みんな学校嫌いとか言う割には見事に“学校”的な世界観で生きてると思うんだよ。

 少なくとも日本人にとって世界は巨大な精神病院じゃなく学校で、鉄格子の内外なんかじゃなくて校門の内外でしかないんじゃないの……という、まあ、そんな感じ。

 久しぶりに中井英夫のきょむくもをペラペラ読んで、著者になんか言いたくなった……そんだけ。

幻想にしてSF プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』

 

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 プリーモ・レーヴィの『天使の蝶』はどこか独特の雰囲気をたたえた小説です。

 著者は化学者だったらしいのだが、作品には生物、生物学的なモチーフが頻出し、解説にある通り、生物学的幻想譚ともいえる印象深い短編が納められているます。

 一方でそれと同じくらい異彩を放つのが、営業マンシンプソン氏シリーズともいえる一連の連作(?)短編群。「詩歌作成機」で初登場するシンプソン氏は、「低コストの秩序」「《ミメーシン》の使用例」「美の尺度」「完全雇用」そして「退職扱い」で文字通り(色んな意味で)退職するまで「私」の前に現れてはNATCA社製のなんか怪しげな商品を勧めてくる。作品集内でのそれぞれの編集が巧くて、幻想系の短編の後にシンプソン氏のごとくふらっと現れて、またお前か、という絶妙の緩急がつけられているのも愉しい。

<生物と科学による幻想の生成>

  レーヴィの短編は、特徴の一つとしてSF的なガジェットを扱いつつもどこか幻想性が漂い、そこがこの著者の小説が持つ不思議な魅力となっています。その幻想性の源というのがおそらく生物的なモチーフであるのではないか。生物という生々しい自然とそこに無機質的な科学法則、理論が持ち込まれ、それが対立するのではなく、混じり合うことで著者独特の幻想性が紡がれます。

 表題作の「天使の蝶」が恐らくその最も高い達成でしょう。狂気の学者による奇妙な科学理論と発見された鳥類のような奇妙な骨から人間、天使、蝶、そしてイモムシというモチーフがおぞましくも昏い幻想性をたたえる逸品となっています。それからこの短編は作品の中で唯一、著者のプロフィールにある、アウシュヴィッツ強制収容所に収容された経験を色濃く映すものとなってもいるのです。(舞台も大戦後のベルリンとあります)

 もちろん、幻想的なだけじゃなく、時には「人間の友」や「創世記 第六日」のように諧謔み溢れた逸品もあり、レーヴィの統一を保ちつつも作品の幅の広さに感心させられます。

 というか、なかなかレーヴィはユーモアの精神にあふれていて、それもまたこの作品集の魅力の一つといっていいでしょう。そしてそのユーモアの後ろには、どこかしら鋭い皮肉が潜んでもいます。

諧謔み溢れた連作、営業マン、シンプソン氏シリーズ>

 作品のもう一つの根幹といっていいのが、営業マン、シンプソン氏が「私」のもとにNATCA社製の妙な機械を売りつけに来る一連の短編です。「詩歌作成機」という文字どおりの全自動詩歌作成機がやがてAIのような様相を呈する初登場作『詩歌作成機』から、今でいう3Dプリンター的な「複製機」を巡るあれこれという「低コストの秩序」「《ミメーシン》の使用例」、人間の顔の美の尺度を測定するカロスメーターが描く皮肉「美の尺度」、営業マンだったシンプソン氏が今度はとある研究に着手する「完全雇用」そして今でいうVRと色んな意味での“退職”が描かれる「退職祝い」と、SF的なガジェットとそれが描き出す皮肉的な状況が特徴の連作集となっています。

 もしかするとある意味こちらがレーヴィの本道のような感じでしょうか。シンプソン氏が持って来る機械を私がいじくりまわしているうちに皮肉なオチが待っている、みたいな形がベースとしてあるのですが、ドラえもんのように、装置を過度に悪用してオチがつくというわけじゃなく、横からよりうまく使うやつが出てきて幕とか、そういうより皮肉っぽいお話が展開されていて楽しませてくれます。「完全雇用」において、シンプソン氏の研究がこれまで売りつけてきた機械的なものではなく、生物的な理論というのもなかなか面白い。あと、全体的なテイストはちょっと星新一を感じさせます。

