蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

「ホワイダニット」嫌い

 ちょっとミステリについて書いてみようかなーみたいな話。

 ミステリ、というか本格、本格探偵小説についてのひとりごと。

 突然ですが僕、フーダニット、ハウダニットホワイダニットとかいう言葉あんまり好きじゃないんですよ。僕も今まで使うことはあったし、使いやすいのかもしれないけど、何かイヤなんですよね。使いやすい言葉には注意というか、その使いやすさゆえに取りこぼすものがあるというか……。

 まあ、もともとこれらが使われる中で、序列ができているというか、どちらがより優れている、高度であるという文脈で語られることがあって、それが嫌だったんですね。

 機械的トリックより心理的トリックの方が優れている、とかいう類のいっぽう方向的な進歩史観のようなしょーもなさが張り付いているといいますか。

 つまり、機械的なものから心理的なものへと移ることが高度である、という前提に基づいた、心理的な“動機”を扱ったホワイダニットの方が他よりも優れている、という認識。

 そういうわけで、特にホワイダニットという言葉が嫌いなのです。響きもバカっぽいし。

 そもそもホワイダニットという言葉自体が変だと思うんですよ、動機の謎という認識になっているわけですが、Whyというのは“なぜ”であり、その“なぜ”は何故やったかという犯行動機にかかるだけではないじゃないですか。落ちている手掛かりに対して、なぜそこに落ちているのかという何故も当然ある。なぜ彼が犯人なのか、なぜこの状況は生じたのか。

 そもそも、推理小説、探偵小説というのはそのような“なぜ”の集積であり、その何故に答えていくことが、事件を解決することに繋がるわけで、つまり、探偵小説において、最も大事なのは、何故そうなのかを一つ一つ論証していくそのプロセスにあるわけです。

 ホワイダニットをはじめとした~ダニットという言葉は、そのミステリの本質である何故のプロセスではなく、誰が、どうやって、何でやったのかという点にのみ焦点を当て、その結果のみに重点を置くようにしてしまう。つまりはネタがどうであるか、という考えを形作ってしまうわけです。そしてそれは、違った種類の“驚き”を取りこぼすことにはならないだろうか。

 ネタのインパクトで作品を見ることは、まあ構わないとは思うのですが、それのみで見ることは、驚けないからダメ、みたいな了見の狭い意見を生み出しがちです。実は驚きはどこにでもある。犯人が意外でなくとも、それを導き出すプロセスには驚きが潜んでいるかもしれないのです。

 まあそういうわけで、私はこれらの言葉に対しては、もういいじゃないかというふうに思っているわけなのです。固定化されたものではなく、推理小説にはいろいろな“なぜ”が、そしてそれに基づく豊かな“驚き”が潜んでいるはずなのです。

鬼が夢見る帝国:孤島の鬼

 『孤島の鬼』を久々に再読したんですが、やっぱ面白いですね。次々と移り変わっていくストーリーは、後ろを振り返らない、その場その場の展開の連続という感じなんですが、それがあれよあれよと、とんでもないところへ主人公が流されていく感じとうまくリンクしています。とはいえ、乱歩の長編作品としては、かなり整合性に気を使っていて、過去に過ぎ去ったアレコレがきちんとここに結びつく、みたいな感じで説明されています(ただ、その辺の“整合性”に気を使った部分は、なんかダルそうというか、乱歩自身が書いてて面白くなさそうな印象を受けるのですが)

  中盤の手記の部分はすっかり忘れていたのですが、異様な迫力があり、久作の『瓶詰地獄』を思わせます。もしかしたら、意識したのかもしれません。

 今回読み返して思ったのは、本格ミステリや冒険小説といったこの小説が語られる時の側面よりも、やはりフリークスの描写、その見世物小屋的な空間でうごめく奇形の宴の方に、著者の熱量がかたむけられているように感じてなりません。なかでも、諸戸の父とされる男、丈五郎の壮大な怨念。

 人間をフリークス化して生産する。そして、世界を不具者で満たそうとする。そのあまりにも奇形な情念は、虐げられた自身から発せられている。

 自分を虐げた世界を自分自身へとすること。これ、最近X-MENで見た光景だ……。そう、乱歩がもうすでに先んじていたのだ。これにはなかなか興奮しました。

 私を虐げる世界をその虐げられる私で満たそうとする、そのものすごく観念的な犯罪の形にこそ、この作品の先駆性、そして本質が現れているのではないでしょうか。

 都会から来た主人公たちが理が及ばない場所で変貌していくように、探偵小説的な展開がやがて飲み込まれ、フリークス化していく。それが孤島の鬼であり、おそらく乱歩の自分では気づかなかった(もしくは欠陥とみなした)彼の探偵小説家としての特質だったのではないか、そんなふうに私は思うのです。

