蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 「腑に落ちる」という評価は確かにミステリにとって肯定的な評価ではある。というか、ミステリに限らず小説は読者を説得しなくてはならない(埴谷雄高も言ってた!)ことは確かだ。そう努力することは何ら間違いではない。

 しかし、「腑に落ちた」から素晴らしい、そうでなくてはならない、そう受け手側がためらいもなく評価のモノサシとして語る時、私は何か嫌な感じを受ける。そうか? 本当にそうなのか? ただのアマノジャク、ヒネクレモノなのかもしれない。でも自信満々に言う読者の姿を見るとちょっと待て、という思いが鎌首もたげる。

 腑に落ちる、それはある意味自分の理解できる範囲内だからこそ、そういう風にお墨付きを与えることができる。でも、自分の理解の外にあるものにつきあたった時、それはダメなものなのか“ハイハイ、こんなの頭で考えただけのものですね“――それも結局、そう言う評者の頭の中だけの評価ではないのか?

 これまでの「私」の中にある理解では腑に落ちない他者の想像力に突き当る瞬間、それをどう評するか。もちろんそれは結構コストがかかることだ、我慢して挑戦してみて割に合わない場合の方が多いいとは思う。しかし、「私」の外にある作品というのは無数に在るはずで、それをどう見ていくか、どう掴むかで「私」は広がるはずだ。それこそが「私」の、もしかしたらジャンル自体の里程標となる作品との出会いではないか。そして、本を読む――他者の想像力に触れる醍醐味の一つではないのか。

 なんでそんなメンドクセーことしなきゃなんねーんだよ、時間とカネの無駄、自分を納得させる“良い”ものを求めて何が悪い――もちろん悪くはない。ただ、選択肢として、腑に落ちる落ちないというのはそれほど確実なモノサシか? という疑問を私は持ってしまう、ということだ。

 まあ、他人がそう言ってる時に異を唱えたくなるだけで、結局、私もなんかコレ腑に落ちねーな、ダメ、とやっている可能性は高い(アハハ……)。ただ、自己の読書を振り返ってみて、自分の心に針のように突き刺さっている本たちは、ストンとすべてが胸に落ちる小説ではなく、何なんだろうなこれ、これでいいのか、アリなのか、という“腑に落ちなさ”をどこかに潜ませている、そんな小説たちだったことは確かなのだ。

次回は戦争か? 映画『ザ・プレデター』

※一応、『ザ・プレデター』のネタバレしてるんで、観てから読むことをおススメします。

 

 地球にやってくる宇宙人には大雑把に分けて二種類がいる。ヒョロガリとマッチョである。そして大抵はヒョロガリ――いわゆるグレイ型やタコ型宇宙人という連中である。その高度な科学力の代償なのか、はたまたせめて体力では勝ちたいという地球人の貧しい願望の産物か、まあ確かに利便性が身体性を弱体化させるという理屈は“科学的”ではあるのだろう。しかし、一方で科学に堕落しないマッチョな宇宙人も存在する。映画におけるその代表ともいえるのがそう、プレデターである。

 高度な科学力を纏った蛮族。過去の植民地における西洋文明の似姿――という面白みのない分析をすることもできるかもしれない。まあ、それはとりあえず放っておこう。

 レジャーとしての狩というよりは、どこか民族的な儀式性を帯びたような、土俗な狩人。シャーマニックな造形(ジャマイカの戦士の絵が原型)に、そこにある魔術的な意匠として高度な科学を纏っているという、実に見事な異星人キャラクターと言えよう。そして、シリーズはその狩人、という側面にある意味忠実に拡大してきたといえる。ジャングルというまさに原点から、コンクリートジャングルに狩場を移した後は、より強力な猛獣(エイリアン)との戦い、複雑でよりゲーム化されたマップでの狩り、といったふうに。

 そして今回、原点に立ち返る形で、シリーズの正道である1、2の続きとして出てきた『ザ・プレデター』――それはいかなる狩りを描くのか?