 そしてその皮肉なテイストが、科学や人間、どちらを賛美したり、危険視したりもせず、どこか突き放したような著者の視線を感じさせます。技術が人間を幸福にするとか不幸にするとか、技術を使う人間のヒューマニティーだとかそいう技術と人間まわりにわきやすい思想性に特に興味がない、何処かそんなドライな感覚がまた著者の作品を特徴づけているようにも感じたのでした。

 

『地獄の黙示録』

 結構前なんですけど、午前十時の映画祭で観てきましたよ。そしてこれが初めの『地獄の黙示録』だという。

 なんかすごい……んだけど、同時に妙にチグハグ感というか、前半のノリノリなドンパチから次第に鬱っぽい閉塞感を経て、何だか妙に煮え切らない形で幕を閉じます。

 いやでも、それは下敷きにしているジョセフ・コンラッドの『闇の奥』のテーマに沿ってはいるのだが。川をさかのぼっていくうちに、やがて自分たちが、未開人と蔑む現地の人間と区別がつかなくなる――果たして我々は自分で思うほど「文明人」なのか?

 そうやって主人公たちは自分自身の“闇の奥”に入りこんでいく――この映画はそういう構成にはきちんとなっているのだ。

 妻と離婚してまで戦場に舞い戻ってきた主人公のウィラード大尉は、軍を離れベトナムの奥地で独自の王国を築くカーツという男の抹殺を命じられる。優秀な軍人でありながら、カーツは何故、独立王国を築くに至ったのか、次第にウィラードはまだ見ぬカーツという男に興味を抱いていく……。

 なんかすごい奇妙な何かを感じる映画だ。たぶんそれはクリエイターが発する“迷い”の瘴気なのか。やろうとしていたことが次々と襲い来るトラブルで出来なくなり、泥縄式の映画であることは画面に焼き付いている。後半は誰が見たって撮影時の逸話を知らなくてもグズグズだと感じるに違いない。

 しかし、それでも下敷きの『闇の奥』であろうとするがゆえに、いや恐らくそれしかすがるものが無かったがゆえに、強固なまでに骨格としてすじは通っている。主人公たちは「文明人」としてベトナムに入り、川を遡ってゆくごとに、やがて自らの「未開人」性を露にしていく。前半の派手な躁的演出は後半になるとなりを潜め、しだいにぼんやりとした鬱的な、そしてどこか神話的な世界が顔を出す。

 そこはなんか、『闇の奥』にフレイザーの『金枝篇』を接木したような感じがちょっとするのですが……。まあ、欝々とした果てにデニス・ホッパー演じるヤク中のカメラマンがのたまう様に、世界はめそめそと終わっていく、そんな感じでこの映画も幕を閉じます。

 テーマとしては一応のところ一貫性を保っているはずなのに、何故かチグハグな感じがしてしまう映画、それがこの作品の奇妙な魅力なのかもしれません。

走るだけでも十分面白いアニメ、その名は『ウマ娘 プリティーダービー』

 『宇宙よりも遠い場所』『ゆるキャン△』という傑作も終わり、今現在、アニメは何を観てるかというと『ウマ娘 プリティーダービー』『メガロボクス』『ルパン三世Prt5』を観てます(『BEATLESS』も引き続き観てます)。

 中でも特に個人的に来てるのが『ウマ娘 プリティーダービー』なんですね。残すところあと一話とほとんど終りに来た今、さぼりにさぼり、ようやくの更新として、このアニメについて書くことにしました。

 ていうかこのウマ娘というプロジェクト、けものフレンズJRAとコラボした時に、そのプロモみたいなのをなんとなく目にした時があって、その時は、流行りに乗っかったような競走馬の美少女化プロジェクトか、みたいな感じで半笑いしてたんですよ。内容もなんかちょっとやなローアングルとか、内股気味の走りとか、無理して突っこんだような百合っぽい描写とかあって、ちょっと見て興味をなくしたんです。