孤島の鬼

孤島の鬼

 

乱歩と僕

 別の場所で乱歩について書いた文章があったので、そっちのやつもこっちに貼っちゃおうかな、という感じで掲載してみました。東京の乱歩邸に初めて行って、その時のテンションで書いたやつなので、若干、ヘンなとこもありますがそこは片目をつぶってもらって……というかまあ、ヘンなのはいつもか。


 僕が江戸川乱歩という作家に出会ったのは小学二年生の時。僕はそのころ講談社の少年少女世界文学館のシリーズを読んでいて、そこでホームズに突き当たって探偵小説なるものの魅力を知り、もっとこういう物はないのかと母に聞いたところで薦められたものが『怪人二十面相』でした。たちまち夢中になった僕は、学校や公民館の図書室を巡り、名探偵明智小五郎とその助手小林少年の探偵譚をひとしきり漁ることになります。これが、僕のいわゆる"乱歩体験”の始まりでした。

 そこまでは僕にとって、江戸川乱歩とは、楽しい冒険小説を与えてくれる愉快なおじさんだったのです。しかし、この乱歩おじさんが本性を現す時がやってきました。二十面相につられた僕は、もっといいものを見せてやろうか……と導かれ、ノコノコ手に取った『魔術師』が運のつき。あの生首船「獄門船」の禍々しいインパクトと犯人の怨念と少年による残虐な殺人と……これでもかと乱歩おじさんはイヤラシイ悪夢を突きつけてきたのでした。

 それからは『地獄の道化師』や『暗黒星』、『蜘蛛男』といったいわゆる通俗ものと呼ばれる長編を読み進んでいくこととなります。それらの長編は確かに小学生が読むには残虐で、特に蜘蛛男の水槽に浮かぶ心臓を刃物で突き刺さされた女性の強烈過ぎるビジュアルなどは、かなりのショックでした。しかし、少年探偵団シリーズの明智先生バンザーイ、とかいう牧歌的な風景とはちがった、どこか作者自身が暗がりから呼びかけているかのような、そのうす昏い何かに引き付けられていったのでした。

 しかし、やがて中高生になると乱歩というといささか気恥ずかしい昔の思い出みたいになっていき、読む本も海外の本格ミステリから当時ムーブメントを確立していた新本格ミステリといった国内の作家たちによる、よりトリックやロジックの緻密な作品を読みふけっていくことになって、乱歩は幼い日の原体験の様な、どこか懐かしくも気恥ずかしい場所として振り返るぐらいのものになっていきました。
 そんな僕が再び乱歩に夢中になるのが、新潮社の「江戸川乱歩傑作選」。江戸川乱歩の傑作短編を収めたこの短編集によって僕はようやっと短編そして中編という、乱歩の最大の金脈を発見するに至ったわけです。

 乱歩の短編や中編は、中井英夫が言う所の探偵小説に必要なもの――巨大な詩と悪夢が詰まっていました。それはまさに毒草園の園丁、冥い宝石商としての乱歩が差し出す、昏くて、しかしどこか怪しく光る物語群であり、僕は再び乱歩の作品を読み漁っていくことになるのです。

 乱歩の魅力とは何か、それは語り口はもちろんですが、僕にとってそれはたぶん、虚実の何処か曖昧になっていく感覚――日常からやがて淡い夢幻の世界へと足を踏み入れていくような、どこか境界線があいまいになってゆくちょうどその一瞬であり、夢と現実の間をふらふら彷徨うような感じなのです。

 それは現実に居場所が無く、しかしあこがれの夢の場所には永遠に手が届かない、そんなどこまでいっても行き場のない感覚を体験させるものとしての作品世界であったように感じます。
 そういう意味で、僕は「白昼夢」と「目羅博士の不思議な犯罪」そして「押絵と旅する男」という短編たちが特に好きなのです。白昼夢は、短編と言うより掌編に近いくらいの枚数しかないのですが、そこに描かれる現実からふと夢の世界に足を踏み入れてしまったような感覚は他の追随を許さないものとなっています。

