蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

その瞬間、あなたはそこにいる:映画『ファースト・マン』

 『ボヘミアンラプソディー』の感想を書いたときに、体験する装置としての映画がこれから増えていくだろうということを書いたが、この映画もまた、観る者にその過去の瞬間を体験させる映画である。「ボヘミアン」以上に徹底した体験追及型で、物語性や人物から生じるカタルシスという気持ちよさは排されている。そういうものを期待してもしょうがないので、俺を感動させろみたいな物言いはやめましょう。

 時代は宇宙開発競争真っただ中の1960年代。ソ連がいち早く宇宙に衛星を送り、そして人を送った。一歩も二歩も出遅れたアメリカは、巻き返しを図るべく、月に人を送ることを目指す。アポロ計画と名付けられたそのプロジェクトに船長として選ばれた男、ニール・アームストロング。物語のカメラはひたすらその寡黙な男に寄り添う。

 なんというか、ひたすら寡黙な男に寄り添うドキュメンタリーというか、その当時にタイムスリップしてアームストロングさんに密着取材してます、みたいなカメラなんですよ。わざわざフィルムで、家族のところは16ミリ、NASAのシーンは35ミリで撮ってるらしく、ホームビデオみたいな質感と手振れで、そのままついて行って宇宙船に乗ったり、宇宙に出たりするみたいな感覚。宇宙では65ミリを使うことで、宇宙のクリアな質感が感覚として体感できる仕様。

 フィルムを使い分けることで、家庭と仕事場、そして宇宙その場面を映像感覚としてまた感情を表にあらわさない男の内面を表現しているような感覚を観る者に与える形になっていると思います。

 とはいえ、やりすぎな感じも否めませんが。ほんとに密着というか、アームストロング視点を堅持するため、宇宙船のシーンはひたすら狭い内部から覗き窓の宇宙を見上げるだけ、揺れもめちゃくちゃヒドイ。体験映像としては正しいとは思うのですが、この辺りはぶっちゃけ楽しくはないです。ドッキング訓練のジェミニ計画におけるトラブルも、一秒に船体が一回転以上する状況をひたすら船内からのカメラでアームストロングに寄るため、よく分からんがひたすらぐるぐる回っている感覚しかなくてこれまたきつい。

 アポロ計画に本格的に移行して11号の発射シーンは、さすがに地上からのカメラがあって、そこは素晴らしい映像になっているので必見ではありますが。

 もともと宇宙飛行士は感情を出さないというか、常に平常心で動く人間であることが求められ、中でもアームストロングは筋金入りだったというそうですから、まあ、ほんと表情変わりません。唯一のシーンともいえるのが、冒頭で娘を脳腫瘍で亡くし、葬儀の中自室に入り、カーテンを閉め声を殺して慟哭する場面。この映画は、一応映画であるという建前を成立させるため、その時の悲しみをアームストロングが宇宙に沈める、というある種の鎮魂の映画になっている。

 なので、みんなで計画を成功させ、ロシアに先んじ月を制覇した! 翻る星条旗! という高揚感はない。ロケットなんか打ち上げてる金があるなら福祉を何とかしろ、という人々の姿が映し出されたりするのだが、それに対しての宇宙へ行く人類の夢や情熱がどうたらとか職員たちの決意みたいなものも特にない。

 宇宙はそんな人間たちの思いとかいうものを受け止めるような場所ではなく、ただただすべてを吸い込むようにしてそこにある。そして、その初めて月に降り立つシーンはすごく、体験的なシーンです。宇宙に来てからはテルミンを使った劇伴が延々と鳴っているのですが、ついに月への隔壁を開ける、その瞬間から宇宙に音が吸い込まれるようにして無音になる。その時、リアルにアームストロングと一緒に月に降り立つような感覚を共有しているようになる。