 で、アニメのほうもtwitterのTLにちらちら上がるだけで、あ、今やってるのかぐらいだったんですが、競馬好きっぽいフォロワーさんが結構熱心に観てるっぽいのでちょっと興味をもって一話を観てみたのでした。

 最初は唐突なライブとかにやっぱり戸惑ったというか、なんか変なアニメだなーぐらいの感想だったんですが、最初に観たPVとは雰囲気が一変してて、観て嫌っていう感じはなく、変に媚びてもいなかったので、なんとなく続きを観ていくうちに次第にハマったという感じでしょうか。

 レース結果とかウマ娘たちの細かい設定は事実を基に構成されているみたいなんですけど、それを特に知らなくても、普通にスポーツものとして楽しめて、イロモノな見た目からすると意外にも素朴な味わいみたいなのが個人的にはクセになる感じでしたね。

 そうなんです、競走馬の美少女化+アイドルライブという一見イロモノ的な見た目にしては展開やキャラクターの性格など、実のところ素朴なんです、このアニメ。凄い外連のある、予想外の展開とかオタク好みの細かな裏設定を小出しにしたりとか、裏表のあるキャラクターの複雑な関係性とかがあるわけじゃないですし、どちらかというと感情の機微や人物同士の距離感を真っすぐに描く感じで、展開も素直な一本道のストーリー。その辺は『宇宙よりも遠い場所』(はサブで表裏の複雑な感情を持つ人物がいたりしますが)や『ゆるキャン△』に連なるアニメといえます。あと、大人たちがいい味出してて(特にトレーナー)そこもまた、近い感じがしましたね。

 アニメーションにしても、アニメだからみたいな過剰さや外連味のある超人アクションって感じじゃなくて、演出も古典的で丁寧。隠された裏読み設定みたいなのも最初のナレーション以外は皆無。一応ウマ耳の女の子が凄い速さで走るということ以外は陸上競技的な枠内に収まってるんですよ。女の子がめっちゃ必死にガチ走りする(+申し訳程度のライブ)、そんだけ。でもそんな彼女たちの“走り”にすごく引き付けられるんですね。

 走る、という所をきっちり、しかも豊富に描いてきてくれていて、走るという、ある意味アニメーションの原点というか、アクションの原点みたいなことをここまでじっくり描くアニメ、鑑賞できるアニメってそうそうないような気がします(まあ、私が知らないだけという可能性も大いにありますが)。競走馬、というモチーフを擬人化したからこそできた面白さといっていいのではないでしょうか。

 もちろん、走る以外にもキャラクターごとの現実のレースや生涯を知ってから見る楽しみや、そこかしこにちりばめられた小ネタやキャラクター同士の掛け合い、シリアスな中に適度に挟まれるギャグの緩急といった要素も素晴らしい。

 あと、彼女たちがG1レースで着る特別な勝負服がカッコイイんですよ。特にエルコンドルパサーグラスワンダーたちのゾロッとしたコートっぽい服装で突っ走る姿は特にかっこよくて好き。

 それから、やっぱり、キャラクターたちがみんな勝ちたい、という気持ちを前面に出してくるところがいいんですよね。所属チームのなかでみんなでわちゃわちゃするだけじゃなくて、チームは個人を高め合う場としてある。そうやってそれぞれがそれぞれのレースを勝ちに行く。そして、チームを越えて、相手をリスペクトする姿勢。そこを外さないことが、スポーツものとしてすじを通している大きな要因なのではないでしょうか。

 とにかくあと一回で最後(まあ、12話で実質的な最終回は迎えましたが)。最後まで彼女たちの走る姿を見届けようと思います。

 

『悪魔のいけにえ2』

 同じ監督が同じ題材で続編を撮る。まあ、割とよくあるシチュだ。その場合、第一作の再演となるわけだが、それをどのように再演するのか。それが映画の形を決めるのかもしれない。