 乱歩の作品は、何となくふらふら歩いていたところに不可思議の扉が開くという話や、ふと現れた登場人物が自らの体験や異常な性癖を語りだすという形式が多々あります。それは、どこか異様な世界を透見しているような感覚を読む者に与えます。乱歩は、物語の内容もそうですが、特に優れていたのはその語り口であり、いかにして伝えるのかということに、ものすごく意識的であったように思います。それは彼が何度も小説を推敲して、研磨するようにして書いていたということからもうかがえます。

 一般に言って乱歩は長編などは特に、全体の構成を考えずに出たとこ勝負で描く作家、などという言われ方をします。確かに、乱歩の作品は理知的な、例えば横溝の様に怪奇性が論理性に奉仕するような作品ではありません。乱歩の怪奇はそれ自体が目的として存在し、そこに特に理知的な理由付けを行わないことが多く、それがミステリとして破綻していると取られることが多いのでしょう。

 でもそうでしょうか。乱歩にとって、その怪異は現実を覆い隠す様な単なるまやかしではなかった。彼の描きたいことそのものだった。そしてそれは、それゆえに小説の結構を破たんする寸前まで野放図に広がっていく。乱歩の"夜の夢”はいわゆる行儀のいい"現実”におとなしく押し込まれるものではないのです。

 乱歩の"夜の夢”は覚めることを前提としている――いつか覚める夢――そう言われることがあります。しかし、それも僕は違うと思うのです。夜の夢から覚めた私たちは、いわゆる現世を微睡、そしてまた夜の夢へと帰っていく――私たちの生とは、その夜の夢と現世の間を行ったり来たりすることであり、そのあわいを漂い続けることなのだ。だからこそ、乱歩の紡ぎだす現実の先にふとあらわれるような怪奇に惹かれていく。少なくとも僕はそうなのです。
 乱歩は論理的な探偵小説にあこがれながら、しかし、その論理にねじ伏せられることのない幻想を描き続けた。そこが彼の持つ最大の矛盾でありながらも最高の魅力なのだ、と僕は今ではそう思っているのです。

 まあ、なんというか面はゆい思い入れはここまでで、とりあえず、個人的な好きな乱歩作品を気ままにあげておこうかな、と思います。
まずは中・短編。

 「白昼夢」:これはもうただの偏愛です。道を歩いていた男の前に現れる、奇妙な光景。ねばりつくような暑さの中、子供たちの縄とびの掛け声、ちんどん屋の呼び子、そしておぞましい見世物に群がる人々。どこか狂った祝祭のような空間は、やがて男を、そして読者を取り残すようにして遠ざかっていく。最後の呆然と取り残されていく感覚が素晴らしくて何度も読んでしまう短編です。

 「目羅博士の不思議な犯罪」:これは後で長すぎるという理由で作者自ら「目羅博士」とかいう題名に変えられてしまいましたが、そこは中井英夫同様、断然抗議したいところです。これもまた、幻想がふいに忍び込んでくる感覚から始まる奇怪な話です。“月光の妖術”という言葉どおりの摩訶不思議な犯罪譚。月光に照らされるビルディングというそれだけで幻想性を手繰り寄せていく乱歩の筆致が素晴らしい。

 「押絵と旅する男」:乱歩の幻想小説の代表作として真っ先に取り上げられるのがこの作品。冒頭の蜃気楼の描写から電車の中で語れれていく幻想譚。ふとしたきっかけのようなものが、幻想性に反転する瞬間が秀逸。そしてやはり、読者は語り手とともにどこか取り残されたような感覚を味わう。

 「赤い部屋」:こちらは物語の最後の締め方が気に入っています。ラストの漂う寂寥感は、種を明かすことの寂寥感、物語る者が抱える寂寥感のような気もします。

 「踊る一寸法師」:どこか狂った影絵めいたラストが気に入っています。妙に後を引く短編。

 「芋虫」:戦争で手足を失った男、という設定と題名からイヤな感じが付きまとい、男と女の支配する、されるの感覚が淫靡な形で描かれていきます。当時の現実から派生した異様な物語はものすごい迫力を湛えています。

 「陰獣」:陰獣とは猫のような小動物のこと。「孤島の鬼」と並んで乱歩の最高傑作と誉れの高い作品。どこか淫靡な雰囲気とサスペンスがあふれ、本格推理的にも一定の達成を見せた作品で、バランスのいい作品でもあります。死体発見シーンとか、汚いはずの場所なのに妙にエロチックな感じがしますね。なぜでしょう。