 なんと、それは描かれなかった。ここにきて、プレデターは“狩り”を捨てたのである。一応、地球に逃げたプレデターを追うプレデターという意味でプレデターによるプレデター狩りという要素はあるが、それは設定でしかなく、決着もあっさりつく。

 というか、“狩り”にこれまでとは別の意味付け(というか後付け設定)が行われて、強い獲物をコレクションするとか、狩人の名誉的なものではなく、強い生物の遺伝子を自らに取り込んで強化するという(色々科学的にどうなの? という気もしないではないが)とりあえずSF的な理由が語られる。同時に、地球人がプレデター的に絶滅危惧種指定されていて、追われていたプレデターが、地球人を“保護”するためにあるものを運んできた、という設定が物語ひとつの縦糸となっている。

 そして、横糸となるのが、父と息子の話である。息子を救うために父は軍のはみ出し者達とともにプレデターに立ち向かう。ここはぶっちゃけあまりうまくいっていなかったような気が個人的にはした。

 今回の作品、プレデターは「捕食者」だろ、と突っこみを入れたり、過去作品のリンクや1を意識した人物構成(7人の軍人+女性)とか、プレデターファン的な目くばせが結構あって、プレデターマニアが作った作品という趣き。

 脚本は結構グダグダというか、よく考えなくてもおかしなところが散見され、最初に来たプレデターが地球人を救うために来たなら研究所での殺戮は何なんだよ(せっかく来たのにあの扱いでちょっとキレてしまったのかもしれない……)という根本的な穴があったりしつつも、まあそこはそれ。

 つまるところ、プレデターが暴れ回るところが楽しめればオール・オッケーである。登場人物に子どもがいることで遠慮するかと思われたゴア描写も特に遠慮することなく、胴体は真っ二つになり、首が飛び、手が飛び、足が飛ぶ。そして、それらに軍人たちのブロマンスが添えられた作品としてみれば、なかなか楽しめる作品でしょう。

 SF的にはもう少しプレデターの新たな科学技術とかないのかなあ、と思っていたら最後にやってくれました。最強のプレデタースーツの登場です。ぶっちちゃけここがめちゃくちゃカッコいい。マーベルの戦列に加わる気満々なスーツを人類は手に入れ、次は大挙してくるプレデター軍団との戦争が始まるに違いありません。

 そう、狩りは終わったのだ、今度は戦争だ……たぶん。

何のために表現するのか パスカル・キニャール『世界のすべての朝は』

 

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

世界のすべての朝は (伽鹿舎QUINOAZ)

 

 というわけで初キニャール。伽鹿舎の文庫で、帯文の伊藤計劃がどうたらという所にひかれたというミーハーな動機で買った本でしたが、素晴らしかったですね。そんなに長くない中に、訳文もいいのでしょうか、清冽な言葉の選びで濃密な言葉の物語が織り込まれていて、伊藤計劃云々関係なしにいい小説を読んだ満足感がありました。

あらすじ

 妻を亡くした音楽家サント・コロンブはその日からそれまで以上に音楽に没頭し始める。彼とその娘たちの名声は高まり、貴族たちがこぞって彼らをたたえる。しかし、コロンブはやがてそれらに背を向け始める。その音楽はひたすら亡き妻へと捧げられ、ついに王の招聘も断り、彼はその死者へと届く音楽へより孤独に邁進してゆく。

 その父娘の中へ一人の青年マラン・マレが弟子入りする。師であるコロンブの音楽を崇拝しつつも、師の音楽を彼のうちから外へと広げようとするマレ。それが師との溝、そして亀裂を生じさせ、やがて二人の娘を巻き込んでゆく。

 感想

 とても良かったものの、実はなかなか感想書きづらい。

 弟子であるマレはコロンブの音楽をカタチにしようと躍起になります。それは自身の音楽による出世欲にも結び付いて、自身の音楽を王や貴族から素晴らしい、と称賛される音楽、宮廷音楽家としての音楽、といういうふうにして、その音楽をあるカタチに規定することを当然とすることで、師であるコロンブとの対立を深めていく。彼は、コロンブが自身の音楽を自身の中で終わらせていることが理解できない。自身の表現は外の世界に向かって開かれるべきだ。そして、それ相応の評価を受けるべき――それはある意味、当たり前といえば当たり前の態度ではある。

 しかし、コロンブはそんなことに音楽はあるのではないという。「きみに感じるための心はあるか? 考えるための頭があるか? 音というものが舞踏のためでもなく、王の耳を楽しませるものでもないとしたら、何の役に立つか、きみは考えたことがあるか?」

 音――音楽は何かのためにあるのか? それは言葉――文学にも置き換えられ、つまりは表現という領域への問いにもなる。表現は何かのためにあるのか? 

