蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 T・Sストリブリングのポジオリ教授シリーズって、名探偵や論理についてのものすごい先駆的な作品だと思うし、自分の中でクイーンと並んで重要な位置を占めていて、まとまった文章を書いてみたいなあ、と思ってるんで、作品解説とかを含めてなんとか形にしたいですね。夏休みの宿題というか、夏の間になんか書けたら書こう。

家族であろうとすることが、できない場所で:映画『万引き家族』

 観てきましたよ、『万引き家族』。是枝監督の作品は、これまでは『それでも僕はやってない』ぐらいしか観てなくて、今回でやっと二作目。そして今作も「それでも~」と同じように、すっきりとした終わりではなく、どこか遣り切れない。映画の終りが終わりではなく、これからも登場人物たちの人生が続くであろうこと強く意識させ、だからこそ暗澹とした、重たいしこりを残す映画となっていました。

 そして、この映画は家族の映画でありながら、その家族のカタチとは何か、それをはっきりと指し示すことなく、観る者に委ねる形をとっています。だからこそ、観終わった後も考え続けることになる、そういう映画でしたね。

 というか、そもそも家族なるカタチとは何なんだろうか、そんなものは存在するのか? この映画は僕らがそう思いたいものを悉く否定というか、ボロボロと崩していきます。形を成すかに見えたらすぐに崩れてしまう。その無情にもさらさらと零れ落ちてゆくものの中に、観る者は何をみればいいのだろうか。

 

あらすじ

 とあるスーパー。中年の男と少年が目くばせをしながらあたりの様子をうかがっていた。店員の動き、他の客の動き、流れるその間隙、空白の瞬間を見定めて、男が合図すると、少年は手に取った小品を背負っていたリュックサックに詰めた。そしてまた小品を手に取り、淡々と詰めてゆく。

 万引き、と呼ばれる行為を彼らは日常的に行っている。

 肌寒く雪が降りそうな日、いつものようにスーパーので万引きを行い、商店街でコロッケを買った帰り道、男と少年は通りがかった団地の前で物音に足を止める。ふと覗いた隙間から廊下の前で凍える少女の姿が見えた。

 見かねた男――治は少女を家に連れて帰ってしまう。

 周囲をマンションに取り囲まれ、埋もれ、見るからに取り残された古い一軒家にその中年男と少年――治と祥太を含む5人の男女が暮らしている。そこへ治が連れてきた「ゆり」が加わり、貧しいが笑顔の絶えない“家族”の営みが「ゆり」を中心にして、より強くなってゆくのもつかの間――“祖母”の初枝の死をきっかけに、やがて“家族”の結びつきはほどけていく――。

 

 感想 ネタバレ前提で語るので、観てない人はそのつもりで

 

 まあでもほんと重い。まずはその貧困描写がすげーズンと来る。部屋の中の汚さがいちいちリアルなんですよ。薄汚れた服とかがやたらとその辺に置いてあったりとか、なんていうか、使えなさそうなものが雑多と置いてあるあの感じ。カップ麺にコロッケつけるのもあんまりおいしそうに見えない。というか、ご飯食べてるシーン、あんまりおいしそうに見えないんですよね。全編通していいもの食べてない感は見ていて苦しい。

 ほんと前半は結構苦しい感じがするんですよ。日雇い労働、クリーニング、風俗、働いてもお金が足りなくて、初枝の年金と万引きで補う生活。そういう、閉塞感漂う冒頭から、虐待されていた女の子「ゆり」を新たな家族に迎え入れてゆく過程で、少しづつ、それぞれのつながりがよりくっきりしていく姿は心を和ませると同時に、どこか不安定で薄氷を踏むような危うい影が常にちらつく。

 その危うさというのは、後で明らかになる様に彼らが世間的には認められない家族である、という所からきている。彼らは全員血のつながりのない他人であり、ゆりをはじめ、祥太、亜紀といった未成年たちはみな本当の親がいるし、「ゆり」に至っては半ば誘拐のような形で加わっているのだから。

