蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

意外と出来がいいぞ:映画『スクリーマーズ』

 

スクリーマーズ [DVD]

スクリーマーズ [DVD]

  • 発売日: 2001/06/21
  • メディア: DVD
 

 

 フィリップ・K・ディックの短編「変種第二号」を原作とした1995年に公開された映画。監督はスキャナーズ2など(観たことない)クリスチャン・デュゲイ。主演はロボコップでおなじみのピーター・ウェラー。そして脚本がダン・オバノン

 数あるディック原作映画の中では、あまり語られない映画の一つといっていいと思われる本作ですが、なかなか悪くないです。まあでも、84年の『ターミネーター』の衝撃とさらに91年の『ターミネーター2』を通過してしまってこれ、というのは確かに埋もれるのはむべなるかな、という気はします。低予算の後追い映画っぽいですしね……。

 しかし、原作を尊重しつつ、ひねりを加え、そして大衆向け的なエンドの中に不安をこっそりしのばせる、というオバノンの見事な脚本術が、きちんとディック原作映画として成立させています。

 原作の兵器クロ―が自己進化していつしかヒト型兵器となったそれらは、人間と区別がつかない数々の“変種”を生み出し、見境なく人間を襲い始めていく。人間に成りすました変種は誰か、という原作のサスペンスをきっちり組み込んで、殺人マシーンが紛れ込んでいるという「ターミネーター」では味わえなかった人型アンドロイドならではの恐怖をみせてくれます。地味っちゃあ地味ですが、しかし基地が乗っ取られ、大量の子供型変種第三号がわらわらと基地内から出てくるシーンとか、同規格のものがゾロゾロわいて出てくる恐怖感が出ててなかなかいいです。

 ただ、ラスト付近の改変はたぶん賛否が分かれるところでしょう。いかにも大衆映画向きな“愛”の演出とかは、ちょっと唐突感もあって嫌う人もいるとは思いますが、人間に似せる、ということのテーマとしてはアリというか。陳腐かもしれないけど、そこにある葛藤とかは、ちょっとグッときました。

 そして、最後のテディ・ベアの演出とか、恐らくハッピーエンドにしろというプロデューサーあたりからの圧力を受けつつも何とか原作のテイストを守ろうとする矜持のようなものを感じたりして、その辺にもちょっと感じ入ったしだいです。

 まあ全体的に地味目で、ヴァーホーベンの『トータル・リコール』のように異形の独自色で記憶に刻むようなインパクトは薄いかもしれませんが、似ても似つかない作品になってしまうディック原作群の中では、比較的原作を尊重した佳作になっているのではないでしょうか。(まあ、実のところ、『ブレードランナー』や『トータル・リコール』『マイノリティ・リポート』の方が好きな自分としては原作に忠実、ということはそんなに気にするポイントではないのですが)

 

変種第二号 (ハヤカワ文庫 SF テ 1-24)
 

煙草と霧と放射能:島田荘司『ゴーグル男の怪』

 

 

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

ゴーグル男の怪 (新潮文庫)

 

 

 とりあえず結論から言うと『ゴーグル男の怪』は幻想小説の傑作である。著者だから書き得た異形の幻想ミステリといってもいいのかもしれない。

 よって、ミステリ的なネタの切れ味や著者ならではの豪快なトリックを期待する読み方をすると、はっきり言う、失望するだろう。また、謎がすべてはっきりと解かれないとミステリではない、という方がいたとするなら、手に取る必要はない。この小説はその明らかにならないことが幻想小説としての最大の効果なのだから。

 あらすじ

 事件は煙草横丁という、煙草屋が三件隣接する町――その一軒の煙草屋の店主である老婆殺人事件から始まる。通報を受けた警察官はそこで現場をうかがう奇妙な男を発見する。男は逃走するが何故かゴーグルをつけていて、そのゴーグルの中は赤くそまり、まるでただれているかのようだった。

 そして、霧に沈む町にゴーグル男の目撃情報が多発しはじめると、人々は噂し始める。あの男は住吉科研――核燃料製造会社の敷地内からやってきたのだと。かつて臨界事故が起こったその敷地内でうごめくものは何か。ゴーグル男とは何者なのか。老婆殺人事件から始まった奇妙な出来事は、やがてその霧に沈むくそったれな世界の底でもがく人々の思いを、青白く発光させる。

