蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 『エラリー・クイーンの冒険』を読む。これ、なにげにすごいというか、初刊行時の序文に、これまで省かれていた「いかれたお茶会の冒険」(キ印ぞろいのお茶の会の冒険)を加え、まさに60年ぶりの新訳決定版ともいえる完全版は、もはや本国でもそう気軽には手に入るまい。クイーンの帝国たる本邦でしか手に入らないかもしれないピカピカの“新刊”をこう気軽に手に取れるのは、クイーンファンにとって素晴らしき幸運と言えよう。

 新訳だけあって読みやすい。そしてこの短編集がいかにバラエティに富み、比較的短い枚数で内容の濃いミステリを展開しているのかが改めて分かる。個人的には「ひげのある女の冒険」から「三人の足の悪い男の冒険」「みえない恋人の冒険」あたりの評価が上がったというか、内容がよく見えるようになった。

 個人的ツボは「ひげのある女の冒険」のダイイングメッセージのインスピレーションにきちんと伏線があるというか、そういうメッセージを残す前振りがきちんとあることがなかなかいい。「ガラスの丸天井付きの時計の冒険」にもそういうメッセージを残そうとする前段階のものがあってそれが同時に犯人指摘の手がかりになる、という点の抜かりなさとかやはりすごい。「丸天井は」正直そんなに好きではないのだが、しかしそのへんの仕込みは見事だ。

 なんといってもやはり手掛かりの豊富さというか、ロジックの展開の面白さが詰まっていて、そのためのシチュエーションづくりなど、簡潔で巧い。短編集の一つの理想的メルクマールだろう。やっぱクイーンはすごいと改めて惚れ直しましたね。「新・冒険」にも期待です。

 あと、やはり、ドイルやポーの影響というか、リスペクトがそこここに散りばめられ、そしてそれを彼らなりに変奏し、乗り越えようとする並々ならぬ意欲が伺えて、そこもまた、大きな注目ポイントでしょう。

これで終わりなのか、カーペンター? :『ザ・ウォード監禁病棟』

 ジョン・カーペンターの(今のところの)最新作。

 記憶を失い、農家に火をつけたところで逮捕された少女、クリステンが送られたのは精神病院の監禁病棟。そこには彼女と同じくらいの少女たちが入れられていて、退院するのを待っている。そんな病棟の日々の中、クリステンの身の周りに何か得体の知れない影がちらつき始める。やがてそれは少女たちを襲い始め、クリステンはこの奇妙な監禁病棟から抜け出そうと試みるのだが……。

 まあ、そんな感じのストーリーです。一応、どんでん返しが組み込まれてるのですが、正直、観てたら速攻で分かるオチだと思います。2010年に二十年くらい前のネタを持ってくるあたり、さすがカーペンター(?)ということなのかなんなのか。

 とはいえ、今さらなオチは別にいいんです。狭い空間に押し込められ、自分たちを監禁する生身の人間と襲い来る異形の存在という風に二重の形で追い詰められていくというシチュエーションのおかげで始終緊張感がある。脅かし方、来るぞ、と身構えさせてすかし、ほっとさせて別方向からガツンと来る、そんな古典的な緩急はさすがの巨匠、といったところでしょうか。その辺かなり生真面目なので、慣れたらタイミングが分かるくらいなのですが。

 しかし今回、こんなにも登場人物を10代くらいの女の子で撮るのはカーペンターとしては初めてなんじゃないでしょうか。そこはちょっと新鮮です。そして、その関係なのか画面にどことなく美しく撮ろうとしているような気がしなくもないです。ぶっきらぼうさやいつものシンセの音楽はかなり控え目。特に音楽はなんかすごく堪えてるようなものがあって、いつものベンベン節を期待するとあれ? という感じ。

 その美しい画面はカーペンターファンを公言する監督デヴィット・ロバート・ミッチェルの『イット・フォローズ』(こっちもティーンの女の子が主人公)が音楽含めてカーペンターがそういうの撮ったら、という達成をかなり高いレベルで成し遂げたため、今さらこっちを見てしまった自分としては何とも言えない気持ち……。