 しかし、彼らは元居た親の許では家族にはなれなかった者たちなのだ。そんな彼らが世間の片隅で寄り添う様に生きていき、家族としてふるまう姿はその一つ一つが温かみを持ってみることができるだろう。そしてそれは崩壊の予感を感じさせつつも、海水浴のシーンで頂点に達する。初枝が海で戯れる五人を見て、観客には聞こえることのないつぶやきを漏らすシーン。その瞬間だけは、たとえその後あっさりと彼らの結びつきがほどけてしまっても、“家族”であった――だからこそ、そのシーンは目に焼き付いて離れない。

 しかしその幸せの瞬間をピークに、初枝の死とともに彼らの“家族”としての結びつきはあっさりとほどけていきます。その大きなきっかけが祥太の万引き――その行為への疑問。

 「妹」である「ゆり」万引き行為に引き入れることが、駄菓子屋のおやじにたしなめられたこと、そしてそのおやじがほどなくして亡くなり、駄菓子屋が閉まってしまったこと。忌中の文字が読めない祥太は自分が万引きをしていたから店がつぶれたのか、という思いを抱きます。そして、車上荒らしをノリノリで行う治に違和感を感じ始める。

 「ゆり」が押し止めたのにもかかわらずスーパーでの万引きを自分も行おうとするところを見て、ついに祥太の中で何かが決壊したのか、彼は店員の目の前で商品を掴んで逃げます。その商品がネットに入った夏ミカン(違ったかな?)で、それが最後、追いつめられた祥太が飛び降りた拍子にバラバラに散らばるのは示唆的です。

 そして祥太が捕まったことを皮切りに、初枝の床下の埋葬、年金不正受給、そして「ゆり」の誘拐――ということが次々に明らかになり、「家族」はバラバラになっていきます。彼らは世間からは家族とは認められない。それがどんなに「家族」として彼らなりにやってきたとしても。

 治が家の隣の空き地でサッカーをする親子を見つめるシーンがあります。そして、祥太に父さんと言って欲しいというアピールをする場面が何度もあり、彼が祥太に対して「父親」でありたいという願望が繰り返し語られます。そして、なぜ子供に万引きを? と警察官が尋ねる場面で彼はこういうのです、それぐらいしか自分には教えられることがないのだと。学も何もない自分が万引きのやり方を教えること、それが「父親」として教えられることだった――生き生きと祥太に万引きを、犯罪を教授してきた彼の姿を思い出し、そのあまりの痛ましさに胸が重くなります。

 最後の方で、すべての罪をかぶる形で収監された信代が面会に来た祥太に彼が治と信代に拾われてきた時の状況、そして本当の親に繋がる車のナンバーを伝え、肉親へと戻る選択肢を示します。祥太を筆頭に、「ゆり」や亜紀は元の親――血のつながったそれへの再帰属を促されることになるのです。この辺りが、この映画の特徴というか、アメリカ映画的な疑似家族でハッピーエンドとは違う、というかそういうわけにはいかない日本の在りようを示しているようでした。そしてかつてあった『東京物語』的な、血のつながりよりもすぐ隣にいる他者とのつながりに希望を託すこともできない。

 つまり、独立した個々が寄り集まることも許されず、血縁的な縦や地域的、他者的な横の関係にも希望を見出すことができない――その暗澹たるありさまが、この国のより今日的な有様なのかもしれず、さらに胸を締め付けるものとなっているようでした。

 だからこそ、連れ戻された「ゆり」――樹里が本当の親の許で再び疎外され、もしかしたら最悪の結果すら待っているかもしれない日常の中、再び団地の廊下のなか、塀を乗りだし、外を見る。その自ら外部を見つめようとする姿に、ほんの少しの希望を、僅かかもしれないそれを祈らずにはいられないのでした。