 

※とりあえず、この先はネタバレ前提で語っていきますので、そのつもりでいてください。

 

 

 

 この作品はかつて、NHKの犯人当て推理ドラマ「探偵Xからの挑戦状」のために書かれたシナリオへ、大幅にディテールを追加した形で刊行したもので、私が読んだ今回の文庫版はそれに最後の40章を書き足したもの。ミステリ的な部分――ゴーグル男の生れる理由やら、殺害された老婆のそばで発見された奇妙な蛍光ラインの入った五千円札がドラマ時の部分で、事件と並行して語られるある人物の半生記のようなものが小説として新たに大幅に書き足された部分であります。というか、この小説のほとんどメインといってもいいものとなっています。

 そして、この事件とは別のもう一人のゴーグル男の存在が、この小説を幻想小説として成立させることとなったのです。

 この人物は核燃料を製造する住吉科研で働いている社員であるということは示されますが、ついに名前を明かされません。最後まで名前のわからない――そしてそれが最初に書いたようにこの小説を幻想小説として強く覆うことになっている。その半生を含め、幼い日に受けた性的虐待などをディテール細かく描くかれる青年は、最後まで名前を明かされず、彼自身の内面が抱える傷や不安はくっきりしているのに、存在自体はどこかあやふやなのです。

 あやふやといえば、この小説の大枠もまた、ディテールは細かいが、時代や場所がどこかあやふやです(場所の名前ははっきりと書かれているが、実際には存在していない)。そして、この舞台は頻繁に霧に包まれ、その霧の中で名無しの青年の不安定な情緒が投影されるように、時おり夢か現か判然としない、悪夢のような光景を見せていきます。

 この小説を幻想小説たらしめている基礎的な要因はまず、そういう島田荘司ならではのディテールの細かさといっていい。貧しい町であえぐように生きている人々、生々しい被害の記憶。そして、実際の東海村での臨界事故を再現した描写。その社会派的なリアリズムがやがて揺らぎ、霧の中に沈み始めることで幻想性が浮かび上がってくるのです。

 そしてその為の小道具の使い方が周到です。要は舞台の町には霧、事件には煙草、そしてメインの人物である名無しの青年には放射能という割り振りが、見事に最近の島田作品にありがちだった大きな要素どうしの乖離を防ぎつつ、全体的に幻想の靄をかけることに成功しています。これは本当に見事で、ドラマ時期に重なる東日本大震災による社会テーマの浮上が、奇跡的に結びついた結果といっていいのではないでしょうか。

 霧が覆うある種の異空間に日本で実際に起きた臨界事故を持ち込み、過去に傷を負った名も無き青年に事故の原因や悲惨さを細かく語らせていく。読者にもついに名は明かされないその寄る辺なき青年が、最後の最後で、思いがけなく出会う――その一瞬の幻想的な邂逅に、彼は希望の光を見る。彼は自分自身の半身と信ずるものに出会うのだ。その瞬間はどこか滑稽で悲しく、しかし尊い

 ただの一方的な思い込みのようなものでしかなかったのかもしれない。だが、それは確かに青白く光ったのだ。

やみをみるめ

 先日、復刊していた『八本脚の蝶』を手に入れることができ、少しづつ読んでいる。これは本で読みたかった。本になって、その遺された言葉たちをカタチとして手に触れる、その手触りを愛おしみながらページをめくる。

 彼女は自分とはあまりにも違う人だ。その言葉に触れるたびこんな人がいたのか、という思いが離れない。その繊細で研磨された精神はあまりにも遠く、私はただただ、その遠くにいる存在を畏怖の念と共に見つめることしかできない。

 どうやったらこんなにも本が読めるのだろう、どうやってこんな本を見つけてくるのだろう、そしてどこからその言葉は出てくるのだろう。そんなことばかり考える。

 次元の違うその絶対的な距離を測るために、私はこの本を開いている。

こわがりでよわいのはかまわない(仕方がない)が、楽になろうと力任せに粗雑に何かを定義してはいけない。

 