 基本的に人気が出た作品の二作目は予算が増えるわけだし派手になる傾向がある。ターミネーターしかり、ランボーしかりエイリアンしかり……。基本的に派手になるのだから映画は動的になる。セットも大きく豪華になり、空間は広くなる。それはアクション映画にとっては有利に働く。2で評価が高いのは割とアクション系が多いのも頷ける。

 しかし、ホラー映画にとってはどうか。アクションの乏しさが不安や緊張感を、空間の狭さが息苦しさをもたらすジャンルで、それを正反対に振ってしまうと作品がもともと持っていた怖さが損なわれてしまう。低予算からくる歪なざらつきが恐怖に貢献していた場合などもあると、なおさらである。

 しかし、予算がついた以上派手にならざるを得ない。それは前作のウケた要素をパワーアップさせる。そして、やり過ぎた過剰な表現はパロディめいたものとなり、それは恐怖というよりも笑いを引き起こす。

それはこの映画でも例外ではなかった。

 

ここからはネタバレ前提で語っていくので注意です。

 あらすじは……ラリパッパな学生がドライブ中にチェーンソー男に遭遇して惨殺! 偶然ローカルラジオのリクエスト中で、電話がつながったままだったため、その時の様子が生中継。その音声テープを甥(って、ラリパッパな学生の方ではなく、第一作で惨殺された車いすの青年フランクリンのこと)の復讐に燃える保安官が、何故だか番組があるごとにリピートリクエスト。証拠の音源を狙った殺人鬼一家にDJの女性が狙われちゃってさあ大変!……みたいな感じです(もうなんかメンドクサイんです、これ以上は許してください)。

 

 まあとにかく、そんな感じでうっかり殺人鬼一家と接点を持っちゃった女性DJ災難の巻、がこの『悪魔のいけにえ2』の概要です。

 この映画、前述したように色々パワーアップしているわけですが、冒頭のラリパッパ学生の惨殺からみんな大好きチェーンソーが大活躍。トム・サビーニ大先生による特殊メイクで思う存分、頭をバックリ切り飛ばし、のっけからゴア描写が容赦ない。

 そして、チェーンソーにはチェーンソーだぜ、とばかりにデニス・ホッパー演じる保安官がチェーンソー三丁装備して暴れ回ります。

 レザーフェイスら殺人鬼一家は廃園になったテーマパークを根城としており、前作の悪魔の家をディテールアップさせたそこはまさに悪魔のテーマパークと化していて、見ててなかなか楽しいです。

 そして悪魔の晩餐もパワーアップし、豪華なディテールのなか、爺様のハンマー芸が皆様の期待に応えて再演。爺様もパワーアップし、割としっかりハンマー持てるようになりました(しかし、的をボロボロはずすのは相変わらずですが)。

 三男レザーフェイスの長男次男たちにドヤされながらの困った感じも健在で、今回は彼の恋心が描かれちゃったりします。恋と殺人の板挟み!? どーするレザーフェイス! みたいな。

 恋したDJに剥いだ生皮をかぶせて自分と同じにする――フランケンシュタインじみた同じ配偶者を求めるような行為は残虐かつ滑稽ですが、ある意味フリークスの純真性ともいえて、ちょっとせつない。

 まあ、そんな感じで全編が過剰なパロディじみた画面は悪趣味なほどどきつく、そしてどこかしらシュールで滑稽な雰囲気を纏っています。悪魔のいけにえといえば、の要素や場面を派手に繰りかえす。同じことをもう一度やる、ということは盛らずにはいられず、歌舞伎じみた大仰さを避けることはできないのかもしれません。そしてそれをホラーでやるということは必然的にコメディになってしまう。サム・ライミはそのことに自覚的で、トビー・フーパーは恐らく自覚しつつも、愚直であった、ということなのかもしれません。この作品はあくまでホラーであろうとしているのは間違いないからです。過剰な残虐さはどこかしら滑稽味を帯びる、という“恐怖”についてのことを追求した一本、と言えないこともない、と思ったりするのですがどうでしょう。