エロスとデスは兄弟 映画『イット・フォローズ』感想

 デヴィッド・ロバート・ミッチェルというほとんど無名の映画監督と、キャスト、そして二百万ドルの低予算で作られたこの映画は、大した宣伝もなかったにもかかわらず興行収益二千万ドルをあげ、2014年のホラ―シーンの話題をさらった。

 この映画は殺人鬼や悪霊が元気に暴れ回る映画ではない。どちらかというと、冒頭の浜辺のショッキングシーン以外はすごく地味だ。毎回姿を変え、“感染”したものにだけ見える“それ”――イットがゆっくりと歩いてくる。そして捕まると死ぬ。ホラーの要素としてはそれだけだ。しかし、そのジワジワとした怖さはティーンを中心に大きく広がった。

 シンプルな怖さ。それは、人はいつか死ぬ、という当たり前の事実であり、子どもから大人へ、その境界に立つティーンにとって、無縁だと思っていた自分にいつかやってくる“それ”を、映像的に意識させるものとなっていたからだろう。そして、その恐怖はもちろんティーンにとってだけではなく、彼らよりもずっと死に近い大人たちにも共通の恐怖なのだ。

 ひたひたと、それはいつか必ず僕らに追いつくのだ。

 

あらすじ

 大学生になったジェイは付き合っていたヒューとついに初体験を果たす。

 その後、車の中で寝そべりながら、彼女は述懐するように言う。“子どものころ、こうして好きな男の子とデートするのが夢だった。一緒にドライブしたり、手をつないだり、ラジオを一緒に聴いたり……きっと世界が違って見えるんだろうなって思ってた……ようやくその年齢になったけど……ここから先はどこに行ったらいいのかな”

 その直後、ヒューにクロロホルムを嗅がされ気がついた時には、車いすに縛り付けられ廃墟の中に彼女はいた。そして目覚めるのを待っていたらしいヒューは言う。

「これから君はイットに追いかけられることになる。まずはそれを教えておく」

 何が何だかわからず混乱する彼女を運び、ヒューは階下の線路に佇む全裸の女性を示す。あれがイットだ――それは性行為で“感染”し、それから逃れるには、誰かと性行為してそれを移す必要がある、自分が君にしたように――と。

「やつは色んな姿で追いかけてくる。動きは遅いが賢い。とりあえずは車で距離を稼げ」

 ジェイをイットが追いかけ始めるのを確認すると、ヒューはジェイを連れ出し、彼女の自宅まで運ぶと放り出すようにしてそのまま姿を消した。

 そして、後日ヒューの言う通り、イットがジェイを追いかけ始める。老婆の姿や中年女性、大男に小男といった姿となって彼女にしか見えないそれらが彼女を捕えようと一直線に歩いてくる。ひたひたと。ただひたすらに。

 ジェイは事情を妹や幼馴染たちに話し、彼らの協力でイットから何とか逃げ延びようとするのだが……。

という感じのお話。

 

感想 こっからはネタバレ前提なので未視聴ならば注意です。

 

 

 

 

 死、というものを、いつか自分は死ぬのだということを意識するのはいつからだったろうか。幼稚園児のころ、宇宙の終りを夢想してめちゃくちゃ怖くなったことがあるが、自分の死について考えたわけではなかったと思う。近しい人の死に触れても、小学校のころはやはりそれは自分とは無縁なものと感じていた。知識として人間は死ぬと知っていても、それが自分に当てはまると考え始めるのはやはり、思春期ぐらいからだったと思う。だけど、それでもそれはまだ曖昧な予感に過ぎなかった。

 この映画におけるイットは明らかに死のメタファーだ。それはゆっくりと、だが確実に迫ってくる。この映画が大ヒットした一因として、そのいつか訪れる死の予感を明確に映像として映し出したからなんだと思う。そしてそれが死を曖昧に意識し始めたティーンたちに突き刺さったのではないか。彼らを追いかけてくるイットの姿がことごとく、彼らよりも年上、中年以上の男女の姿であるというのも示唆的だ。