 月に降り立った男。宇宙服のその姿は紫外線フィルターのバイザーを下ろしているため、表情はうかがえない。ただそこに宇宙服を着た人が立っている。誰の声も届かぬその場所で、男は娘を失ってからずっとしまっていた悲しみをそこに沈める。そして観る者はそれを見つめるのみ。これはまあ、そんな映画です。劇的な瞬間は静かに去り、ことさら盛り上げて高揚感を演出する瞬間は訪れない。ただ、その瞬間、彼と同じようにあなたや私はそこにいた。これはそういう映画なのだ。

アニメ・ウマ娘における“ライブ”の役割

 BNWの誓いの記事に、ウマ娘のライブについて、視聴者は特にそれを期待していないと書いたが、アニメ・ウマ娘においてライブという要素は、本編の大筋とは別の形で重要な役割があると私は思っていて、今回はそのことについて書こうかと。 

 アニメ・ウマ娘にはレースのほかに、元のソーシャルゲームにある要素として、ライブが組み込まれている。サイゲームスが開発中のソーシャルゲームウマ娘・プリティーダービー』はもともと過去の競走馬+アイドルがコンセプトで、PVを見る限り、レースに勝つことで、ウイニングライブとして自分が持つキャラクターのライブ映像を見ることができるというシステムのようだ。ゲームはどちらかというとお気に入りのキャラクターのライブを見ることが最終目的で、レースを勝つことがそのための手段となる。そういうことで、レースとアイドルが不可分になっているわけだが、プレイヤー視点ではなく、ウマ娘たちの視点で展開されるアニメでは、レースに勝つということが最重要視される。よく観てみると、彼女たちはレースに勝ちたい、とは言うのだが、ウイニングライブに出たいからレースに勝ちたい、とは言わないのだ。ゲームとアニメではそのレースとライブのニュアンスが逆転している。競走馬視点なのだから当然といえば当然といえる。

 ではライブは必要ないのか? それは少し違う。ゲームにとってレースとライブが不可分のように、アニメ・ウマ娘にとってライブもまた、そのアニメのオリジナリティとして切り離せない要素なのだ。

 こちらの記事で、Cygamesの石原プロデューサーが、ウイニングライブの意図を語っている。

kai-you.net

 石原 ギャンブルの側面もある実際の競馬と違って、『ウマ娘』におけるレースはあくまでもショーレースなんです。その中でも、物語をつくる上では勝ち負けがあったほうが面白いのも事実です。だからといって、敗者が勝者を恨んだり、ウジウジしたりするのはあまり好きじゃないしやりたくない。

それなら、レース後にはみんな笑顔で歌っているシーンがあると、「そんなにギスギスしていないのかな」と思ってもらえるかなと。競馬という勝負の世界をモチーフにしつつもやわらかさを出したかったんです。

  アニメ・ウマ娘はレースを描くが不思議と禍根を残さない雰囲気作りのためのライブ、その意図が明確に出ているのが2話のスペシャルウィークが放り込まれた初めてのレースである。スペシャルウィークに絡んで、反則すれすれの妨害行為をするクイーンベレーというオリジナルキャラが出てくるのだが、レース後はスペシャルウィークの横で屈託なく歌うシーンが挿入され、プロデューサーの言う意図が確認できる。

 一方、競走馬をモチーフにしていることでライブで緩和できない、むしろライブを映せない事態も存在する。サイレンススズカの存在がそれを象徴しているように、レースで事故があった場合、当然それは描かれないにせよ、ライブという要素が気まずいイメージを喚起させてしまう場合もある。まあ、それは例外と言えば例外だが。

 ただ、石原プロデューサーの勝負事の緩和としてのライブは、具体的なライブシーンが描かれていた1、2話以降はアニメ・ウマ娘の競馬面を統括する伊藤プロデューサーの解釈する競馬の延長上――授賞式のコールや実際にあったキタサンブラックの馬主である北島三郎のウイニングライブなど――のショーを飾るものとして扱われていく。

 そもそもレースとライブ、どちらも作画カロリーを異様に消費するわけで、いくら何でもどちらもは描けない。アニメ・ウマ娘が取ったのはレースであり、ウマ娘たちが目指しているのはあくまでレースでの勝利だ。実際の競走馬名を冠しているのだから、それは当然といえば当然だ。スペシャルウィークが目指す世界一のウマ娘はレースで勝つことが第一であり、歌や踊りはあくまでファンへの感謝として描かれる。