 ※とてもどうでもいいことだが、二階堂氏は怪我をした女の子が好きということだが、私はご飯をおいしそうに食べる女の子&男の子が好きだ。闇の眷属にはなれそうにもない。

メイドインアビスを二巻まで読む。これ、もしかしてヤバイやつなんじゃ……。ものすごい細かい世界のディテールを作者が楽しみながら作ってるのがビンビンに伝わってきて、うわあ……という感じでその世界を楽しく覗き込んでいたわけですが、作者が隠し持っていた闇の片鱗が露になり、傍観者的なものだったはずが、にわかにニュッと手が伸びてきて、その深淵を覗き込むこむことになった気分。

思いのほかこの作者は暗がりを抱えている……いや、どちらかというと鋭い光を持つというか、描く意思を持っている。そしてそれゆえに濃い闇を呼び寄せているのか。

とにかく、続きがいろいろ気になる。

「ホワイダニット」嫌い

 ちょっとミステリについて書いてみようかなーみたいな話。

 ミステリ、というか本格、本格探偵小説についてのひとりごと。

 突然ですが僕、フーダニット、ハウダニットホワイダニットとかいう言葉あんまり好きじゃないんですよ。僕も今まで使うことはあったし、使いやすいのかもしれないけど、何かイヤなんですよね。使いやすい言葉には注意というか、その使いやすさゆえに取りこぼすものがあるというか……。

 まあ、もともとこれらが使われる中で、序列ができているというか、どちらがより優れている、高度であるという文脈で語られることがあって、それが嫌だったんですね。

 機械的トリックより心理的トリックの方が優れている、とかいう類のいっぽう方向的な進歩史観のようなしょーもなさが張り付いているといいますか。

 つまり、機械的なものから心理的なものへと移ることが高度である、という前提に基づいた、心理的な“動機”を扱ったホワイダニットの方が他よりも優れている、という認識。

 そういうわけで、特にホワイダニットという言葉が嫌いなのです。響きもバカっぽいし。

 そもそもホワイダニットという言葉自体が変だと思うんですよ、動機の謎という認識になっているわけですが、Whyというのは“なぜ”であり、その“なぜ”は何故やったかという犯行動機にかかるだけではないじゃないですか。落ちている手掛かりに対して、なぜそこに落ちているのかという何故も当然ある。なぜ彼が犯人なのか、なぜこの状況は生じたのか。

 そもそも、推理小説、探偵小説というのはそのような“なぜ”の集積であり、その何故に答えていくことが、事件を解決することに繋がるわけで、つまり、探偵小説において、最も大事なのは、何故そうなのかを一つ一つ論証していくそのプロセスにあるわけです。

 ホワイダニットをはじめとした~ダニットという言葉は、そのミステリの本質である何故のプロセスではなく、誰が、どうやって、何でやったのかという点にのみ焦点を当て、その結果のみに重点を置くようにしてしまう。つまりはネタがどうであるか、という考えを形作ってしまうわけです。そしてそれは、違った種類の“驚き”を取りこぼすことにはならないだろうか。

 ネタのインパクトで作品を見ることは、まあ構わないとは思うのですが、それのみで見ることは、驚けないからダメ、みたいな了見の狭い意見を生み出しがちです。実は驚きはどこにでもある。犯人が意外でなくとも、それを導き出すプロセスには驚きが潜んでいるかもしれないのです。

 まあそういうわけで、私はこれらの言葉に対しては、もういいじゃないかというふうに思っているわけなのです。固定化されたものではなく、推理小説にはいろいろな“なぜ”が、そしてそれに基づく豊かな“驚き”が潜んでいるはずなのです。

鬼が夢見る帝国:孤島の鬼

 『孤島の鬼』を久々に再読したんですが、やっぱ面白いですね。次々と移り変わっていくストーリーは、後ろを振り返らない、その場その場の展開の連続という感じなんですが、それがあれよあれよと、とんでもないところへ主人公が流されていく感じとうまくリンクしています。とはいえ、乱歩の長編作品としては、かなり整合性に気を使っていて、過去に過ぎ去ったアレコレがきちんとここに結びつく、みたいな感じで説明されています(ただ、その辺の“整合性”に気を使った部分は、なんかダルそうというか、乱歩自身が書いてて面白くなさそうな印象を受けるのですが)

