター・キラー 潜航せよ』。これはまあ、なんというかエンタメミリタリー映画というか、なんじゃそりゃな設定や展開なんですけど、そういうのはミリタリー的なカッコイイあれこれをするための前提で、リアリティがどうたらとかはどうでもいいのです。雷雲のなかパラジャンプでロシアに潜入する特殊部隊員やらロシア原潜との潜水艦バトルや機雷原、駆逐艦から発射されるミサイルで凹む船体、浸水、圧壊の恐怖(はそこまでないけど)艦長同士の国を越えお互いを認め合う姿、みたいなミリオタがみたい定型シーンを詰め込みました、という要するに架空戦記映画なので、そういうのが好きなら楽しめるんじゃないかと。第6艦隊とか、ロシア北方艦隊がずらっと並んだ絵とか、対決する駆逐艦が、助けたロシアの老艦長にかつて鍛えられた部下たちだとか、そういうアガる要素がちりばめられていて、「軍隊モエモエ映画」って感じでした。

 最後は『バイス』です。クリスチャン・ベールの肉体改造が話題にもなっているんですが、ええー、マジかよってくらい凄いです。あの体形を「作る」んですからね……すさまじい。まあ、そこはそれとして、あのディック・チェイニー副大統領を描いた評伝映画。9.11を経て何故イラク戦争へ至ったのか、そこをユーモアを交えて描いた140分(長い……)。なんというか、権力はドラッグということなのか。自分だったらお飾りで金もらえるんだし、わざわざあれもこれも副大統領でやろうなんて思いませんけどね……まあ、それは権力とはみじんも縁のない衆生の考えにすぎないのか……。あれで関係ないとこで何十万人も人が死んだと考えるとぐんにゃりなりますね。あと、「本店」に遅れて「支店」で似たようなことが起こってるのがよく分かります。ていうか、やり方パクってるんじゃないの。アメリカ様を十年くらい遅れて追いかけてるわけで、まだ現れていないトランプみたいなやつが遅れて登場するのかなあ、と思うとゲロ吐きそうですね。権力者のために心臓を奪われる人の姿はブラックすぎる未来というか、現在というか……。

 まあ、そんな感じで疲れる映画鑑賞デーでありました。

それは、過去の希望の姿:映画『イカリエ₋XB1』

 イカリエ、なんだか不思議な語感。聞きなれないこの言葉は、旧チェコスロヴァキアの映画のものだ。

 1963年。鉄のカーテンの向こう側で、『2001年宇宙の旅』(68年)に先駆ける形で生まれたSF映画。そしておそらくキューブリックのそれに何らかの影響を与えたといわれていたりもしています。観ていたのではないか、という声はあるが本当のところは分からない。しかし、2001年で見たような場面がちらちら見え隠れすることは確かです。欧州でも上映され大ヒットしたということなので可能性は高いでしょう。そしておそらくは65年のゴダールの『アルファヴィル』にも何らかの影響を与えていそうな気もします。なんというか、この映画自体はヌーヴェル・ヴァーグの延長線上にある映画といっていい映画です。ヌーヴェル・ヴァーグの影響下にあるウルトラセブンも同様の雰囲気を纏っていたり。だから、セブンとかを観ていた人にはなじみ深い映像かもしれません。

 原作はレムが生前外国語に翻訳を許可しなかった初期長編『マゼラン星雲』。狭い宇宙船の中でやがて人間が精神の均衡を失ってゆく閉塞感は『ソラリス』に通じるものがあります。そして、映画の幾何学的な構図――特に一点透視法で通路の向こうからやってくる人を捉える映像は2001年のそれですね。あと、円の意匠を多用した内装のデザインがなかなかカッコいいです。宇宙船のデザインと出てくるロボットはなんだかレトロな感じでちょっとチグハグな印象がしますけど(まあ、ロボットは劇中でもレトロな存在なのですが)。