好きな長編
 「孤島の鬼」:なんといってもこれ。本格推理に暗号解読、そして洞窟での財宝探検。のちの横溝正史による「八つ墓村」に多大な影響を与えたと思われるプロットは、本を読む手を止めさせません。まさにサービス満点の一作といってもいいでしょう。なんといってもラストの洞窟のシーンが、狂ったようなでもどこか悲しさを感じさせる場面で印象に残ります。

 「幽霊塔」:黒岩涙香の同名小説の訳案で、涙香自身もまた海外の作品の訳案。ながらく何の作品を訳案したのか不明なままだったが、2000年に入ってようやくアリス・マリエル・ウィリアムソンの「灰色の女」であることが明らかになった。
これもまた面白い宝と女性をめぐる息つく間もない冒険譚です。幽霊譚の残る古びた時計塔とその地下に眠る財宝、というザ・冒険小説といったたたずまいが素晴らしいです。

「魔術師」:カウントダウンされていく殺人予告、という発端から始まる残虐極まる殺人劇。殺人鬼「魔術師」と名探偵明智小五郎との戦い、といういわゆる通俗物の嚆矢。とはいえ、探偵対怪人というヒーローものらしいつくりや、密室といった本格要素、異様な殺人者という目を引く要素をこれでもかと詰め込んでいくスタイルがかなり好きです。

 「三角館の恐怖」:ロジャー・スカーレット「エンジェル家の殺人」を訳案したもの。乱歩の長編で、一番本格推理らしいのはまあ、元がそうだから、としか言えないですが……。すっきりして面白いですし、元と比べてみても面白いかもしれません。

 「地獄の道化師」:まず題名が大好き。すごい題名だ。発端もオープンカーから投げ出された石膏像の中から顔のつぶされた女の死体が出てくるすさまじいもの。全編ドロドロした感じで、推理小説的な要素は乏しいものの、犯人像とそこにあるものすごい執念めいた動機と行動が印象に残ります。

 まあ、大体こんな感じですか。ほかにも優れた作品はたくさんありますし、特に中、短編はどれを読んでも損はないと思うので、乱歩初めて、という人はまずは新潮社の『江戸川乱歩傑作選』そして『江戸川乱歩名作選』から手を付けるのが手っ取り早いのではないかと。あとは東京創元社や光文社の全集などに手を出していけばいいのではないかと思いますね。

ランポ イズ メタ

『奇想天外・英文学講義』を少しづつ読んでいる。やはり、高山宏の本は面白いなあ。去年読んだ『殺す・集める・読む』は、ほんと出色の面白さで、その年読んだ本の中で、ダントツだったといっても過言ではない。それほど読むのが愉しい本でした。

そういえばあの本の、乱歩の「二銭銅貨」がメタ推理小説であるという指摘は目から鱗というか、全然気がつかなかった自分の不明を恥じるというか。とにかく、日本の推理小説が乱歩の「二銭銅貨」から始まったとするなら、日本の推理小説は、始まりからメタ小説だった、というのはなんだか興奮します。

日本の推理小説というのはやはり、外から取り入れたものであり、外から持ってきたものについての視線と不可分である、というある種の異形の文学なのだ。いや、むしろ外から持ってきたものを見つめているうちに、さも元々あったかのように取り込んでいくという点では、非常に日本的なものなのかもしれません。

始めから日本の推理小説――探偵小説は、己がいかなるモノなのかという視点から語らざるを得ない、そういうのはとても面白いなあ、と思うわけですね。

二銭銅貨」の話に戻すと、この小説は暗号小説ということですが、現在からメタ推理小説――“操り”ものであるという視点で見ると、その先進性が際立ちます。日本の始まりの推理小説は、“探偵役”を操ることで、「探偵小説」の物語を捏造する物語であった。

それはある意味、ここにはない、探偵小説なる物語を創り上げるようとする乱歩の姿と重なってくるような気がするのでした。

BEATLESS』『ダーリン・イン・ザ・フランキス』ともに二話を視聴。では、それぞれ感想を。

BEATLESS』は、アナログハックの説明編。モデルシーンで説明するのだが、そのモデルシーンではほへー、とさせつつ、その後のアラトとレイシアの会話で、アラトがアナログハックに引っかかってるなー、という風に視聴者が能動的に突っこみを入れさせることで、実感できるようにきちんとつくられてました。設定を示すところで説明して終わりではなく、説明された側が能動的にそれを指摘できる場面を作る――そういう意味では、制作側の視聴者の“誘導”というものが、作品とその外側、というメタレベルでの二重化が今後もアニメーションの表現の中で出てくるのか、興味深いところです。