 キニャールは音楽というカタチのないものを言葉というこれまたカタチのないものでとらえようとしているかのようだ。「むずかしいものだよ。音楽はまず、言葉では語れぬものを語るためにある」それを、キニャールは言葉で語らんとしている。

 語りえないもののために語る。この世のすべての朝はかえって来ない――それは死者たちもそうだ。亡き妻、亡き娘、そして恋人、コロンブとマレは死者でつながる。語りえない者たちの代わりに彼らは音を奏でる。

 “文学は死者たちとともにある。そして、死者たちとともに消え去る”

 安藤礼二の文學評論『光の曼陀羅』の冒頭部である。そしてそれはこう続く。

 “つまり、文学とは、死者たちのために一瞬虚空から取り出され、死者たちとともに虚空に送り返されなければならない「なにものか」なのだ”

 安藤礼二は「文学は」と言っているが、恐らく表現というものが死者と共にあるにではないか。原始の表現であった踊りと歌はこの世にはいない者たちとともにあったのではないか。その一瞬虚空から取り出される「なにものか」のために、きっとすべての表現はある。

 それは、この世界のどこかにいる誰かに寄り添うためのものではない。私が時々、そういう疎外されたものに寄り添おうとするような小説に感じる違和というものは、そこにあるのではないか。もっと根源的なものなのだ。文学は、表現は。キニャールのこの小説は、簡潔な言葉の選びとその描写でその「なにものか」に私たちをするりと肉薄させてくれる。これはそんな得難い体験をさせてくれる数少ない表現が込められた小説なのだ。

消失、そして越境:ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』

 

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

 

 

 ついにこの古典中の古典を読む。いまさらな古典でガッカリするのかと思いきや、さすが現在までにいたる吸血鬼というモンスターを決定づけた作品、地力というか、作品そのものに宿るパワーがとんでもないです。少々長いかもしれませんが、未読なら今さらかよと思わず、その原点にして決定版といえるこの名作を手に取ってみてはどうでしょうか。とにかくまず、面白すぎるから。

 まずこの作品はその記述様式が特異であり、全編が様々な媒体による記述の集積によって成り立っているのです。登場人物それぞれの日記やメモ、手紙といった手記や、新聞記事、はては蝋管による記録など、当時のあらゆる記録媒体によって吸血鬼についての記述が積み重なり、物語を形成しているのです。元々、吸血鬼というものが東欧の民間伝承から発したものであり、著者のブラム・ストーカーが長年、その伝承の記録を渉猟したということですが、まるでその過程を物語としたような、そんな誰かのしたためた記録ですべてが成り立っている作品なのです。

 誰かの記述であるということ、それが怪談としてのこの物語を秀逸なものにしています。吸血鬼という存在がよく分からないでいる人々が、怪奇にさいなまれていく様子、そのよく分からない不安感が恐怖感へと昇華していくさまが記録形式により読者へリアリティを持って迫ってきます。特にデメテル号のくだりは出色の怪奇話となっているのではないでしょうか。犬、泥の詰まった棺桶といった道具立ても見事。

 そしてなんといってもルーシーの首元についた、ささくれ立った跡の不思議とその後の衰弱の様子。よく分からないがしかし、死の臭いのする何者かがゆっくりと迫ってくるのは今読んでも怖い。後半、吸血鬼の存在が明らかになり、ヘルシング教授率いる討伐隊がドラキュラを撃退し、トランシルバニアまで追いかけていく冒険小説的な体裁になりますが、そこもまた面白く読めます。多視点で追い込んでゆく過程は記録形式が生きてきます。