 出来は悪くないけどすごくフツーな感じ。これで終わっていいのか、カーペンター? みたいな思いがしてしまうのでした。

  僕は何らかの感想の文章を書くときに、なるべく「エモい」とか「尊い」「萌え」といった言葉を使わない様に意識してきたし、多分これからもそう意識していくと思う。別に使うことに目くじら立ててるわけじゃない。コミュニケーションの一環として、そういった言葉を投げつけ合うことはアリではあるだろう。ただ、そういった漠然とした短い言葉をコミュニティで共有して終わり、みたいなことで終わるのが、ちょっともったいないと思っているし、せっかく文章を書くんだったら、何故そうなのか、ということを出来るだけ自分の中から言葉を選んで粘土をこねるようにして形にしていきたいのだ。

 また、もっと言うなら、読む分にもそういう文章を読みたいという気持ちがある。せっかく知らない誰かの文章を読むのだ、なんとなく感情を共有して終わり、というよりもあなた自身の言葉をもっと読みたい。なぜそういった感情がわいたのか、そこから何を思ったのか、あなたのそこに至るプロセスをもっと読ませてほしい。まあ、それは、僕にとってその方が面白い、というだけなので完全に一方的な願望ではあるのだが。

 もちろん強要することはできない。ただ、僕はもっとあなた自身を形作る言葉でつづられた文章を読みたいし、お互い、その方が面白いんじゃないか。

 そう僕は思うんだ。

 『ザ・ウォード 監禁病棟』を借りるつもりが『ザ・ウォード 感染病棟』を借りるというチョンボをかまし、また再びTSUTAYAを覗いてきたが、二本とも貸し出し中、あう。しかし、どこも『ヴァンパイア 最後の聖戦』がないんだよなあ。カーペンターコンプリートまであと少しなんだけど。これは買うしかないのかあ。

八木ナガハル『無限大の日々』

無限大の日々

 

 これはいいSF漫画。

 平行進化、群知能、ダイソン球、軌道エレベーター、確率、といったSFゴコロをくすぐるテーマで語られるSF短編集。どれもが魅力的なアイデアに満ちていて、それを語りつくす、というよりはさらりと皿にのせて読者に供して、それぞれの咀嚼に託すタイプの作品です。

 著者は半年ほどアニメーターの経験があるらしいのだが、少女をモチーフにしたキャラクターで占められるものの、絵柄は線の細くて均一な今風のカワイイ感じではなく、結構過去を感じる太く、粗目の線でまるっこく描かれる。松本零士宮崎駿諸星大二郎らに近い、といえば分かりやすいだろうか。個人的にはハードSFな諸星大二郎という印象を受けた。もちろん、印象でしかなく、八木ナガハルという初めて知った作家のさりげなく、しかし壮大で奥深い作品世界に大いに魅了されたのでした。

 この作品集の全体的なテーマというか通底するテーマは個と群、意識と無意識という感じでしょうか。小さなところから、やがてグーッとカメラが引いてゆくようにスケールが大きくなる感覚は、まさにSFというジャンルの醍醐味を十二分に味合わせてくれるでしょう。なにげに著者は宇宙の描き方が巧いというか、巨大なオブジェや空間を表現するのに長けてるように思います。特異な冒頭に釣り込まれて、だんだんと大きな場所に連れてゆかれる感覚、地上にいたはずなのに気がついたら宇宙から眺めている、そんな得難い体験を与えてくれる作品群です。

以下ではそれぞれを少し詳しく採り上げていきますね。

※ここからはネタバレ前提なので、興味のある人はすぐにでも買って読んじゃいましょう。

 

 

 

「SCF特異昆虫群」

 三つの星の頭文字をとった、同時進化した昆虫群。宇宙を隔て、同時に出現するそれらを天然の超高速の通信機と捉えるアイディアが秀逸。そしてそのネットワークに人間のデータを組み込み別の星で実体化させ、文明を再建しつつ帰還する1000年におよぶ壮大な計画。いきなりのスケール。そしてその端で大学生の、というかその時代の人間の知的に退化したような姿が描かれ、“彼女”がはるか遠くを臨む気分をそれとなく描き出しているのも素晴らしい。

