蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

消失、そして越境 ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』

 

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

 

 

 ついにこの古典中の古典を読む。いや、さすが現在までにいたる吸血鬼というモンスターを決定づけた作品、地力というか、作品そのものに宿るパワーがとんでもないです。少々長いかもしれませんが、未読なら今さらかよと思わずその原点にして決定版といえるこの名作を手に取ってみてはどうでしょうか。

 まずこの作品はその記述様式が特異であり、全編が様々な媒体による記述の集積によって成り立っているのです。登場人物それぞれの日記やメモ、手紙といった手記や、新聞記事、はては蝋管による記録など、当時のあらゆる記録媒体によって吸血鬼についての記述が積み重なり、物語を形成しているのです。元々、吸血鬼というものが東欧の民間伝承から発したものであり、著者のブラム・ストーカーが長年、その伝承の記録を渉猟したということですが、まるでその過程を物語としたような、そんな誰かのしたためた記録ですべてが成り立っている作品なのです。

 誰かの記述であるということ、それが怪談としてのこの物語を秀逸なものにしています。吸血鬼という存在がよく分からないでいる人々が、怪奇にさいなまれていく様子、そのよく分からない不安感が恐怖感へと昇華していくさまが記録形式により読者へリアリティを持って迫ってきます。特にデメテル号のくだりは出色の怪奇話となっているのではないでしょうか。犬、泥の詰まった棺桶といった道具立ても見事。

 そしてなんといってもルーシーの首元についた、ささくれ立った跡の不思議とその後の衰弱の様子。よく分からないがしかし、死の臭いのする何者かがゆっくりと迫ってくるのは今読んでも怖い。後半、吸血鬼の存在が明らかになり、ヘルシング教授率いる討伐隊がドラキュラを撃退し、トランシルバニアまで追いかけていく冒険小説的な体裁になりますが、そこもまた面白く読めます。多視点で追い込んでゆく過程は記録形式が生きてきます。

 この作品のドラキュラ伯爵は後続作品に出てくるような暴力的な力で人を襲ったりする怪物的な存在というよりは、どこか疫病的と言いますか幽霊的な趣が強いです。どこからともなく部屋に入りこみ、少しづつ対象を死に近づけてゆく存在。実態がどこかあやふやだからこそ怖い。吸血鬼の恐怖の本質というのは、得体の知れないものにふらりとテリトリーに侵入される恐怖なのではないか。土俗性を帯びていた東欧の伝承が近代化された都市の一室に忍び込む。そういえばこの領域に侵入される恐怖として、ミステリ者としては50年以上も遡る1841年にポーが書いた「モルグ街の恐怖」が思い出されました。恐怖の対象が遠くの異国からやってくるというのも共通しています。この作品もある意味、探偵役的なヘルシング教授が現れてからの後半は吸血鬼の足取りをたどる捜査小説的な趣をおびていて、吸血鬼の行動やその移動ルートを推理してゆく場面はかなり推理小説しています。

 そもそも出来事を詳細に記述してゆくというのも探偵小説と重なり合う部分があり、怪物についての記録の物語――犯人についての記録の物語という感じで探偵小説と親和性があるようにも感じました。この小説自体が吸血鬼についての証言、出来事を詳細に収集してゆく――それは自身の記録を詳細に収集していた江戸川乱歩の姿が思い浮かび、シャーロックホームズが1891年で先立つこと6年ほど前ということで、やはり、探偵小説との関連性、縁のようなものを感じさせます。ディテールを収集し、それを参照することで推論に至るというのは、推理小説の領域に他ならない。

 しかし、この小説は最後の最後でそこに大きな亀裂を入れる。

私は長いこと金庫にしまっておいた当時の文章を、そのとき久しぶりで取り出して見た。読み返してみて驚いたことは、記録が構成されているこれだけの山のような材料の中に、これこそがただ一つの真正な記録だというものがないことであった。 

  膨大な記録のテキストの山、それによって成り立っていたはずのこの作品を根底から覆すような爆弾が、きわめてさりげなく置かれる。ただ一つの真正な記録がないのなら、ではそれによって指摘されている“犯人”ドラキュラは、「真正」なものだったのか。伯爵が最後に塵と化し、文字通り消えさったようにして、「犯人」もまた消失してしまう。これは何だ。ほとんどアンチミステリといっていい様相ではないか。

 とはいえ、自己否定、自己言及もまたミステリといえばミステリだ。この作品は早すぎただけと言える。むしろこの作品のミステリ的先駆性はそこにあるのではないか。シャーロック・ホームズが現れ、そのライヴァルたちが陸続として活躍し始める世紀末。科学が称揚され、その科学的姿勢は詳細な証言、証拠といったものをテキスト化し、データ化する。それによってヒーローたちは世紀末の闇を照らす。しかし、やがて、そのテキストそのものを脅かすトリックの存在がアガサ・クリスティによって決定的な形で暴露される。

 書かれたテキストは果たして真実なのか? クリスティの問題作はそのテキスト――書き手において本作を逆転させたような存在でもあり、本作がどの程度影響を与えたのか気になるところだ。

 ともかく、探偵小説が本格的に誕生し、ジャンルを形成し始めたその周辺部ではすでに亀裂が走っていたと考えると、なかなか面白い。推理の根拠が消失することで、テキストの集積によってその円環の中心の空として存在していた伯爵も消え去る。ここに至り、推理小説的な領域から怪奇小説的な領域へとその書かれた存在は越境してゆく。