 この映画はホラー映画であると同時に、青春映画でもある。登場人物は大学生しかほぼ登場せず、大人たちは背景にいるモブ、もしくはイットとして出てくるのみ。なんというか、ヤングアダルト物っぽい感じ。メインの少年少女は大学生なんだけど、酒やタバコの描写とかも薄目かつ、見た目も少し幼げでぱっと見、高校生臭さが抜けきっていない感じだ。

 ジェイは前述した述懐のように、大人なるものへのあこがれ、そしてそれを性行為という形で達成したものの、そこからどこへ行けばいいのか、戸惑い、大人と子どもの境界線上にいる。ある意味、セックスすれば大人になれるのか、というティーンの思いと戸惑いを象徴するキャラクターだ。そして彼女にずっと思いを寄せつつもそれを表現することができない少年、ポール。そんな彼を見透かしながらも何も言わず、『白痴』を引用することでそれを示す文学少女のヤラ。そんな感じで、ポールのジェイに対する恋心がじれったいながらも少しづつ表出していく映画でもある。

 あと、この映画、ジェイのためにみんなが彼女の自宅や幼馴染の別荘、学校といった場所で集まって護衛するわけなのだが、それがお泊り会みたいな感じになってて、そのへん、『台風クラブ』みたいな青春物感。

 そして画面が美しい。どこか瑞々しいというとヘンな感じがするかもだが、昏い美意識みたいなものが画面に満ちている。そこからいつイットがあらわれるのか、という静謐な緊張感が忍び寄り、なんとも言えない映画の時間を創り上げている。

 さらに、なんといっても廃墟の描写。デトロイトを舞台にした本作は、廃墟と化した家々が連なる現在の姿を残酷な形で映しつつ、それが、ある意味死を色濃く連想させる絵面となっている。音楽も印象的というか、カーペンターっぽいシンセが廃墟の描写などと相まって恐怖感を盛り上げてゆく。

 ホラーとしては、退廃的な美の世界で、曇りや雨といったいかにもな天候の使い方がゾクゾクくる。そしてなんといっても追いかけてくる“イット”のアイディアだ。ゆるい動き、というのはゾンビで、追いかけられる対象の人間にしか見えない、というのは幽霊。そのハイブリットである、ゾンビ幽霊みたいな造形がユニーク。人がたくさんいる中に紛れていて、一見すると分かりずらく、しかし、それとわかると明らかに異質なものが迫ってくるという、二段仕込みの緊張感を視聴者に与えることに成功していて、観ている間じゅう、ずっと嫌な予感に囚われ続けることになるのだが、これが怖い。やはり、ホラーの神髄は予感であるなあ、と。

 

 エロスとデスは兄弟

 『生ける屍の死』という小説に上のフレーズがある。この映画はまさにそんな感じだろうか。エロス(性愛)によってデス(死)が自覚されつつも、死はまた性愛によって遠ざけられる。とはいえ、イットを他人に移しても、移した人間がイットに捕まれば、また追われる。呪いは解除されるわけではなく、順番が後回しになるだけなのだ。性の目覚めと共に、死もまた追いかけてくる。性交によって感染するということは、それが可能な“大人”は全てがその対象であり、それは、生き物すべてに降りかかっている普遍的な真理だ。生きとし生けるものはすべて死が訪れる。しかし、それを性愛によって子どもを産むことで遠ざけていく。そうやって生き物は存続していく。

 大人になるということは、死を自覚し見つめざるを得ないことなのかもしれない。それは必ずやってくる。一日がすぎればまた一歩。ひたひた、ひたひた。そして一年が、十年が過ぎて、あるいは突然、誰もがそれに捕まる。それは避けようがない。

 この映画のラストシーン、ポールの愛を受け入れ、セックスしたジェイ、手をつないだ二人の後ろ、遠くに近づいてくる男の影、最後に二人の背中を映して物語は終わる。結局は逃れられないのかもしれない。しかし、二人で歩く、愛する誰かと一緒にいる――その永遠にも思える瞬間だけは、死の恐怖を遠ざけているのかもしれない。