  中盤の手記の部分はすっかり忘れていたのですが、異様な迫力があり、久作の『瓶詰地獄』を思わせます。もしかしたら、意識したのかもしれません。

 今回読み返して思ったのは、本格ミステリや冒険小説といったこの小説が語られる時の側面よりも、やはりフリークスの描写、その見世物小屋的な空間でうごめく奇形の宴の方に、著者の熱量がかたむけられているように感じてなりません。なかでも、諸戸の父とされる男、丈五郎の壮大な怨念。

 人間をフリークス化して生産する。そして、世界を不具者で満たそうとする。そのあまりにも奇形な情念は、虐げられた自身から発せられている。

 自分を虐げた世界を自分自身へとすること。これ、最近X-MENで見た光景だ……。そう、乱歩がもうすでに先んじていたのだ。これにはなかなか興奮しました。

 私を虐げる世界をその虐げられる私で満たそうとする、そのものすごく観念的な犯罪の形にこそ、この作品の先駆性、そして本質が現れているのではないでしょうか。

 都会から来た主人公たちが理が及ばない場所で変貌していくように、探偵小説的な展開がやがて飲み込まれ、フリークス化していく。それが孤島の鬼であり、おそらく乱歩の自分では気づかなかった(もしくは欠陥とみなした)彼の探偵小説家としての特質だったのではないか、そんなふうに私は思うのです。

孤島の鬼

孤島の鬼

 

乱歩と僕

 別の場所で乱歩について書いた文章があったので、そっちのやつもこっちに貼っちゃおうかな、という感じで掲載してみました。東京の乱歩邸に初めて行って、その時のテンションで書いたやつなので、若干、ヘンなとこもありますがそこは片目をつぶってもらって……というかまあ、ヘンなのはいつもか。


 僕が江戸川乱歩という作家に出会ったのは小学二年生の時。僕はそのころ講談社の少年少女世界文学館のシリーズを読んでいて、そこでホームズに突き当たって探偵小説なるものの魅力を知り、もっとこういう物はないのかと母に聞いたところで薦められたものが『怪人二十面相』でした。たちまち夢中になった僕は、学校や公民館の図書室を巡り、名探偵明智小五郎とその助手小林少年の探偵譚をひとしきり漁ることになります。これが、僕のいわゆる"乱歩体験”の始まりでした。

 そこまでは僕にとって、江戸川乱歩とは、楽しい冒険小説を与えてくれる愉快なおじさんだったのです。しかし、この乱歩おじさんが本性を現す時がやってきました。二十面相につられた僕は、もっといいものを見せてやろうか……と導かれ、ノコノコ手に取った『魔術師』が運のつき。あの生首船「獄門船」の禍々しいインパクトと犯人の怨念と少年による残虐な殺人と……これでもかと乱歩おじさんはイヤラシイ悪夢を突きつけてきたのでした。

 それからは『地獄の道化師』や『暗黒星』、『蜘蛛男』といったいわゆる通俗ものと呼ばれる長編を読み進んでいくこととなります。それらの長編は確かに小学生が読むには残虐で、特に蜘蛛男の水槽に浮かぶ心臓を刃物で突き刺さされた女性の強烈過ぎるビジュアルなどは、かなりのショックでした。しかし、少年探偵団シリーズの明智先生バンザーイ、とかいう牧歌的な風景とはちがった、どこか作者自身が暗がりから呼びかけているかのような、そのうす昏い何かに引き付けられていったのでした。

 しかし、やがて中高生になると乱歩というといささか気恥ずかしい昔の思い出みたいになっていき、読む本も海外の本格ミステリから当時ムーブメントを確立していた新本格ミステリといった国内の作家たちによる、よりトリックやロジックの緻密な作品を読みふけっていくことになって、乱歩は幼い日の原体験の様な、どこか懐かしくも気恥ずかしい場所として振り返るぐらいのものになっていきました。
 そんな僕が再び乱歩に夢中になるのが、新潮社の「江戸川乱歩傑作選」。江戸川乱歩の傑作短編を収めたこの短編集によって僕はようやっと短編そして中編という、乱歩の最大の金脈を発見するに至ったわけです。

