蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

メアリにとって魔法とはなんだったんだろう

 映画感想『メアリと魔女の花

 ちょっと前に観てきたわけですが、なんと言えばいいのか……最初から最後まで何とも乗り切れないまま、映画館をでたのでした。

 米林監督作品は、これまで『借りぐらしのアリエッティ』、そして『思い出のマーニー』を観てきたわけですが、個人的に「アリエッティ」はジブリ作品の中で、何も感じなかった……というとアレですが、一番印象が薄く、正直ゲドよりも反応に困りましたが、「マーニー」はかなり好きだったんですよ。ジブリでありながら、これまで宮崎駿が手をつけてこなかった、幻想性、ゴシック性を盛り込んだミステリー性の高い作品で、何より静的な時間の描き方、人物の感情表現に、宮崎駿という重力を振り切った感を感じて、その期待込みでのメアリだったんですけど……。

 なんていうか、まず登場人物に魅力ないよね、メアリ。(ピーターや悪役の校長や博士のペラペラ感はまあこの際置く)メアリからして、確かに彼女は可愛く描いてはいるんですが、アニメーターがかなりの労力を注いでいるのは分かりながら、でもそれをいまいち共有できないもどかしさ。

 彼女は田舎にきて退屈しているわけなんですが、あんまり退屈しているように見えないんですよ。弁当を用意してもらって、周囲を散策してる場面では、平凡でつまんないとか、友達に思いをはせて寂しい、というわけでもなく、割と楽しそうです。やることなすこと失敗ばっかりという描写もあるんですが、そこに特にへこんでいるというわけでもないんですよ。

 だいたいにおいて、退屈である、というまえ振りがあるとしたら魔法というものは、作劇上素晴らしいモノ、楽しいモノとしてそれを解消するものとして描かれるわけじゃないですか。彼女の失敗を取り戻したり、もしくは、願いをかなえたりとか。前段階の灰色の日常があって、そこに魔法が彩を与える、という風にならないんですよ。その前段階の仕込みがあやふやなので。

 そうやって、魔法のすばらしさ、楽しさを描くことが、最終的にそれを捨てる、ということへの葛藤がドラマを駆動していくんじゃないの、と思うのですが。結局のところこの映画で魔法というものはあまりウェイトを占めないというか、あんまり魅力のあるものとして描かれないんですね。だから、一日だけの魔女とか言われても、ふーん、という感じがしちゃうんですよ。

 彼女にとっての魔法って何なんだろう、それが分からないまま、映画の時間が過ぎていく。彼女にとってそれは魅入られるものでもないし、かといって特に呪わしいものでもない。魔法に対して葛藤や思い入れが描かれないので、それを捨てたところで観客も盛り上がりようがないというか……。変なもの拾っちゃったけど、特にいらないから捨てちゃった、みたいな感覚なんですよ。

 ようするに基本的に魔法を捨てる、彼女は魔法がなくても大丈夫だよ、という結論ありきでそのまま逆算したような映画に見えてしまうんですね。作る側は答えはこうだ、という風にすでに悟っているというか、そこに向かって、チャート的にすべてを動かしているような気がしました。

 メアリについても、そんな感じで最初から最後の行動まですでにわかってやっているというか、そこに感情の変遷や変化っていうのがあんまり感じないんですよ。髪型が象徴しているわけですが、女の子は作劇の演出で、髪型の変化をキャラクターの変化として表現しやすいので、ジブリも結構やってきたわけで、メアリも、髪を二つに括った形から冒険を経てポニーテールになるんですが、最後の最後で元に戻る。それはこれまでのアンチテーゼであったり、日常に戻る、という演出なのかもしれませんが、絵的に元に戻ることが余計変化の無さを強調しているように見えてしまいました。

 ただ、いいところもあって、米林監督は、過去と未来といった時間軸を重ね合わせて、時空を超えて人物たちを邂逅させる、という演出は巧いです。そこは、そこに至る物語的な厚みはなくても、なんかグッとくる場面になっていたと思います。

 うーん、まあでも、映画全体を見るとなんかちょっと厳しい……映画全体を貫く芯に欠けたような映画だったかなあ……。

けものフレンズ、その構成について

 ブログを開設したのにもかかわらず、早くもさぼっているという体たらく……。 

 

 最近、けものフレンズばっかり観てます。一見ゆるくて刺激の薄そうな中に様々な楽しむためのフックが用意されていて、ある意味作品自体がパークというか、どんな遊び方も許容するゲーム的な楽しさがあって、そこが多くの人を引き付ける要因になっているのかもしれません。

 個人的には、ロードムービー的な冒険物として楽しんでいるわけですが、物語の、そして何よりもシリーズ構成の見事さに注目しつつ観ています。

 けものフレンズのまず一話ごとの構成は、サーバルとかばんが出会うゲスト、基本的に二人のキャラクターを軸に進んでいきます。二人のキャラクターは違う性質を持ち、そこにかばんが人類の知恵をもたらすことでキャラクターどうしの性質が融合し、物事を解決していく――これがこの作品の基礎パターンといっていいでしょう。

 この基礎パターンの高度な達成が第三話で、そこに登場するトキとアルパカはそれぞれ歌とカフェという性質が振られてているのですが、同時に願い――仲間を見つける、カフェにお客が来てほしい――があり、そこにかばんが加わることで、問題を解決すると同時にそれぞれの願いが融合する形で解決します。3話が高度なのは、それぞれの願いは違うのに、一つの解決方法によって、トキとアルパカの願いが結びつきながら達せされる、という点です。

 次に、けものフレンズは話の偶数話と奇数話によってテイストが違います。大雑把に言うと偶数話はキャラクターが多く登場し、奇数話は軸になるキャラクター二人に絞られる形をとっています。たくさん動物が出てくる場合と絞られた場合――このテイストの違いは、動物園をぶらぶら歩いてたくさんの動物たちを見て回るのと、立ちどまって檻の中をじっと見る感覚に繋がっています。

 また、奇数話はお話がきっちりまとまり収斂しますが、偶数話は拡散型というか、分かり易く言うと、次への引きがあるのが偶数話となっています。2話は三話へと繋がる形で終わりますし、4話はツチノコの、6話はハシビロコウの言葉が強い引きとなっています。そして最新話である8話ではかばんの次の目的地が設定されます。

 それから各話の置き方にも注目してみると、このけものフレンズという作品自体が、視聴者がジャパリパークというテーマパークを体験する構成をとっているように思われます。フレンズやガイドと一緒に動物を見て回り、中のアトラクションで遊んで(1~6)お昼になったらご飯を食べる(7話)。午後になったらペンギンショーを見て(8話)お風呂に入る(9話:放送予定)。そしてロッジにお泊り(10話:放送予定)という形になっているのです。このようにしてかつてのジャパリパークの一日を追体験していく構成をとっているのなら、最後はやはり、パークを出るということになるのかもしれません。

 とにかく、この作品はこのようにミクロ的にもマクロ的にも構成的な面白さがあり、そこに注意してみていくのもまた面白いのでは、と思いますね。けものフレンズ、というジャパリパークの閉園時間もあとわずか。かばんちゃんがサーバルちゃんがどうなっていくのか、非常に楽しみにして観ていきましょう。

はてなをはじめてみる。

とりあえず、本や映画などの雑多な感想を書いていこうかな、と思います。主にミステリーについて、になると思いますが。どこまで続くか分からないけど、はじめの一歩ということで。まあ、続かなくなりそうだったらFC2で書いてたやつとかを転載するとかでも……イイよね……。