 みんな学校嫌いとか言う割には見事に“学校”的な世界観で生きてると思うんだよ。

 少なくとも日本人にとって世界は巨大な精神病院じゃなく学校で、鉄格子の内外なんかじゃなくて校門の内外でしかないんじゃないの……という、まあ、そんな感じ。

 久しぶりに中井英夫のきょむくもをペラペラ読んで、著者になんか言いたくなった……そんだけ。

幻想にしてSF プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』

 

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 プリーモ・レーヴィの『天使の蝶』はどこか独特の雰囲気をたたえた小説です。

 著者は化学者だったらしいのだが、作品には生物、生物学的なモチーフが頻出し、解説にある通り、生物学的幻想譚ともいえる印象深い短編が納められているます。

 一方でそれと同じくらい異彩を放つのが、営業マンシンプソン氏シリーズともいえる一連の連作(?)短編群。「詩歌作成機」で初登場するシンプソン氏は、「低コストの秩序」「《ミメーシン》の使用例」「美の尺度」「完全雇用」そして「退職扱い」で文字通り(色んな意味で)退職するまで「私」の前に現れてはNATCA社製のなんか怪しげな商品を勧めてくる。作品集内でのそれぞれの編集が巧くて、幻想系の短編の後にシンプソン氏のごとくふらっと現れて、またお前か、という絶妙の緩急がつけられているのも愉しい。

<生物と科学による幻想の生成>

  レーヴィの短編は、特徴の一つとしてSF的なガジェットを扱いつつもどこか幻想性が漂い、そこがこの著者の小説が持つ不思議な魅力となっています。その幻想性の源というのがおそらく生物的なモチーフであるのではないか。生物という生々しい自然とそこに無機質的な科学法則、理論が持ち込まれ、それが対立するのではなく、混じり合うことで著者独特の幻想性が紡がれます。

 表題作の「天使の蝶」が恐らくその最も高い達成でしょう。狂気の学者による奇妙な科学理論と発見された鳥類のような奇妙な骨から人間、天使、蝶、そしてイモムシというモチーフがおぞましくも昏い幻想性をたたえる逸品となっています。それからこの短編は作品の中で唯一、著者のプロフィールにある、アウシュヴィッツ強制収容所に収容された経験を色濃く映すものとなってもいるのです。(舞台も大戦後のベルリンとあります)

 もちろん、幻想的なだけじゃなく、時には「人間の友」や「創世記 第六日」のように諧謔み溢れた逸品もあり、レーヴィの統一を保ちつつも作品の幅の広さに感心させられます。

 というか、なかなかレーヴィはユーモアの精神にあふれていて、それもまたこの作品集の魅力の一つといっていいでしょう。そしてそのユーモアの後ろには、どこかしら鋭い皮肉が潜んでもいます。

諧謔み溢れた連作、営業マン、シンプソン氏シリーズ>

 作品のもう一つの根幹といっていいのが、営業マン、シンプソン氏が「私」のもとにNATCA社製の妙な機械を売りつけに来る一連の短編です。「詩歌作成機」という文字どおりの全自動詩歌作成機がやがてAIのような様相を呈する初登場作『詩歌作成機』から、今でいう3Dプリンター的な「複製機」を巡るあれこれという「低コストの秩序」「《ミメーシン》の使用例」、人間の顔の美の尺度を測定するカロスメーターが描く皮肉「美の尺度」、営業マンだったシンプソン氏が今度はとある研究に着手する「完全雇用」そして今でいうVRと色んな意味での“退職”が描かれる「退職祝い」と、SF的なガジェットとそれが描き出す皮肉的な状況が特徴の連作集となっています。