 物語はスポーツ青春ものとして描かれ、視聴者もそういうものとしてこのアニメを受け入れた。しかし、ただレースを実際の競走馬がたどった形で、そこにIFを交えつつリアルに描いたからこのアニメは人気を獲得したわけではない。もちろんそれは大きな人気の核ではあるが、この作品はそもそも美少女擬人化アニメという存在でもある。アニメとしての面白さを纏うことで、上の記事タイトルどおりの“美少女アニメ”だから出せた最適解としての競走馬+アイドル、それがアニメ・ウマ娘だといえる。

 そのアニメの面白さが、競走馬をモチーフにしたキャラクター、その勝負服、そしてキャラクターソングだろう。明らかに走るのに向かない衣装でキャラクターたちが全力疾走するというのはアニメでしかできない画作りだし、キャラクターソングもアニメ的な演出を彩る。サイレンススズカのSilent Starのない第七話なんて、いわゆるクリープのないコーヒーみたいなものだろう。

 とはいえ、元ゲームには重要な要素であり、アニメでも演出を彩るキャラクターソングなのだが、正直なところ、レースを描くことを選択したアニメ本編そのものにはプラスに働く要素とはいえない。同時にライブもそうであって、結局ライブシーンはこのアニメの頭と最後にあるだけである(厳密にいうと5話でスペシャルウィークのキャラソングが流れるEDに止め絵としてあったりするが)。

 ではやっぱりライブはいらないのか、というと前に述べたようにそうではない。あるのとないのではだいぶ違うし、やはりウマ娘という世界観、というかアニメ的には必要なのだ。キャラクターソングは、5話や7話のような余韻を演出する特殊EDのためには必須だし、ライブはアニメの締めの役割、いわゆる「打ち上げ」としての機能を果たす。これは伊藤プロデューサーがウイニングライブを解釈した競馬の受賞コールの延長上みたいなものだ。

 実のところ、よく観ると基本的にウマ娘たちはレースで敗者が勝者を恨んだり、うじうじしたりはしないのだ。自己嫌悪に陥ることはあるが、レースに負けたことはあくまで自分の問題であるという形で処理される。ライブは実際的にはアニメの演出的な構造というか、勝利の宴、もしくは先ほど書いた頑張った後の打ち上げという風に組み込まれてゆく。ある意味、このアニメにおけるライブとは、ウマ娘というアニメを縁取る額縁と言っていい。なくてもいいかもしれないが、あることで作品に独特の良さや味わいを添えることができる。

 あと、13話で思ったのだが、着順がつかない、つけられないケースにおいて、ライブでのカタルシスの演出はかなり有効であると気づいた。あの場合、ライブがあるのとないのでは大違いだろう*1。アニメ的な大団円を演出するのにかなり有効な役目を果たしているのだ。

 そういうわけで、アニメ・ウマ娘はその本編において、ライブ要素は必要ではないし、視聴者もそれをメインに見たいと思っているわけではないだろう。しかし、あくまでアニメという形で作品化するうえで、かなり有効な役割を果たしている側面があることは確かである。そのバランス感覚が、アニメファン、競馬ファン、双方に受け入れられた重要な要因なのだ。

※追記:本記事とは関係ないですが、BNW含めてライブシーン見てると、客席側でサイリウム持ってるキングヘイローが結構な回数で映るので、彼女がセンターに来るライブシーンがついに来ちゃったりしたら、すごく、こう、クるものがあるだろうなあ、と思ったりしたのでした。

*1:と書いたものの、後で13話観返したら、最後のトレーナーのところでかなりキちゃうので、最後のゴールまえ横一線でぶった切っても、カタルシス的に問題が無いといえば特に問題はない。終わった気はしないかもしれないが。

恐怖のチキン:映画『キラー・スナイパー』

 

 