 乱歩の短編や中編は、中井英夫が言う所の探偵小説に必要なもの――巨大な詩と悪夢が詰まっていました。それはまさに毒草園の園丁、冥い宝石商としての乱歩が差し出す、昏くて、しかしどこか怪しく光る物語群であり、僕は再び乱歩の作品を読み漁っていくことになるのです。

 乱歩の魅力とは何か、それは語り口はもちろんですが、僕にとってそれはたぶん、虚実の何処か曖昧になっていく感覚――日常からやがて淡い夢幻の世界へと足を踏み入れていくような、どこか境界線があいまいになってゆくちょうどその一瞬であり、夢と現実の間をふらふら彷徨うような感じなのです。

 それは現実に居場所が無く、しかしあこがれの夢の場所には永遠に手が届かない、そんなどこまでいっても行き場のない感覚を体験させるものとしての作品世界であったように感じます。
 そういう意味で、僕は「白昼夢」と「目羅博士の不思議な犯罪」そして「押絵と旅する男」という短編たちが特に好きなのです。白昼夢は、短編と言うより掌編に近いくらいの枚数しかないのですが、そこに描かれる現実からふと夢の世界に足を踏み入れてしまったような感覚は他の追随を許さないものとなっています。

 乱歩の作品は、何となくふらふら歩いていたところに不可思議の扉が開くという話や、ふと現れた登場人物が自らの体験や異常な性癖を語りだすという形式が多々あります。それは、どこか異様な世界を透見しているような感覚を読む者に与えます。乱歩は、物語の内容もそうですが、特に優れていたのはその語り口であり、いかにして伝えるのかということに、ものすごく意識的であったように思います。それは彼が何度も小説を推敲して、研磨するようにして書いていたということからもうかがえます。

 一般に言って乱歩は長編などは特に、全体の構成を考えずに出たとこ勝負で描く作家、などという言われ方をします。確かに、乱歩の作品は理知的な、例えば横溝の様に怪奇性が論理性に奉仕するような作品ではありません。乱歩の怪奇はそれ自体が目的として存在し、そこに特に理知的な理由付けを行わないことが多く、それがミステリとして破綻していると取られることが多いのでしょう。

 でもそうでしょうか。乱歩にとって、その怪異は現実を覆い隠す様な単なるまやかしではなかった。彼の描きたいことそのものだった。そしてそれは、それゆえに小説の結構を破たんする寸前まで野放図に広がっていく。乱歩の"夜の夢”はいわゆる行儀のいい"現実”におとなしく押し込まれるものではないのです。

 乱歩の"夜の夢”は覚めることを前提としている――いつか覚める夢――そう言われることがあります。しかし、それも僕は違うと思うのです。夜の夢から覚めた私たちは、いわゆる現世を微睡、そしてまた夜の夢へと帰っていく――私たちの生とは、その夜の夢と現世の間を行ったり来たりすることであり、そのあわいを漂い続けることなのだ。だからこそ、乱歩の紡ぎだす現実の先にふとあらわれるような怪奇に惹かれていく。少なくとも僕はそうなのです。
 乱歩は論理的な探偵小説にあこがれながら、しかし、その論理にねじ伏せられることのない幻想を描き続けた。そこが彼の持つ最大の矛盾でありながらも最高の魅力なのだ、と僕は今ではそう思っているのです。

 まあ、なんというか面はゆい思い入れはここまでで、とりあえず、個人的な好きな乱歩作品を気ままにあげておこうかな、と思います。
まずは中・短編。

 「白昼夢」:これはもうただの偏愛です。道を歩いていた男の前に現れる、奇妙な光景。ねばりつくような暑さの中、子供たちの縄とびの掛け声、ちんどん屋の呼び子、そしておぞましい見世物に群がる人々。どこか狂った祝祭のような空間は、やがて男を、そして読者を取り残すようにして遠ざかっていく。最後の呆然と取り残されていく感覚が素晴らしくて何度も読んでしまう短編です。