 もしかするとある意味こちらがレーヴィの本道のような感じでしょうか。シンプソン氏が持って来る機械を私がいじくりまわしているうちに皮肉なオチが待っている、みたいな形がベースとしてあるのですが、ドラえもんのように、装置を過度に悪用してオチがつくというわけじゃなく、横からよりうまく使うやつが出てきて幕とか、そういうより皮肉っぽいお話が展開されていて楽しませてくれます。「完全雇用」において、シンプソン氏の研究がこれまで売りつけてきた機械的なものではなく、生物的な理論というのもなかなか面白い。あと、全体的なテイストはちょっと星新一を感じさせます。

 そしてその皮肉なテイストが、科学や人間、どちらを賛美したり、危険視したりもせず、どこか突き放したような著者の視線を感じさせます。技術が人間を幸福にするとか不幸にするとか、技術を使う人間のヒューマニティーだとかそいう技術と人間まわりにわきやすい思想性に特に興味がない、何処かそんなドライな感覚がまた著者の作品を特徴づけているようにも感じたのでした。

 

『地獄の黙示録』

 結構前なんですけど、午前十時の映画祭で観てきましたよ。そしてこれが初めの『地獄の黙示録』だという。

 なんかすごい……んだけど、同時に妙にチグハグ感というか、前半のノリノリなドンパチから次第に鬱っぽい閉塞感を経て、何だか妙に煮え切らない形で幕を閉じます。

 いやでも、それは下敷きにしているジョセフ・コンラッドの『闇の奥』のテーマに沿ってはいるのだが。川をさかのぼっていくうちに、やがて自分たちが、未開人と蔑む現地の人間と区別がつかなくなる――果たして我々は自分で思うほど「文明人」なのか?

 そうやって主人公たちは自分自身の“闇の奥”に入りこんでいく――この映画はそういう構成にはきちんとなっているのだ。

 妻と離婚してまで戦場に舞い戻ってきた主人公のウィラード大尉は、軍を離れベトナムの奥地で独自の王国を築くカーツという男の抹殺を命じられる。優秀な軍人でありながら、カーツは何故、独立王国を築くに至ったのか、次第にウィラードはまだ見ぬカーツという男に興味を抱いていく……。

 なんかすごい奇妙な何かを感じる映画だ。たぶんそれはクリエイターが発する“迷い”の瘴気なのか。やろうとしていたことが次々と襲い来るトラブルで出来なくなり、泥縄式の映画であることは画面に焼き付いている。後半は誰が見たって撮影時の逸話を知らなくてもグズグズだと感じるに違いない。

 しかし、それでも下敷きの『闇の奥』であろうとするがゆえに、いや恐らくそれしかすがるものが無かったがゆえに、強固なまでに骨格としてすじは通っている。主人公たちは「文明人」としてベトナムに入り、川を遡ってゆくごとに、やがて自らの「未開人」性を露にしていく。前半の派手な躁的演出は後半になるとなりを潜め、しだいにぼんやりとした鬱的な、そしてどこか神話的な世界が顔を出す。

 そこはなんか、『闇の奥』にフレイザーの『金枝篇』を接木したような感じがちょっとするのですが……。まあ、欝々とした果てにデニス・ホッパー演じるヤク中のカメラマンがのたまう様に、世界はめそめそと終わっていく、そんな感じでこの映画も幕を閉じます。

 テーマとしては一応のところ一貫性を保っているはずなのに、何故かチグハグな感じがしてしまう映画、それがこの作品の奇妙な魅力なのかもしれません。

走るだけでも十分面白いアニメ、その名は『ウマ娘 プリティーダービー』

 『宇宙よりも遠い場所』『ゆるキャン△』という傑作も終わり、今現在、アニメは何を観てるかというと『ウマ娘 プリティーダービー』『メガロボクス』『ルパン三世Prt5』を観てます(『BEATLESS』も引き続き観てます)。

 中でも特に個人的に来てるのが『ウマ娘 プリティーダービー』なんですね。残すところあと一話とほとんど終りに来た今、さぼりにさぼり、ようやくの更新として、このアニメについて書くことにしました。