 この作品のドラキュラ伯爵は後続作品に出てくるような暴力的な力で人を襲ったりする怪物的な存在というよりは、どこか疫病的と言いますか幽霊的な趣が強いです。どこからともなく部屋に入りこみ、少しづつ対象を死に近づけてゆく存在。実態がどこかあやふやだからこそ怖い。吸血鬼の恐怖の本質というのは、得体の知れないものにふらりとテリトリーに侵入される恐怖なのではないか。土俗性を帯びていた東欧の伝承が近代化された都市の一室に忍び込む。そういえばこの領域に侵入される恐怖として、ミステリ者としては50年以上も遡る1841年にポーが書いた「モルグ街の恐怖」が思い出されました。恐怖の対象が遠くの異国からやってくるというのも共通しています。この作品もある意味、探偵役的なヘルシング教授が現れてからの後半は吸血鬼の足取りをたどる捜査小説的な趣をおびていて、吸血鬼の行動やその移動ルートを推理してゆく場面はかなり推理小説しています。

 そもそも出来事を詳細に記述してゆくというのも探偵小説と重なり合う部分があり、怪物についての記録の物語――犯人についての記録の物語という感じで探偵小説と親和性があるようにも感じました。この小説自体が吸血鬼についての証言、出来事を詳細に収集してゆく――それは自身の記録を詳細に収集していた江戸川乱歩の姿が思い浮かび、シャーロックホームズが1891年で先立つこと6年ほど前ということで、やはり、探偵小説との関連性、縁のようなものを感じさせます。ディテールを収集し、それを参照することで推論に至るというのは、推理小説の領域に他ならない。

 しかし、この小説は最後の最後でそこに大きな亀裂を入れる。

私は長いこと金庫にしまっておいた当時の文章を、そのとき久しぶりで取り出して見た。読み返してみて驚いたことは、記録が構成されているこれだけの山のような材料の中に、これこそがただ一つの真正な記録だというものがないことであった。 

  膨大な記録のテキストの山、それによって成り立っていたはずのこの作品を根底から覆すような爆弾が、きわめてさりげなく置かれる。ただ一つの真正な記録がないのなら、ではそれによって指摘されている“犯人”ドラキュラは、「真正」なものだったのか。伯爵が最後に塵と化し、文字通り消えさったようにして、「犯人」もまた消失してしまう。これは何だ。ほとんどアンチミステリといっていい様相ではないか。

 とはいえ、自己否定、自己言及もまたミステリの得意技だ。この作品は早すぎただけとも言える。むしろこの作品のミステリ的先駆性はそこにあるのではないか。シャーロック・ホームズが現れ、そのライヴァルたちが陸続として活躍し始める世紀末。科学が称揚され、その科学的姿勢は詳細な証言、証拠といったものをテキスト化し、データ化する。それによってヒーローたちは世紀末の闇を照らす。しかし、やがて、そのテキストそのものを脅かすトリックの存在がアガサ・クリスティによって決定的な形で暴露される。

 書かれたテキストは果たして真実なのか? クリスティの問題作はそのテキスト――書き手において本作を逆転させたような存在でもあり、本作がどの程度影響を与えたのか気になるところだ。

 ともかく、探偵小説が本格的に誕生し、ジャンルを形成し始めたその周辺部ではすでに亀裂が走っていたと考えると、なかなか面白い。推理の根拠が消失することで、テキストの集積によってその円環の中心の空として存在していた伯爵も消え去る。ここに至り、推理小説的な領域から怪奇小説的な領域へとその書かれた存在は越境してゆく。

 土地を、部屋を越境してきたドラキュラは、推理小説的に悪魔祓いされる形で追い返されるが、ついにはその推理小説的な範疇からも越境してしまうのだ。確かにテキストの否定はそれでもミステリ的な領域ではある。しかし、『吸血鬼ドラキュラ』はその書かれた「存在」が消失することで、ミステリ的な領域からもするりと抜け去ってしまったのだ。

おわりに

  『吸血鬼ドラキュラ』と推理小説との関連性は、以下の本が示唆に富み、ものすごく面白いので、是非読んで欲しい。この拙文の参考とした「勝利のテクスト」以外にも面白い論考が満載です。ほんと俺の文章なんかどうでもいいから読め。読むんだ。

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

 

 

偶然の極北 島田荘司『屋上の道化たち』

※この文では『屋上の道化たち』のネタバレを含むので注意

 

屋上の道化たち

屋上の道化たち

 