あらすじ

 宇宙船内で錯乱した男。彼は叫ぶ「地球は消滅した!」

 隔壁を閉じ、他の乗組員からの呼びかけにも応じることなく、光線銃でカメラを撃つ男。彼は何故そのような行動に出たのか。

 2163年、地球外の生命を探査するため、アルファケンタウリ星系へと向かう乗組員40人を乗せたイカリエ₋XB1はその途上、過去の探査船が残した核兵器による死者や、ダーク・スターから発せられる放射線の影響により、乗務員がこん睡状態に陥るなどのトラブルに見舞われる。限られた空間の中での代わり映えのしない人間たちとの生活などもあり、精神的に疲弊してゆく乗組員たち。そして、船外活動にあたっていた乗組員の一人であるミハエルは放射線の影響から体調の変化をきたし、それが地球への郷愁へとともに精神の均衡を欠いてゆく。そして彼はついに冒頭の錯乱状態へと陥るのだった。

 感想 ※一応、ここから先はネタバレを含みますので、注意です。

 

 

 共産圏の代表的なSFというと、『不思議惑星キン・ザ・ザ』とか、『ストーカー』『惑星ソラリス』『シルバー・グローブ』なんかがありますが、それらの最初期にあたる作品といっていいでしょう。そして、あの『2001年宇宙の旅』に先駆けてこのような映画が作られた、その意義はとても大きい。宇宙船の通路を人が歩いてくるカットや漂う硬質な質感、見つけようとしていた生命に見つけられる形でファーストコンタクトを果たし、そして何より最後の赤ん坊を大写しにして人類の新たな夜明けを語るあの感覚。

 この映画が公開された60年代と言えば、米ソの宇宙開発競争真っただ中、61年に初の有人宇宙飛行をソ連が成し遂げ、63年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行士として宇宙飛行を行っています。人類の新たなステージ、そんな予感が世界中を覆っていた――同時に核の恐怖もまた。この映画にもその当時の希望と不安という状況が反映されています。ニコライが囚われる地球の消滅は、過去の探査船が残した核兵器によって仲間を失うことから来ているように思われますし、新たな発見を目指す乗組員を苦しめるのは放射線の影響なのです。

 中盤に出てくる核兵器を搭載した探査船はこの映画の中で唯一共産主義的なイデオロギーを匂わせるシーンです。探査船の中で息絶えている人間たちは金や宝石を手にしたスーツ姿の人間たちで、これは明らかに資本主義を意識しています。少なくなった酸素のために一部の人間たちが他をガスで殺したという全滅の経緯も資本主義の利己主義的な面を強調しているように思われます。しかし、これは表向きはそういうプロパガンダを匂わせつつ、その実彼らが劇中でいうように、アウシュビッツヒロシマ、というように、20世紀に人類がなした愚かさのカタマリとしてこの探査船を描いているのです(まあ、アウシュビッツヒロシマはドイツとアメリカの愚かさみたいなイデオロギーでしかないのかもしれませんが)。先祖を選べない、という乗組員の言葉は、自分たちもそういった20世紀的なものから出発していることを自覚するとともに、そこから新たな理想を目指す意思が感じられます。

 共産主義、というとそれだけで、ゲーとなる、左翼、パヨク、問答無用で嗤いの対象、“そうしてもいいもの”というのが今のトレンドってやつですが、かつてこれはすべての人間が平等であるという、そういう理想を打ち立てるための理念だった。男女が均等に乗り込み、同じものを食べ、同じ服を着て新たな発見を目指すイカリエは、そういう共産主義的な理想の象徴なのでしょう。

 もちろんそれは「理想」でしかなかった。ただ、格差を是認しそれが「現実」であると開き直ってすら見せる。そんな姿もまた、我々の「先祖」が目指した「理想」だったんだろうか。この映画を観ると私たちの理想や希望って何だったんだろう、そう考えずにはいられないのです。

 まあそれはとにかく、過去のめずらしいSF として観るのでもいいですし、そこにかつてあった過去の希望の光を、そんなのあったな、みたいな感じで鑑賞するのもいいんじゃないのかな、という感じでした。

 そういえば、この映画スタイリッシュな宇宙船の内部に恐ろしく似つかわしくないレトロなロボットがいるのですが(『禁断の惑星』のロビーみたいなやつ)、これは博士の趣味みたいなやつで、劇中の人物たちからも恐ろしくレトロなものと扱われているのはなかなかうまいと思いました。実際に実用的に使われているロボットは映さないので、描きづらい未来のロボット出さずにしかし、ロボットの存在は劇中でもレトロなロボットで代用する。そういうところもなんかクレバーな感じがしましたね。