 ていうかこのウマ娘というプロジェクト、けものフレンズJRAとコラボした時に、そのプロモみたいなのをなんとなく目にした時があって、その時は、流行りに乗っかったような競走馬の美少女化プロジェクトか、みたいな感じで半笑いしてたんですよ。内容もなんかちょっとやなローアングルとか、内股気味の走りとか、無理して突っこんだような百合っぽい描写とかあって、ちょっと見て興味をなくしたんです。

 で、アニメのほうもtwitterのTLにちらちら上がるだけで、あ、今やってるのかぐらいだったんですが、競馬好きっぽいフォロワーさんが結構熱心に観てるっぽいのでちょっと興味をもって一話を観てみたのでした。

 最初は唐突なライブとかにやっぱり戸惑ったというか、なんか変なアニメだなーぐらいの感想だったんですが、最初に観たPVとは雰囲気が一変してて、観て嫌っていう感じはなく、変に媚びてもいなかったので、なんとなく続きを観ていくうちに次第にハマったという感じでしょうか。

 レース結果とかウマ娘たちの細かい設定は事実を基に構成されているみたいなんですけど、それを特に知らなくても、普通にスポーツものとして楽しめて、イロモノな見た目からすると意外にも素朴な味わいみたいなのが個人的にはクセになる感じでしたね。

 そうなんです、競走馬の美少女化+アイドルライブという一見イロモノ的な見た目にしては展開やキャラクターの性格など、実のところ素朴なんです、このアニメ。凄い外連のある、予想外の展開とかオタク好みの細かな裏設定を小出しにしたりとか、裏表のあるキャラクターの複雑な関係性とかがあるわけじゃないですし、どちらかというと感情の機微や人物同士の距離感を真っすぐに描く感じで、展開も素直な一本道のストーリー。その辺は『宇宙よりも遠い場所』(はサブで表裏の複雑な感情を持つ人物がいたりしますが)や『ゆるキャン△』に連なるアニメといえます。あと、大人たちがいい味出してて(特にトレーナー)そこもまた、近い感じがしましたね。

 アニメーションにしても、アニメだからみたいな過剰さや外連味のある超人アクションって感じじゃなくて、演出も古典的で丁寧。隠された裏読み設定みたいなのも最初のナレーション以外は皆無。一応ウマ耳の女の子が凄い速さで走るということ以外は陸上競技的な枠内に収まってるんですよ。女の子がめっちゃ必死にガチ走りする(+申し訳程度のライブ)、そんだけ。でもそんな彼女たちの“走り”にすごく引き付けられるんですね。

 走る、という所をきっちり、しかも豊富に描いてきてくれていて、走るという、ある意味アニメーションの原点というか、アクションの原点みたいなことをここまでじっくり描くアニメ、鑑賞できるアニメってそうそうないような気がします(まあ、私が知らないだけという可能性も大いにありますが)。競走馬、というモチーフを擬人化したからこそできた面白さといっていいのではないでしょうか。

 もちろん、走る以外にもキャラクターごとの現実のレースや生涯を知ってから見る楽しみや、そこかしこにちりばめられた小ネタやキャラクター同士の掛け合い、シリアスな中に適度に挟まれるギャグの緩急といった要素も素晴らしい。

 あと、彼女たちがG1レースで着る特別な勝負服がカッコイイんですよ。特にエルコンドルパサーグラスワンダーたちのゾロッとしたコートっぽい服装で突っ走る姿は特にかっこよくて好き。

 それから、やっぱり、キャラクターたちがみんな勝ちたい、という気持ちを前面に出してくるところがいいんですよね。所属チームのなかでみんなでわちゃわちゃするだけじゃなくて、チームは個人を高め合う場としてある。そうやってそれぞれがそれぞれのレースを勝ちに行く。そして、チームを越えて、相手をリスペクトする姿勢。そこを外さないことが、スポーツものとしてすじを通している大きな要因なのではないでしょうか。

 とにかくあと一回で最後(まあ、12話で実質的な最終回は迎えましたが)。最後まで彼女たちの走る姿を見届けようと思います。