 というわけで、またもやフリードキン映画である。2011年公開の最新作で、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞にノミネートされたりした、久々に脚光があたったフリードキン映画である。内容は……いつものというか、いつも以上にイッちゃった人々のどーしようもないエロスと暴力の世界である。

 登場人物はほとんどクズしかいない。アメリカのド田舎南部のトレーラーハウスに住む白人一家。要するにホワイトトラッシュものだ。こういう田舎の貧乏白人はこえーぜ、という映画は『悪魔のいけにえ』の殺人鬼一家とか『イージーライダー』の主人公たちを射殺する農夫とか、カリカチュアされた人物たちによる暴力の世界を描いてきた。それはもはやジャンルのように存在している。近年の傑作だと『スリー・ビルボード』とかだろう。この映画もまたそういう映画だ。登場人物たちの教養レベルは著しく低く、とりあえずドラッグ、ギャンブル、セックスという世界観であり、地球が荒廃しなくても、マッドマックスな世界で生きているのだ。まあ、それはいいすぎかもしれないが、とにかく、そんなどーしようもない人物たちによるどーしようもない殺人計画、そしてそこにマシューマコノヒー演じる殺し屋が絡み、笑えないけど笑うしかない方向に転がってゆく。

あらすじ

 物語は土砂降りの雨の夜、ヤクの売人である青年、クリスが父のトレーラーハウスを訪ねてくるところから始まる。両親は別れ、クリスは母と暮らしているわけだが、その母がクリスが預かっていた麻薬を勝手に使い、その損害分の埋め合わせとして金を貸してほしいという。もちろんそんな金はない。突っぱねる父にクリスは提案する、じゃあ、母親を殺そう。彼女は生命保険をかけている、五万ドルの。受取人は父と暮らしているどこかぼんやりした妹のドティー。クリスは父と現在父と暮らす義母の三人で共謀し、母の愛人から保険金話と同時に耳にした殺し屋、ジョーを雇い、彼に母親を殺してもらおうとする。

 しかし、ジョーは前金を要求する。当然払えない彼らに冷たく交渉決裂を告げるが、その時目に入ったドティーに一目ぼれ、「担保」をくれるならやってもいいと親子に迫るのだった。クリスは渋るが、結局ドティーの体を差し出し、ジョーは契約通り母親を殺す。しかし、そこからもともと杜撰すぎるクリスの目論見が外れてゆき、事態は猛烈な暴力と死にあふれる場所へと一家を導いてゆくのだった。

感想

 しかし、『キラー・スナイパー』って邦題なんか微妙ですね。原題は『Killer Joe』なので『殺し屋ジョー』って感じでいいと思いますが。別にカップル向けじゃないし、うっかりカップルで入ろうもんなら黙って出てくること必至ですよこの映画。この後食事? うーん無理だな……。

 クリスが父親のトレーラーハウスを訪ねるのっけから、ドアを開けたら義母の黒々とした局部と対面するという開巻で、義母役のジーナ・ガーションが後の展開含めて多分一番体張ってます。頭がどこかお花畑のドティー役のジュノー・テンプルもかなりあれですが。というか、この子12歳という設定だけど幼さはともかく体はそんな感じしなくて、そのロリ巨乳みたいなプロポーションはアニメみたいだ。そのせいかそこまでマコノヒーのジョーがロリペド野郎に見えない感もするけど。

 まあ、とにかくそんな感じで倫理観とか理性とか色々ずるずるな人間がその場の衝動でテキトーに動いて事態が、というか彼ら自身がえらいことになる、というのがこの映画で、もちろん感情移入なんかできる人間は一人もいませんし、そういう形でなんらかの感動的情動を享受しようというつもりなら、観る必要は特にないでしょう。

 構図的には殺し屋であるジョーが悪魔、ゆるーい感じのドティが天使という位置で、天使に懸想する悪魔、という風にも見える。その中で軽薄極まりない人間たちが翻弄される、みたいな感じでしょうかね。それはともかく、なんというか、軽薄な人間たちの欲望のままの行き当たりばったりな行動に、なんとなく発生する黒い笑いがこの映画のキモと言えるかもしれません。とはいえ、真面目な人はたぶん眉を顰めるだけかもしれません。笑うといってもこの場合、あまりにもヒドイので笑うしかない、みたいな類の笑いですから。