「蟻の惑星」

 とある星で進化した蟻の生態が語られる。火を使う松明蟻、文字どおり農耕をするノウコウ蟻、レーザー蟻からミサイル蟻、そして原子力を扱う蟻たちというアイディアが次々と語られ、そして構造物を建築し、植物――農耕のために環境を制御するに至る。著者の昆虫愛が詰まった一編といえるのかもしれない。

「ツォルコフスキー・ハイウェイ」

 地球をらせん状に取り囲む巨大な道路、ツォルコフスキー・ハイウェイ。自動車に乗ったまま宇宙に行けるという触れ込みの軌道エレベーターの一種が300年をかけて完成した。ドキュメンタリー作家である鎹(かすがい)涼子は依頼を受け、完成したばかりのハイウェイのドキュメンタリーを撮りに来たのだが……。

 300年のうちに担当者が代替わりして誰も何の目的でハイウェイが造られたのか分からなくなっている。それはいったい何の目的で造られたのか? 知らないうちに文明そのものが異星人のツールと化していた、いや、異星人のツールのために文明があったというのはヴォネガットの『タイタンの妖女』を思わせる。

「ユニティ」

 この話が一番お気に入り。とある入院患者の少女が語る話、そして彼女を取り巻く状況。人間は本質的に空想することができない、ただあるものを右から左に引き写すだけである、という言葉と共にそれらが重なり合う瞬間がぞくっと来る。人間には不可能という認識であってもコンピューターはそれを飛び越えて独自の認識ができる、という末尾の話も面白い。

「幸運発生器」

 ドキュメンタリー作家鎹涼子が再登場する。機械が人類の上に立ち、人類は機械の奴隷として存在しているとある惑星では、偶然性物理学の成果と称する確率を操作する機械、幸運発生機によって、すべてが“幸運にも”成立している。そしてそれは物や現象にだけでなくそこに住む住人の在り方にも影響を及ぼす。すべてが幸運にも成立する場合、そこに自由意志とは存在するのだろうか? 確率が人間の意志を左右するのでは、という仮定が興味深い一編。

「病院惑星」

 製造から遥かな時間が経ち、メーカーがとっくに倒産して構造がブラックボックス化したロボットを患者とする病院。彼らを解析し、治療する過程でのデータを収益とする病院では、患者本人はサンプルとして収納され、治療された完全なる複製が退院していく。そんな倒錯が機械だけではないことが、自分を人間と思い込んでいる機械の導入で反転するというか、人間もまたそれらと変わらないことが明らかにされる。ちょっとしたホラーな一編だ。

「鞭打たれる星」

 これもまた鎹涼子が登場する一編。彼女が訪れた星では、住民たちが軌道エレベーターを引き倒そうとしていた。住民は生まれた時からオンライン化され、ある種のスクリプトを共有することにより、数億人が一斉に行動することができるというのだ。その彼らがいま軌道エレベーターを引き下ろそうと躍起になっている。完全剛体で出来た軌道エレベーターを引き渡した無限工作社の目的とは。「幸運発生機」と並び、人間を支配して一つの行動をとるようにする無限工作社なる存在が明らかになる一編。鎹シリーズの世界の広がりを構築する一編といえるかもしれない。

「巨大娘の眠り」

 砂漠をゆく兵士たちは、眠り続ける巨大な娘を見つける。しかし、一方で自分たちが何故砂漠を歩いているのか、なぜそこにいるのか分からなくなってゆく。そして彼らは眠り続ける娘たちを前にある疑いを抱く。八木ナガハル胡蝶の夢といった作品か。諸星大二郎的なテイストが濃いように感じた一編。目覚めゆく瞬間のカットと共に“夢”の表現が印象的な一編である。

読書を追いかけて:『バーナード嬢曰く』

 

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。 (4) (REXコミックス)

 

 というわけで、早くもというか、ようやくというか、この読書にまつわる滑稽で愛すべき漫画も四巻目。相変わらず読書好きたちの本に対するあれこれかつ、魅力的な本の紹介を行い、また回を重ねるごとに青春物的な郷愁をたたえているというか、人物たちを通して、本を読んでいたあの時の空気、みたいなものを追体験する要素が増してきているように思う。