 とはいえ、絵的な印象性はどうしても前作に軍配が上がってしまいますね。あの何かが起こる前の不気味な緊張感をたたえた静画のような絵作り。悪魔の家に引き付けられるように進む女性とそのホットパンツの赤色、レザーフェイスが出現する前の赤い壁紙に動物の頭骨が並ぶ部屋の吸引力。

 ホラーの神髄はやはり、表現の過剰性というよりは“予兆”にあるといっていいのではないでしょうか。

 

決断せよ:『ペンタゴン・ペーパーズ』

 いろいろタイムリーといいますか、どこもかしこも腐り切った世界で、映画の神様が掲げた力強いプロテストは鮮烈で、まだあきらめるには早すぎる、そんなふうに勇気づけてくれる映画でした。

 まあ、政治的な意味合いは言うに及ばず、普通に主婦として生涯を送るはずだった一人の女性の決断の物語として、ずっしりとくる作品となっています。

 時代の中で決断を下さないといけない時はきっと来る。どっちつかずでいることができなくなる時が。その時何を選び取るのか、その根拠となるものを自分の中にもつことはできるのか。

 

あらすじ

 1971年、ケネディが始め、ニクソンが受け継いだベトナム戦争は泥沼化していた。現地を視察した政府系シンクタンクランド研究所のダニエル・エルズバーグはその泥沼化が事前に予測されていたにもかかわらず、なおも戦争を継続しようとする政府に疑問を抱き、これまでの軍事行動を記録した7000ページにも及ぶ機密文書、通称ペンタゴン・ペーパーズを持ち出す。

 持ち出された文章は一部が全国紙ニューヨーク・タイムズにリークされ、政府がこれまで公表してきた内容が虚偽であったスクープは全米を揺るがす。しかし、政府は国家安全保障を脅かすとして、ニューヨーク・タイムズに対し記事の差し止めを連邦裁判所に対して要求することになる。

 そんななか、一地方紙であったワシントン・ポストは、夫の死で急遽社主となったキャサリン・グラハムが株式公開を控え、なんとかして社主としてふるまおうとしていた。が、役員を含め男ばかりの世界で、担ぎあげられつつも半ば無視されるような日々を送っていた。跡を継ぐはずだった有能な夫の影を懐かしく思いつつも、社の将来を模索するキャサリン

 一方キャサリンの友人でワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドリーは、ニューヨーク・タイムズのスクープを横目見見つつ、自分たちも何とかスクープをものにできないかと考えていた。そんななか、ワシントンポストにも同様のリークが舞い込み、元ランド研究所の記者ベン・バグディキアンはかつての同僚であったダニエル・エルズバーグとの接触に成功、7000ページにも及ぶコピーを入手する。

 次の日までに早急に記事に仕上げるために全力をあげるベン達報道部だったが、弁護士たちは情報源がニューヨーク・タイムズと同じだったということから待ったをかける。ニューヨークタイムズが訴えられている中それを報道することは法廷侮辱罪が適用され、負ければ全員が刑務所行きになる可能性がある、と。

 報道の自由は報道によってなされる、という信念のベンたち記者と、株主たちを、そして会社を気にする役員たち。記事を載せるか否か――その最終判断は、社主であるキャサリンの判断にゆだねられた。

 

感想

 報道の自由とは何か、という大きなテーマが宣伝として前面に出ている映画ですが、それと並んで、大きな柱となっているのが、女社主となったキャサリンの決断の物語といえるでしょう。

 父の経営する新聞社を夫が継ぐことになっていて、彼女自身は主婦で終わるはずだった。あくまでお金持ちの奥様であった彼女が夫の自殺によって、右も左も分からない状態で、新聞社の経営に乗り出さなくてはならなくなったのだ。

 このキャサリンという人物を中心に据えたところが、スピルバーグの目の付け所の鋭さというか、上手いところだなあと思いますね。記者視点で、巨悪に立ち向かうというだけではなく、当時としても大変だったであろう女性経営者という視点から、決断することとは、という物語を描く。