 そしてこの映画のピークは、後半の暴力シーンでしょう。結局のところ保険金はドティではなく母の愛人に下りることになっていて、保険金やジョーのことなどをクリスの耳に入れていたその愛人にまんまと一杯食わされ、しかも愛人は義母とつながっていた。義母を拷問するジョー。それがかなりヤバイというか、顔面ぶん殴って血だらけの彼女に、夕食として買ってあったフライドチキンをしゃぶらせる。それはたぶん映画史上サイテーの使われ方をしたチキンでしょう。マコノヒーの演技もすごいというか、サイテーの演技を最高に演じてくれます。それはもうクリスの父親も思わずゲロ吐いちゃうひどさです。

 そして、裏切っていた義母を自白させ、制裁した次に何が起きるか、食事です。は? と思われるかもしれませんが、ジョーはひっくり返した食卓を直し、結局金が払えなくてジョーを殺すため、密かに拳銃持って帰ってきたクリスを交え、家族全員+ジョーで食卓を囲むのです。義母が淡々とそれぞれにチキンを配り、サラダを盛り、全員が祈りを捧げる光景はシュールを通り越し、これから何が起きるのかわからな過ぎて、もはや黒い笑いどころか怖くてたまりません。

 なんとなくというか多分『悪魔のいけにえ』を意識したようなこの食卓シーンは、本家のようにホラーの意匠を纏っていないにもかかわらず、あれと同じかそれ以上に怖い。この怖さを味わえただけでもおつりがくる。いやまあ、それは人によるでしょうが……。何度も言いますが、映画でポジティブな気持ちになろうとか、いい話に感動しようとか、映画にそういう効用を期待しているのならまったく観る必要はありません。相変わらずの踏み越えた人間たちのクズっぷりの向こう側を、そうでしかないという風にカメラは捉えていき、なるようにしてなる結末の手前で映画は終わります。

 そういうわけで、いつものフリードキン映画が見たいなら、過激な暴力で描かれる異空の恐怖空間が楽しめるでしょう。直後にチキンが食べられなくなるかもしれませんが……。まあ、自分はしばらくしたら唐揚げ食べたくなったので特に問題はないかもしれません。とにかく、チキンが印象に残る映画であることは間違いないでしょう。ほんとにフリードキン、あんたってサイテーな奴だな!

 

 『ラ・ラ・ランド』の、町山さんの解説を観てて、後半の質問で、質問者が町山さんに、芸術、好きなものを追求するためには恋愛とか、家族的な幸せみたいなものは邪魔だ、とかみたいな、表現したりする場合は何か自分の中に欠落みたいなものを抱えていないといけない、という思い込みっていうものが広くあると思うが、町山さんはそれについてどう思うか、という質問をする。それについて町山さんの回答は、ヘンな監督、ピカソのゲスさみたいなものを引っ張ってきて、ちょっとかみ合ってない感じなんだけど、その質問について少し思うところがあったのでちょっと書く。

 まずこの質問にはそもそもどこかズレあるように思うのだ。表現するには欠落がないといけないっていうのは、表現者自身が言ってるわけではなくて、その作品を享受する受け手側のある種凡庸な言い草であり、そういう意味で思い込みなのだ。要するに思い込んでいるのは、受け手である質問者の方ともいえる。

 受け手側からのそういう思い込みによって、因果が転倒している。欠落がないと表現できないのではなく、そもそも欠落というものはどこにでも生じるものだ。誰でも欠落を持っている。欠落のない人間という存在自体がある意味欠落を匂わせているではないか。恋愛や家族的な幸せを追求してもその中で欠落は生じる。それは単純な二項対立ではないからだ。