あー、でも、もう少し作画に力が欲しい……画面のスペシャル感は今後の戦闘シーンとかに期待していいのだろうか……いやまあ、でも、学校の屋上シーンとか結構好きですけど。

ダリフラは……なんでしょうね……。性をキーワードというか、テーマに扱っていきたいらしいことは分かりすぎるくらいわかりましたが、その微妙で難しい部分を扱えるのかなあ、と正直一話の無造作なところを見るに不安が払しょくできない、むしろ大きくなりそうでした。

まあ、制作者が真顔で提出し、それを視聴者も真顔で観る、ということが、なんだかひどくシュールで居心地の悪い関係性を形成しそうで、なんとも言い難いです。作中の設定を借りるなら、ロボに接続した女の子を男の子が操るように、このアニメに接続する視聴者を制作側は巧く操れるのでしょうか……。個人的には繋がるのを遠慮したいなーと、思い始めていますが。

しかし、この物語はどうなるんでしょう。年上っぽいお姉さんに手ほどきされた初心な少年が、幼馴染をはじめとした色んな属性の女の子(もしくは男の子も?)と浮名を立てるというか、フラグを立てて回るのでしょうか。だから、矢吹健太朗がコミカライズしてるのかなあ、とぼんやり思ったり。

もしくは、ヒロ君の“才能”というのは、男の子が適任とされている操ることではなくて、女の子の適性とされているロボと繋がることだったり? 公式サイトのキャラクターのところを見ると、搭乗者の男女二人組、ヒロとゼロツーだけ配置が他と逆さになっているのは、関係あるんでしょうかね。他の機体は接続する女の子っぽい顔してるけど、ストレリチアだけはなんかゼロツーとは似てない気もするし……。今後、男の子同士で動かすとかもあるのかもしれん。もしくは、ヒロ君が“仰向けになって”接続しつつ、女の子たちが操縦するとか……? 案外、ストレリチアの中ではそうなってるのかもしれませんが……。でもなんか、いずれにせよどうしようもないだけのような気もする。

性をあらかじめ外部からそうあるように決定され、性的に無自覚な少年少女たちが、自らの性に疑いを持つ、みたいな話になるなら、今後続けて観るモチベーションにはなるかもしれませんが、定型の男女の未分化な恋のドロドロを“エンタメ”として物語の中心にするなら、あまりこの作品を支持できそうにはありません。

今期のアニメは今のところ『BEATLESS』と『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(長いな……)をとりあえず一話を観た。『BEATLESS』は原作をいかにまとめるか、というその手際を見るような一話だったが、今後、アニメーションによる原作表現がどのようなものとなるのか、期待したいところである。しかし、アラト君のキャラはなんだか幼い感じがするなあ。原作だと、hIEを道具扱いするその世界の認識からだとヘンな人、という感じだったが、アニメは区別をつけない単にコドモっぽい少年のように見えちゃうんだけど……。声とかもなんか妙に甘ったれた感じがして正直あんまり好きじゃない。

アニメーションの面白さでいったら『ダーリン・イン・ザ・フランキス』がすごかった。作画や動き、構図や演出のタイミング、それはこれまで気持ちいいいと感じてきたツボを押しまくってくれて、非常に気持ち良い。反面、要するに“気持ちいい”と経験した要素で組みあがっているということもできるわけで、どこか作中で示されているような鳥籠の中っぽい印象を作品そのものに抱いたのも否定できない。

とはいえ、鳥籠、というのはそういうのも含めてのスタッフが意識的にやっている可能性が高いとも思われるので、それを主人公たちの境遇含めて打破する、という方向性になるかどうか、そういう関心で観ていこうかな、という気はしている。

ただ、古臭いお色気要素はやはりどうもね……特に一部で批判されたりしている、博士の特に意味ないお尻を触るセクハラシーンはちょっと意図を掴みかねる。あんまりにも典型的で何も考えていないように思えるそれは、少女の体のラインぴっちりスーツ(いい加減、ロボものにおけるこのぴっちりスーツ、ダサいと思うのだが)姿を後ろからお尻をとらえるアングルなどを含め、え、今それをやるのか……という戸惑いを隠せない。