 このキャサリンという人物の位置というのが絶妙で、彼女はある意味体制側の人間で、政府の要人たちとの交流があり、国務長官とも顔見知りなわけです。そういう立場の中で新聞社の人間として、彼らの不正を暴くかどうか、という局面に立たされる。記者のベンはひたすら報道の自由を追うわけですが、彼には最終決定権はない。

 つまり、このに描かれる報道の自由、そしてそれは報道によってなされるという信念は、経営者の判断によっている。もちろん、信念は大事だが、それを貫くには最高責任者の判断が必要になる。スピルバーグはこの映画を通じて報道の精神の他に、トップに立つ者たちの責任を促しているのだ、判断せよ、決断せよ、と。

 顔見知りであり、交流のある人物たちが不正を働いていたことを知った時、どのような行動をとるべきか、どちらの側に立つべきか。そこにどっちつかずの中道という道はない。時代が選択を迫る時が必ず来る。その時、判断する者はどのような決定を下すべきなのか。

 報道の精神をひたすら体現しようとするベンに対して、未熟な経営者のキャサリンが、死んだ父の、夫の会社ではなく彼女自身の会社としての決定を選択するまでの物語として描くことで、この映画は報道の精神を声高に訴える以上の映画としての独自の面白みを獲得したのだと思います。

 あと、機械類というか、印刷関係の機器類――暗がりで光を放つコピー機やカチカチと組まれる活字による製版、うなる輪転機といった描写が地味に燃えます。一つの意思決定が、様々な手を通して形になっていく過程がビジュアル化されていいるのもこの映画の燃えポイントですね。

 いわば記事が作られていく、というのがアクション映画でいうアクションのようなビジュアルの高揚感があると言いますか、そのような演出はスピルバーグの上手さといっていいでしょう。そういえば、今回は近作恒例(?)の冒頭にクライマックスがある歪な構成ではなくて、ちゃんと後ろにクライマックスがある構成でしたね。ラストは映画マニアらしい、映画のユニバースをみせてくれてニヤリ。

 まあとにかく、一人の映画人が今の時代に向けてどうしても作らねばと作り上げた作品――その力づよいプロテストには勇気づけられるものがありました。

 『バーフバリ 王の凱旋』を観た。確かに凄い。なんというか、むやみなエネルギーがある。マッドマックスとはまた違う、制御しきれない器からあふれ出すようなパワーだ。

 この映画はマトリックスから続く、アニメ、ゲーム、漫画文法の映画化という流れの先にある。ゲームや漫画、アニメのビジュアル化をここまで盛大にやられてしまうと、本当に口を開けて見入るしかない。

 王は強い。というか王族は強い。それは当たり前の前提としてバーフバリの世界はある。陰りや葛藤といったものとは離れた、ものすごい光輝く人間。それは今の日本はおろかアメリカ、ヨーロッパ、恐らく中国やロシアなんかでも失われた人間像。

 言ってみれば近代が捨て去った人間像、と言えるのかもしれない。強い理想、光り輝く人間像。それに突っ込みを入れることで、現在のフィクションは「深み」や「人間を描く」という仕草を獲得してきた。観る側だって、完璧な人間像をリアリティがない、人間味がないというふうにしたり顔で鑑賞することを身の振り方として体得してきた。

 しかし、この映画にはそんな姑息なものは通用しない。光り輝く人間はいる、その名はバーフバリ! そう高らかに宣言し、しかも観る者たちもまたそう頷かせるにたるパワーを彼に与えている。圧倒的な立ち居振る舞い、その迷いのない行動。カントのいう善のように、理由などなく、それそのもの存在自体においてバーフバリは偉大な王にして人間なのだ。

 捻くれきった現代の観客にそれを受け入れさせてしまうその映画のパワーにひたすらひれ伏すしかない。この映画は、その画のゴージャスさといい、かつてあった『クレオパトラ』や『ベン・ハー』といったある種の神話の映画の再来なのだ。それもとびっきりの。失われたはずの神話。それが我々の前に再び現れた。これはそんな映画の奇跡の一つなのだ。