 表現しない人間はそういう欠落というポーズを気にしがちだが、表現する人間はたぶん自分が欠落してる「から」どうとかなんておそらく気にしていない。欠落なんて言うものは誰にでもある。表現する人間は自身のそれを見つめているだけだ。たぶん表現するしないの溝はそこにある。表現しない人間は他人の欠落(という見た目上そう思われるもの)を気にするが、表現する人間は自分の欠落を見つめている。それは別に俺はみんなと違うから~みないなバカな自覚とかそういうものじゃなくて、どうしても埋めがたい、ぽっかりと空いた何かが自分にあるということ、そしてそれが何なのかを自問し見つめ、探ろうとすること、そのなんとかしようとする行為が表現として作品として、出てきてしまうということなんではないか。

 表現というのは、誰にでもある自身の中の欠落をどこまで見つめることができるのか、というところでもあるんじゃないだろうか。まあ、この見かたは少々ナイーブという意見はあるだろうし、そう思わないでもない。でも表現するということを欠落というワードで特別視する必要はないように思う。そんなものは誰でも持ってる。そうなんじゃないのかな。

帰ってこれなくなった男:映画『ハンテッド』

 

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 恐怖の報酬に感動したということもあり、今回もフリードキンの映画である。この映画は観てなかったので、ちょうどいい機会だとばかりに観てみた。これまた傑作というか、良い映画じゃないですか。もうなんというか最高にかっこいい映画ですよ。ナイフアクションというか、昨今の映画があまり描かなくなった(アトミックブロンドとかありましたけど)、痛みをともなった命のやり取りにハラハラするアクションというやつが存分に味わえるのです。

 全体的に寒々とした画作りもすごく良くて、雪や滝、そして水、さらに下水地下や森といった要素が常に緊張感のある画面を作り出していて、また常に曇天気味の空が、追われる者の押し殺したような雰囲気を強調します。いつものフリードキン映画の、セリフは極力削りつつ、画面で語る的な映画作法がみなぎった映画と言えましょう。

 最初のボブディランの追憶のハイウェイ61の引用の後は、ほんとにしばらくセリフがありません。そして、そこにあるのは虐殺の風景を押し殺したように見つつ、敵兵の眼をかいくぐり、暗殺を行う一人の男の姿。コソボで行われた虐殺の風景が男の魂をそこに釘づけにする。魂を虐殺の現場に置き去りにした兵士ハラムは帰国後、森の中でハンターと化す。――人間を狩るハンターに。

 そして人間を狩るようになったケモノを狩るために男が呼び出される。それが、トミー・リー・ジョーンズ演じるL.T。軍を除隊してカナダで動物保護官をしている彼は、かつてハラムにトラッキング(追跡術)とナイフによる殺人術を教え込んだ上官であった。常人とは違う世界を生きるその師弟による、追う者と追われる者の戦いが、フリードキン流の抒情を排したソリッドなカメラで追いかけられていく、そんな映画となっています。

 L.Tとハラムはある種の同族なのですが、L.Tは彼の父が将軍であり、兄の戦死を受けてL.Tを戦場に行かせなかった。つまり、ハラムとは戦争に行ったL.Tというわけで、その自らの鏡像ともいえる男をL.Tは追うこととなります。

 今回もというか、常人とは違う世界の住人である二人のうち、また別の世界に踏み越えていってしまった人間という、なんともいえない入れ子のような様相になっていて、相変わらずフリードキンは登場人物に感情移入させる気ゼロでめちゃくちゃ清清しいです。ハラムの別れた妻や子供とかが出てくるんですが、それは結局、ハラムと彼女たちの重なり合わないレイヤーを強調するのみ。

 それにしても、トラウマを抱えた帰還兵が殺人鬼化するって2003年にもなってランボーみたいな話とか、しかもイラク戦争に当て込んだようともとられかねないのに、ほんとまあ、よくやります(公開時期と重なっただけで偶々ではありますが)。もちろん、そこにある政治性だとか、現実の問題とかにフリードキンはこれっぽっちも興味ないことは、観ればわかります。もともと我々と違う側にいる人間たちの、さらに踏み越えた者と取り残された者。画面に映されるのは、ひたすらそんな二人の「狩り」なのです。