そういうところを含め、何だか不安な要素はありますが、とりあえずは付き合おうかなという感じですね。

恐怖に克て:映画『IT』

年を越してようやく観に行きましたよ。というか、ようやく観に行けたというべきか。

本作はスティーブン・キングによる傑作小説の二度目の映像化――その一番初めの映像化であるテレビミニシリーズ版を観たのは小学生の時でした。

父親と何の気はなしにぼんやりとテレビを観ていると始まったのがそれでした。そしてのあの冒頭の排水口から現れるピエロ――薄気味悪さの果ての、その豹変。

めちゃくちゃ怖かった。その後もビルが見るアルバムから血が噴き出すシーンなどの恐怖映像の連続に、父が私を慮ったのか、はたまた自分も怖かったのか、黙ってチャンネルを変え、それっきりITは私の恐怖映画の筆頭となり、いまだに観返すことができない恐怖の記憶として、あのピエロは頭の裏側に張り付いているのでした。特にあのペニーワイズは“顔面力”と言われる顔のインパクトがすさまじく、その顔だけでめちゃくちゃ怖いのです。

だから、ITの二度目の映像化にして初の映画化であるこの作品を観に行くのは二の足を踏んでいたわけですが、ええい、ままよと思い切って観に行ったわけなのでした。

 

あらすじ

メイン州に位置する、どこにでもあるような田舎町デリー。

その日は雨が降っていた。

雨が降りしきるなか、黄色い雨合羽の少年が手作りの舟を追いかけてゆく。

歩道の端を流れる雨水に浮かぶ小さな紙製の舟は、流れの中を勢い良く滑っていく。それを少年――ジョージーは追いかけていた。

兄――ビルがワックスを塗り、作ってくれた舟は出来が良すぎるくらいだった。それはどこまでも滑ってゆき、ジョージーを引き離し、追いつく間もなく、ついには排水口のなかへと吸いこまれて行ってしまった。あっという間だった。

叫び声を上げつつ、滑り込むようにして排水溝に取りつくジョージー。覗き込んだ先には闇。

闇の中から、それは現れた。

妖しい二つの光が、爛々とした二つの目となり、ジョージーを覗き返していた。そして目の前に現れたのは禍々しいピエロ。手には排水溝に呑み込まれたジョージーの舟を持っている。ピエロは自らを「ペニー・ワイズ」と名乗った。

一緒に遊ばないか、ジョージー? ピエロは誘うように舟を差し出す。

一緒に浮かぼう――大切な舟なんだろう?

兄に作ってもらった舟――無くしたら大変だ――手をのばすジョージー

ピエロはむんずとその腕を掴む。がばり、と開いた口はおぞましいほど鋭い歯が並び、ジョージーの腕を噛み千切る。突然のことに絶叫し、腕から血を流しながら這いずって逃げようとするジョージー。背後の排水口からはするすると禍々しい手が伸びてゆく。そして、這いずる少年を掴むと、そのまま排水口のなかへと引きずり込んだ。その暗い暗い、闇の中へ。

町はその年、子どもたちがずいぶんたくさん消えていた。町中に行方不明の子どものポスターが貼られ、その上にまた新しい子どものそれが、人々の記憶を上書きしていく。ジョージーもすでにその上書きされた失踪者たちの層に埋もれつつある。ビルはジョージーの死を受け入れられず、その姿を探すことをあきらめきれないでいた。ジョージーの失踪は、ビルに吃音という形で、いまだ刻まれたままでいる。

そして、夏休みがやってきた。 ビルはリッチィ、スタンリー、エディ、冴えないはみ出し者たちの集まり、ルーザークラブのメンバーでいつものように夏をすごしていたが、そこへ、いつも彼らを標的にする不良たちに絡まれ、追いかけられてきた転校生の少年、ベン、傷ついたベンを介抱するため立ち寄った薬局で出会った、とある“噂”から皆に避けられている少女ベヴァリー、同じようにして不良たちの標的となっていた黒人の少年マイクをメンバーに加えることになる。

やがて彼らは、それぞれが怪物に襲われながらもその手から逃れてきた恐怖体験を持つことに気がつく。転校生ベンは、失踪事件を独自に調べ、町の歴史を調べるうち、「ペニー・ワイズ」という子どもを襲う怪物の存在を突き止め、しだいにルーザーズクラブの面々は、27年ごとに町に現れ、子どもを喰らうIT(鬼)、との対決へと赴くことになる……。