 ド嬢の魅力というのは、まず扱っている本の幅広さ、その懐の広さだ。最初は古典の名言を引っ張ってきてあれこれギャグを展開する話だったが、次第にSFやミステリ、かつてのベストセラーといった本を取り扱い、読書好きがついやってしまうことや失敗、恥ずかしい自意識を含めて魅力的に紹介してくれる。今回もまた、多彩な本の数々が紹介されている。その紹介の匙加減が絶妙で、的確でくどくなく、しかしどこか引っかかりを与えてくれる。つい手にとって内容を確かめたくなるのが常だ。そしてなにより日常的なエピソードにさらりと本を絡めてくる、そのさりげなさがほんとに上手い。日常の中にある本の風景、それをさりげなく描き出すのが施川ユウキの巧さだろう。

 そういえば、ド嬢の人物設定も絶妙だ。読書家でも、読書家になりたい、という人物でもなく、“読書家ぶりたい”という人物、町田さわ子を中心にして、ガチな読書家である神林栞、遠藤君、長谷川さんといったそれぞれSF、一昔前のベストセラー、ミステリに軸足を置く彼らを配する。さわ子は読書家になりたいというよりは、“読書家”という概念にあこがれを抱いている。どうやったら読書家っぽくみられるのか、カタチから入ろうと悪戦苦闘し、それを見とがめる神林をはじめとした三人が突っ込みを入れつつ、本を紹介するわけだ。

 どうしたら読書家っぽくみられるのか、というさわ子の視点は滑稽だが、読書をする人間ならそれっぽさを外部にアピールしたい欲求、というものに覚えがないわけではないだろう。そんな恥ずかしい自意識をなんの衒いもなく行うさわ子を通して、読書家とは何か、読書するとはどういうことか――というまあ、そんな大げさなそぶりではないにせよ、さわ子を通して、本を読む風景に思いを寄せる、という観点もド嬢の大きな特色のように思われる。

 そうなのだ、ド嬢は本を読む風景を描き出す。かつての、そして今の、読書がそこにある私たちの風景。彼らみたいな体験はしなかったかもしれないけれど、本を通してそんな郷愁みたいな感覚が呼び出される。新幹線の途上で、雪降るバス停で、図書室の机の下で、冬の海の浜辺で――そこに描き出される本を、“読書”を携えた風景は何故か懐かしく、そしてほんのちょっぴり孤独だ。

 読書は孤独な営為だ。みんなで読書することはできないし、読書する“私”はいつも一人だ。それでも本を読む、という喜びを分かち合うことはできるし、誰かの好きな本が、それについての言葉が、私と誰かと本を繋げる。ド嬢は、そんな読書の孤独を行き交う交点を描く。理解されない孤独ではなく。

 読書家ぶりたがるさわ子だが、実のところド嬢には、それを見せつける外部は特に描かれない。趣味を描く漫画には顕著だが、趣味とは無関係な一般人に見られる“私”という視点に基づく姿――シーンは描かれない。私の趣味は理解されない、もしくは特殊であるという“理解されない孤独”なる自意識とそれに基づく仲間意識、そういうもので囲い込もうとはしない。読者をそういう輪に引き入れて、“仲間”でワイワイする、確かにそれは楽しいのかもしれない。でも、私が好きな物はもっと自由なはずなのだ。なんの後ろめたさもなく、自由に楽しみ、語らう。ド嬢のその、なんの衒いのなさや、読書人の困った自意識を笑いに変えつつも、その実、読書なるものへの貪欲な姿勢こそ、私がこの漫画を読み続ける大きな理由だろう。

 四巻の帯には「誰だって、始まりはにわかだったんだ」というコピーが載せられている。誰もが始めは、いやいつだってへっぽこな町田さわ子で、自由に、夢中に読書なるものを追いかけていける。漫画、バーナード嬢曰くには、そんなかつての、そして今の自分自身の読書へのあこがれが詰まっている。

 映画館行っちゃえば、目にしたくなくても目にしちゃったりするわけで、例の特報ってやつを見ちゃったりしたわけなんですよ。

 ……だれかカントクにたつき監督のインタビュー見せた方がいいんじゃないの? カメラぐるぐるぶん回すのいいかげんダサいですよって。十年以上前のセンスでビックリするぜ、とか。

 しかし、次回もあののっぺりした赤青背景で延々とCGエヴァのまわりをグルグルカメラ回すのかなあ……。