 『鳥居の密室』、いい作品だとは思うんだけど、これをもって島田荘司完全復活だとか、これと比べて「星籠」や「屋上」はダメだみたいな言説を見るととてもモヤモヤする。

 確かに、ここ最近の『アルカトラズ幻想』『星籠の海』『屋上の道化たち』といった作品はどこかチグハグで、おさまりが悪い印象があるし、実際に構成がゴタゴタしたものであることは否定できない。それらと比べると『鳥居の密室』はスッキリした構成で、分かりやすい感動的なカタストロフでまとめてくれている。とても親切な設計だといっていい。おさまりがいい作品であることはいいことだし、それを高評価するのは間違いじゃない。

 ただ、一方でその収まりの悪い長編たちは、それゆえに挑戦的だった。そういうわけで、特に『屋上の道化たち』についてここでは語りたい。

 この作品の特徴といえばなんといっても奇妙な謎とトリックをかろうじて成立させるために用いられた奇妙な偶然の数々。島田荘司は偶然を多用するが、本作ではそれはほとんど度を越した領域と化していて、その謎現象には中心となるべき何者かによる計画という意思をすっぽりと欠いたまま、それぞれの愚かしい行動の果のグロテスクかつ滑稽な姿として現れる。読者の前に広げられた真実は、笑うに笑えない光景。そこには安心して感動したり、犯人と事件の哀切な関係性やそれを解き明かす探偵の鮮やかなロジックは存在しない。あり得ない現象はありえない事柄ゆえに起きたのだ、という身もふたもない真実が提示される。それもあまりにもバカバカしい行動の結果として。これほど殺意や犯行計画が介在せず、すべてが偶然によって成り立つ奇想があっただろうか。そういう意味で、この作品は島田荘司の偶然を扱った作品でも極北の位置に立つ作品といっていいのではないか。それら偶然自体も奇妙なもので、その偶然をねん出するために奇怪な挿話や行動が作品全体をゴツゴツとさせたものにしている。

 それをどう処理していいか分からないゆえに、大多数の読者は“バカミス”という安易極まりない言葉で受け止めるしかなかった。確かにこれはバカバカしいかもしれない。とはいえ、『屋上』と改題されてしまったが、元の題名は『屋上の道化たち』であり、もともとその道化ぶり、バカバカしさは前提のはずなのだ。市井の卑俗な人々のセコイ行動が積み重なって、あり得ない出来事が生じ、世にも奇妙な謎の花を咲かせる。事件を構成するどの人間にも共感や同情といった感情を抱かせず、彼らに寄り添うことでなにかしらの感情的な高揚感と満足感を得ることはない。そこがまた評価が低めになる要因だと思うが、島田荘司はその奇想のためにバカバカしい人間たちという造形をラディカルに貫く。だからこそ、現出する奇想とのギャップに読者は半笑いするしかない。卑俗な人間たちの卑俗さが産む滑稽な道化芝居。

 その異様に突き放した姿勢も含めて、この作品は奇想のあだ花なのだ。

 

クラシック、そしてポップ 映画『アトミック・ブロンド』

 

 これはかなり好みのスパイ映画。伊藤計劃氏が観たらかなり喜んでたんじゃないか、そんな感じがする。

 スパイ映画というと、大きく二つにテイストが分かれ、一つが007に代表される、派手なアクションや、ビックリメカの数々で展開される、ヒーロースパイものの系譜。そしてもう一つが、そういった派手で分かりやすい要素を廃し、人的情報――ヒューミント中心に描かれる騙し騙されの諜報合戦がメインとなるリアルスパイものの系譜。前者はくっきりと分かりやすい面白さが顕著な反面、スパイ本来の隠密性や諜報性に欠け、後者は地味で分かりにくく、エンタメ的な分かりやすい面白さに欠ける。

 本作はある意味、その二つの系譜のいいとこどりを狙った作品と言えなくもない。ただ、テイストとしては、『スカイ・フォール』のように007タイプがリアルに寄った作品というより、リアルタイプがヒーローアクション寄りになった感じに近い。なので結構、諜報員同士の関係性が複雑に入り組んでいて、ぱっと見把握しづらいところがあるかもしれない。そしてそのアクションはリアル寄りの重たく、痛いアクションである。しかし、本作の特筆すべき点はまずその重く、痛みを伴うアクションにある。