カンソウ

この映画は、恐怖映画でありつつ、非常に良質な青春映画でもあります。恐怖の合間に挟まれる、少年少女の瑞々しい姿、その“青春”の切り取り方がほんと素晴らしい。原作の過去と現在を行ったり来たりする構成ではなく、少年時代のみを描くことでそれが際立った感があります。ラストシーンのビルとベヴァリー(特にビル役のジェイデン・ビーバハ―が)美しすぎる! ああいった人物を美しく撮る力量が、青春映画には不可欠である、と確信した次第です。

とはいえ、この映画、もちろん怖いところは怖いです。特に、最初のジョージーの腕をペニー・ワイズが噛み切るところとか。たぶんそこが一番怖い。排水口を覗いたらそこに誰かが――ピエロがいるってビジュアルイメージはやはり鮮烈です。

ペニーワイズについては、ティム・カリーが演じた90年版の方がインパクトはあるし、やはり怖い。そこはしょうがない。あの顔面のインパクトはそう狙って出せるもんじゃないだろう。それに、あのティム・カリー・ワイズの怖さは、もしかしたらその辺のピエロの格好をした殺人鬼のおじさんなのかもしれない、という部分にあるような気がする。そのもしかしたら人なのかもしれない、というあやふやさが恐怖を醸成しているように思われるのだ。むしろ、恐怖の根源というのはその“あやふやさ”なのではないか。

今回のビル・スカルスガルド演じるペニー・ワイズは造形が洗練されている分、純粋な異形のバケモノ感が加速していく。具体的な化け物となる。そして言ってみれば怖くなくなっていく。だが、それはこの映画の瑕疵ではない。むしろ構造と関わってくるのだ。

ビルはジョージ―、ベヴァリーは父親、マイクは両親の死を、というように少年たちはそれぞれが恐怖を抱えている。ペニー・ワイズはその恐怖の似姿として、彼らの前に現れる。そんなペニー・ワイズに勝つには、その己の中に巣くう恐怖と戦わなくてはならない。そう、この物語は恐怖を克服する物語だ。それぞれが仲間の力を借り、自らの恐怖と向き合い、それを克服する。だから、この映画は恐怖映画でありながら、観終わった後に、映画館の暗がりや帰り道の背後を気にしたりするような恐怖が後を引いたりはあまりしない。観終わった後はどこか爽やかですらある。恐怖が具体的な姿になれば、それを乗り越えることができる。前述したようにこの映画は、恐怖映画でありながら、怖くなくなっていく映画なのだ。

そういう意味で、彼らが大人になった第二章があるとはいえ、ここで終わっても正直構わない。それくらい、物語としてはきちんとしたまとまりをもって終わってましたね。個人的には続きはいらねーんじゃねーかとすら思った次第。

恐怖とは、分からないことに起因している。いや、薄々わかっていながらも目をそらしていることから恐怖は生じるのだ。しかし、一人で恐怖の源を見つめることはできない。――けれど、誰かがその手を握ってくれるなら、その恐怖を見つめることができるかもしれない。少年たちはそうやって恐怖を克服していく。そいういうわけで、ホラーと青春がガッチリと結びついた傑作になっていると感じましたね。

では最後に、個人的に好きなシーンを挙げるとすると、みんなで輪になっての誓いから、ベヴァリー、そしてビルのアップ(ここの風で前髪分けたリーバハ―がすごくいい! あの青春を閉じ込めた一瞬!:強調)、というラストまでのショットを除くと、ペニー・ワイズをボコボコにするところも好きだが、みんなでベヴァリーの家の浴室を掃除するシーンが好きですね。大人には見えない血まみれの浴室を、みんなでせっせときれいにしていく。恐怖を文字通りみんなできれいに拭い去ってゆく。血まみれなのに、どこか朗らかな感じがしてしまう、作中屈指の青春シーンだと思うのですがいかがでしょうか。

――というわけで、この映画を観ることができたわけですが、私は、私自身の幼い日の恐怖である90年版と向き合うことが、果たしてできるのだろうか?

 

いやー、しかし、観たのは元旦(今年の初映画!)だったのですが、ずいぶん放置してようやく今年初めの記事が上げられましたね。なんだか先が思いやられますが、がんばってこー。