 「目羅博士の不思議な犯罪」:これは後で長すぎるという理由で作者自ら「目羅博士」とかいう題名に変えられてしまいましたが、そこは中井英夫同様、断然抗議したいところです。これもまた、幻想がふいに忍び込んでくる感覚から始まる奇怪な話です。“月光の妖術”という言葉どおりの摩訶不思議な犯罪譚。月光に照らされるビルディングというそれだけで幻想性を手繰り寄せていく乱歩の筆致が素晴らしい。

 「押絵と旅する男」:乱歩の幻想小説の代表作として真っ先に取り上げられるのがこの作品。冒頭の蜃気楼の描写から電車の中で語れれていく幻想譚。ふとしたきっかけのようなものが、幻想性に反転する瞬間が秀逸。そしてやはり、読者は語り手とともにどこか取り残されたような感覚を味わう。

 「赤い部屋」:こちらは物語の最後の締め方が気に入っています。ラストの漂う寂寥感は、種を明かすことの寂寥感、物語る者が抱える寂寥感のような気もします。

 「踊る一寸法師」:どこか狂った影絵めいたラストが気に入っています。妙に後を引く短編。

 「芋虫」:戦争で手足を失った男、という設定と題名からイヤな感じが付きまとい、男と女の支配する、されるの感覚が淫靡な形で描かれていきます。当時の現実から派生した異様な物語はものすごい迫力を湛えています。

 「陰獣」:陰獣とは猫のような小動物のこと。「孤島の鬼」と並んで乱歩の最高傑作と誉れの高い作品。どこか淫靡な雰囲気とサスペンスがあふれ、本格推理的にも一定の達成を見せた作品で、バランスのいい作品でもあります。死体発見シーンとか、汚いはずの場所なのに妙にエロチックな感じがしますね。なぜでしょう。

好きな長編
 「孤島の鬼」:なんといってもこれ。本格推理に暗号解読、そして洞窟での財宝探検。のちの横溝正史による「八つ墓村」に多大な影響を与えたと思われるプロットは、本を読む手を止めさせません。まさにサービス満点の一作といってもいいでしょう。なんといってもラストの洞窟のシーンが、狂ったようなでもどこか悲しさを感じさせる場面で印象に残ります。

 「幽霊塔」:黒岩涙香の同名小説の訳案で、涙香自身もまた海外の作品の訳案。ながらく何の作品を訳案したのか不明なままだったが、2000年に入ってようやくアリス・マリエル・ウィリアムソンの「灰色の女」であることが明らかになった。
これもまた面白い宝と女性をめぐる息つく間もない冒険譚です。幽霊譚の残る古びた時計塔とその地下に眠る財宝、というザ・冒険小説といったたたずまいが素晴らしいです。

「魔術師」:カウントダウンされていく殺人予告、という発端から始まる残虐極まる殺人劇。殺人鬼「魔術師」と名探偵明智小五郎との戦い、といういわゆる通俗物の嚆矢。とはいえ、探偵対怪人というヒーローものらしいつくりや、密室といった本格要素、異様な殺人者という目を引く要素をこれでもかと詰め込んでいくスタイルがかなり好きです。

 「三角館の恐怖」:ロジャー・スカーレット「エンジェル家の殺人」を訳案したもの。乱歩の長編で、一番本格推理らしいのはまあ、元がそうだから、としか言えないですが……。すっきりして面白いですし、元と比べてみても面白いかもしれません。

 「地獄の道化師」:まず題名が大好き。すごい題名だ。発端もオープンカーから投げ出された石膏像の中から顔のつぶされた女の死体が出てくるすさまじいもの。全編ドロドロした感じで、推理小説的な要素は乏しいものの、犯人像とそこにあるものすごい執念めいた動機と行動が印象に残ります。

 まあ、大体こんな感じですか。ほかにも優れた作品はたくさんありますし、特に中、短編はどれを読んでも損はないと思うので、乱歩初めて、という人はまずは新潮社の『江戸川乱歩傑作選』そして『江戸川乱歩名作選』から手を付けるのが手っ取り早いのではないかと。あとは東京創元社や光文社の全集などに手を出していけばいいのではないかと思いますね。