 主演シャーリーズ・セロン演じる女スパイは冒頭、氷を入れた水槽から上がるのだが、全身傷や打ち身だらけで、顔面も大きな痣でおおわれている。物語はそこから過去にさかのぼる。いかにして彼女はそのような凄惨な傷を負うことになったか。この映画は、彼女の傷の記録だ。ちなみにこの浴槽から目覚めるように彼女が上がるシーン、浴槽の向こう、広いガラス窓に臨むビッグ・ベンとその下に広がるロンドンの町を収めた構図はどことなく、映画『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』(アニメ)の冒頭における素子の部屋の構図に似ている。これは恐らく意図して似せたような気もする。

 予告ではシャーリーズ・セロンのスタイリッシュなアクションを売りにしたような感じに見えるかもしれないが、実際のところそのアクションはかなり泥臭い。昨今のヒーローアクション的な、キビキビして一発当てれば綺麗に敵が吹っ飛んでそれっきりというものとは程遠い。人間はそう簡単に倒れないのだ。殴られても立ち上がり、刺されてもコロッと死んだりはしない。互いは相手を必死に殺そうとし、そのために殴り、ナイフを振る。武器を失い、ガンガンお互いを殴って、しまいにはそのへんに落ちてる物を投げつけたりそれで殴ったり。最後は両者ダメージでフラフラとなる。肉体と肉体がぶつかり合う、まさに殺し合いだ。それがこの、アトミック・ブロンドに選択されたアクションといえる。そしてその選択が、リアルスパイ路線に馴染みつつ、その範囲内と延長線上でシャーリーズ・セロンの鋭く、時に派手な動きを印象深く見せてくれる。それが、リアルスパイものではあまり見られないエージェント同士の戦闘シーンとして印象的なものを提供している。

 とはいえ、実のところ、アクション以上にこの映画の特質は、その画面構成によって生れているといってよい。舞台はベルリンの壁崩壊直前の東ドイツ。全体的に白黒調のモノトーンで統一されつつ、時折そこにネオンの光や場所や説明字幕を入れる際のパステルカラーのスプレーを吹く演出が足されることで、ポップさとスタイリッシュさを同居させている。クラシックなスパイの陰影の中にポップな光が躍る。その画面構成がこの作品を特徴的に形作り、唯一無二のスパイ映画としているといっても過言ではない。赤と青の光や赤い服が、灰色の景色に沈んでいきそうなスパイたちを所々で浮かび上がらせる。その色の使い方がスパイの孤独や哀しみを表現していたりしていて、静謐で厳粛な、しかし鮮烈な絵の印象を観る者に与える映画なのだ。

 『けものフレンズ2』の何にびっくりって、この短期間で火中というか、火だるま確実な栗を拾いに(拾わされに?)行く人間が現れたことですよ。どこのどなたが監督するのか分かりませんが、家族を人質に取られたんだろうか……なんて。PVは大荒れでぶっちぎりの低評価ですが、そもそも最初の『けものフレンズ』だって今どきこんな低クオリティCGかよ、と叩かれてたわけで、それも含めてスケールアップしてるのはパート2らしいといえばらしいのでは。

 まあ冗談は置いといて、色々な面で最初から縛りキツイ状態で作ること自体が、精神衛生上心配なものがありますね……。しかし、2って何するんだろう。人類の歩みを振り返る形で、文化、文明の再演、みたいなテーマをきちんとやり切った、たつき監督の『けものフレンズ』の続きって、正直、たつき監督が続けてても難しそうな気がするけど。アプリ版みたく、あたりさわりのないパーク内のRPG風のお話になるのか、キャラクターと動物ネタでわちゃわちゃするキャラ重視の日常物っぽくなるのか……。

 個人的には、たつき監督は『ケムリクサ』で新しいアニメ作ることになったし、動物ものは『ウマ娘』を楽しんでるので、そこまでけものフレンズのことに執着はしてませんが。とりあえずPV観ると、CGのモーション含めてすごく滑らかでよく動くようになってて、それは別に皆が期待してたことではないかもしれないけど、それはそれで見たら楽しいのではないかと。

 一定のエリアの外から出る所で終わった『けものフレンズ』と自主制作版の『ケムリクサ』。実のところ『けものフレンズ』は『ケムリクサ』の再演でもあったわけで、新しい『ケムリクサ』がその先になるかどうかは分からないにせよ、個人的には『けものフレンズ』の“続き”ってのはそっちの方に期待してるんですね。