 そしてこの映画の「狩り」におけるもう一人の主人公がナイフです。ある意味、映画の主軸といっていいのがこのナイフによるアクション。そのナイフによる戦いが、ものすごい緊張感をはらんだものとなっています。刃物というものは、銃と違って独特の緊張感を持つ。そしてナイフは殺す主体を銃のように切り離すことができない(投擲というのも当然あるのだが、この映画はナイフの投擲で人を殺さない)。切りつけ、突き刺し、その血を浴びながら生を死に変える。ナイフを交えるごとに、その生と死が揺れ動く、そこがすごくハラハラするんですね。

 彼らは最後まで銃を使わない。彼らは失ったナイフを自作までしてあくまでナイフで戦う。L.Tは石でハラムは廃材の鉄で。ナイフを自作するシーンはどこか呪術めいていて、この戦いが、どこか儀式的な雰囲気をかもしだしています。そして石と鉄というのがなんとなく自然に身を置いた者と戦争に行った者との違いを示しているようにも思えるのです。

 L.Tはハラムを一度は逮捕に導くが、結局、踏み越えた者、魂をそこに置いてきた者を連れ戻すことはできない。冒頭のディランの歌にあるイサクの話のように、L.Tは自分の弟子であり、息子のようなハラムを殺すしかない。そこには神話のように止める天使は現れない。帰ってこれなくなった男を連れ戻すすべはないのだ。

 この映画はそんな師弟関係をベタベタ言葉や情緒で掘り下げたりはしません。しかし、それでも断片的な映像でハラムがL.Tを師として、父のように、L.Tがハラムを弟子として、息子のように、それぞれ思っていることが分かるはずです。そして自然が彼らの心を代弁する。孤独な狼、鳥、垂れ込める鈍色の雲、そして滝の慟哭のような鳴動。L.Tの最後のハラムへのしぐさ、それはアップにもならないさりげないものだが、だからこそ観る者に刻まれるのです。

 魂を置いてきたまま行った者は帰ってこない。魂を失った狩人は、その狩人にしたものに手によって自然に還る。生き残った者も人々のなかに帰ることはなく、雄大な自然がただ、二人を見つめる。

 この映画は、観てて楽しいとか、人間たちのドラマに感動するとか、かっこいいアクションに興奮するとかそういうものは特にないです。しかし、95分というタイトにまとめた中にみなぎる映画の緊張感。それは劇中の二人にも似て、作り手と鑑賞者でつくる静謐な映画の時間。やはりこの監督は70年代のあの映画の空気を2000年代になっても持ち続けているんだな、と。それが私には、なんとなくうれしいのです。

 感想書くのメンドいな……というか、あんまりうまい具合に固まってくれないので、またも自分語りというか、そう、困ったときの自分語りです。

 というわけで今回は、自分がなぜ本格探偵小説を、というかミステリを読むのか、ということについてひとくさり語っていこうかと。まあ、こういうことを書いて自分の中の思いを具体的な形で表に出しちゃおうというわけです。

 ではなぜ読むか、それを一言で言ってしまえば、ヘンな言い方だがミステリが低予算で世界にひびを入れられるから、ということになる。まあ、そういうフィクションとしての役割を私が期待しているから、といっていいだろう。読み始めてた頃はそうでもなかったのだけど。最初はトリックのため、特に密室トリックを始めとした不可能犯罪のために読んでいた。ミステリというよりもはや不可能犯罪がほかのジャンルの小説より好きだったのだ。人間が織りなすドラマみたいなのにはあまり興味は持てなかった。なんだかそれは、こういうルートを経ればそういう人間を描いた何ものかだと機械的に認識してしまう感覚がして、嫌いではないにせよ、ことさら求めるものではなかったように思う。

 そういった、不可能犯罪を目的化していた自分に、探偵小説がトリックとその解明を越えて、自分の中の世界にまで槌を下ろして歪ませるような、そんな体験を味合わせる作品が現れる。まあ、例によって例のごとくの『虚無への供物』である。そして、そこを起点に私は『ドグラマグラ』や『サマーアポカリプス』、『匣の中の失楽』、『夏と冬の奏鳴曲』『カリブ諸島の手がかり』といった作品群に魅せられていく。なにげに中後期のクイーンの影響も大きい。『Yの悲劇』で別に私の世界は静止しなかったが、『十日間の不思議』『九尾の猫』『第八の日』などは私を大いに揺さぶってくれた。

 今現在はともかく、あまりSFやファンタジーにいかなかったのはそういった作品に触れて、ものすごく大掛かりな世界を作らなくても、世界を歪ませることができるというその事実にある種の感動を覚えたからだといっていい。

 それはまあ、あくまで例えで言うとだが、映画的な感覚というか、ものすごい予算で世界を作りこむ、みたいな感じじゃなくて、カメラを手にもって覗いてゆくと、だんだんと、その世界が歪んできてついにはヒビが入る瞬間を目撃してしまう、みたいな、そんな感じ。自分の見知っていたはずの世界にヒビを入れることができる、そんな瞬間に出会いたくて私は探偵小説を、ミステリを読んでいる。まあ、もちろんそれ以外も楽しんでいるのだが。相変わらずトリックは好きだし、突拍子もない世界も好きだ。

 さきほどは「虚無」によって、またそこからという風に書いたが、なんだかんだ言って、その根っこは自分のミステリ体験の原初である乱歩にあると思われる。乱歩作品のその語りを聞いているうちにいつの間にか異世界に踏み込んでいるような感覚というか、地続き的な幻想性がその大本にある。

 まあとにかく、そういったわけでごく簡単なセットというか、有り合わせのもので世界を歪ませ、ヒビを入れることができる、そんなふうな期待を探偵小説に、ミステリにしているのだ。あと、あくまで謎が解決するがゆえに、そうなるというのが大事というか、謎の解決が解放というか、引き金となることで、大きな枠が歪む、そんな物語を求めている。

 ケムリクサの感想も一応かいとこう。

 1,2話でだいたい以前Webで公開してた自主製作版のリメイクを終えて、3話でいよいよエンジンかかってきたというところ。というか、やはり背景美術がいいですね。けものフレンズと違って、話ごとに環境がガラッと変わるわけでなし、色彩だって灰青色と赤でかなり暗いトーンなんですが、逆にそれが幻想性を強めています。赤や灰色の霧に沈む廃墟の姿がキービジュアルとしてキャラクター以上に語ってる感じ。そして、視聴者にとってその未知の空間を探索する楽しみが次第に大きくなる。

 まあ、けものフレンズもそのキャラクターがいる廃園の環境が、けものフレンズとしての一つの確固とした魅力だったわけで、たつき監督はCGキャラクターの動きもそうなんですけど、それを置く舞台というか世界づくりもかなり巧い所があるな、と思います。あと、カメラワークですね。動きが少ない分、カメラワークで世界を魅せてゆくのはやはり巧い。というか、けもフレより建物をたくさん出して、フィールドを高低差ある複雑な形にしてる感じなのかな。

 あと、わかば君がウザいのはウザいんだけど、彼の生まれたてで無知っぽい好奇心のテンションがほっとくだけで出てくる悲壮感を払えてるのは確かだと思う。というか、なんか毛嫌いされすぎというか、そもそも「男」で嫌悪感出しすぎな視聴者も結構目について、そのへんはなんだかなあという感じ。わかば君以上にそっちが“ウザい”かもしれない。

 まあ、とりあえずはそんなところ。隠れた情報とか謎とかあるけど、そこはおいおい明らかになるのでしょう。その辺の情報コントロールも結構うまくて、派手な出来事は特に起こってないのに、回を重ねるごとにキャラクターはどうなってゆくのか、この世界は何なのかと引き付けられるものがあります。一話以外は控えめですが、けもフレ以上にアクション多めになりそうなところも期待ですね。