 土地を、部屋を越境してきたドラキュラは、推理小説的に悪魔祓いされる形で追い返されるが、ついにはその推理小説的な範疇からも越境してしまうのだ。確かにテキストの否定はそれでもミステリ的な領域であることは確かである。しかし、『吸血鬼ドラキュラ』は書かれた「存在」が消失することでミステリ的な領域からもするりと抜け去ってしまったのだ。

おわりに

  『吸血鬼ドラキュラ』と推理小説との関連性は、以下の本が示唆に富み、ものすごく面白いので、是非読んで欲しい。この拙文の参考とした「勝利のテクスト」以外にも面白い論考が満載です。ほんと俺の文章なんかどうでもいいから読め。読むんだ。

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)

 

 

偶然の極北 島田荘司『屋上の道化たち』

※この文では『屋上の道化たち』のネタバレを含むので注意

 

屋上の道化たち

屋上の道化たち

 

 『鳥居の密室』、いい作品だとは思うんだけど、これをもって島田荘司完全復活だとか、これと比べて「星籠」や「屋上」はダメだみたいな言説を見るととてもモヤモヤする。

 確かに、ここ最近の『アルカトラズ幻想』『星籠の海』『屋上の道化たち』といった作品はどこかチグハグで、おさまりが悪い印象があるし、実際に構成がゴタゴタしたものであることは否定できない。それらと比べると『鳥居の密室』はスッキリした構成で、分かりやすい感動的なカタストロフでまとめてくれている。とても親切な設計だといっていい。おさまりがいい作品であることはいいことだし、それを高評価するのは間違いじゃない。

 ただ、一方でその収まりの悪い長編たちは、それゆえに挑戦的だった。そういうわけで、特に『屋上の道化たち』についてここでは語りたい。

 この作品の特徴といえばなんといっても奇妙な謎とトリックをかろうじて成立させるために用いられた奇妙な偶然の数々。島田荘司は偶然を多用するが、本作ではそれはほとんど度を越した領域と化していて、その謎現象には中心となるべき何者かによる計画という意思をすっぽりと欠いたまま、それぞれの愚かしさの行動の果のグロテスクかつ滑稽な姿として現れる。読者の前に広げられた真実は、笑うに笑えない光景。そこには安心して感動したり、犯人の関係やそれを解き明かす探偵の鮮やかなロジックは存在しない。あり得ない現象はありえない事柄ゆえに起きたのだ、という身もふたもない真実が提示される。それもあまりにもバカバカしい行動の結果として。これほど殺意や犯行計画が介在せず、すべてが偶然によって成り立つ奇想があっただろうか。そういう意味で、この作品は島田荘司の偶然を扱った作品でも極北の位置に立つ作品といっていいのではないか。それら偶然自体も奇妙なもので、その偶然をねん出するために奇怪な挿話や行動が作品全体をゴツゴツとさせたものにしている。

 それをどう処理していいか分からないゆえに、大多数の読者は“バカミス”という安易極まりない言葉で受け止めるしかなかった。確かにこれはバカバカしいかもしれない。とはいえ、『屋上』と改題されてしまったが、元の題名は『屋上の道化たち』であり、もともとその道化ぶり、バカバカしさは前提のはずなのだ。市井の卑俗な人々のセコイ行動が積み重なって、あり得ない出来事が生じ、世にも奇妙な謎の花を咲かせる。事件を構成するどの人間にも共感や同情といった感情を抱かせず、彼らに寄り添うことでなにかしらの感情的な高揚感と満足感を得ることはない。そこがまた評価が低めになる要因だと思うが、島田荘司はその奇想のためにバカバカしい人間たちという造形をラディカルに貫く。だからこそ、現出する奇想とのギャップに読者は半笑いするしかない。卑俗な人間たちの卑俗さが産む滑稽な道化芝居。

 その異様に突き放した姿勢も含めて、この作品は奇想のあだ花なのだ。

 

クラシック、そしてポップ 映画『アトミック・ブロンド』

 これはかなり好みのスパイ映画。伊藤計劃氏が観たらかなり喜んでたんじゃないか、そんな感じがする。

 スパイ映画というと、大きく二つにテイストが分かれ、一つが007に代表される、派手なアクションや、ビックリメカの数々で展開される、ヒーロースパイものの系譜。そしてもう一つが、そういった派手で分かりやすい要素を廃し、人的情報――ヒューミント中心に描かれる騙し騙されの諜報合戦がメインとなるリアルスパイものの系譜。前者はくっきりと分かりやすい面白さが顕著な反面、スパイ本来の隠密性や諜報性に欠け、後者は地味で分かりにくく、エンタメ的な分かりやすい面白さに欠ける。

 本作はある意味、その二つの系譜のいいとこどりを狙った作品と言えなくもない。ただ、テイストとしては、『スカイ・フォール』のように007タイプがリアルに寄った作品というより、リアルタイプがヒーローアクション寄りになった感じに近い。なので結構、諜報員同士の関係性が複雑に入り組んでいて、ぱっと見把握しづらいところがあるかもしれない。そしてそのアクションはリアル寄りの重たく、痛いアクションである。しかし、本作の特筆すべき点はまずその重く、痛みを伴うアクションにある。

 主演シャーリーズ・セロン演じる女スパイは冒頭、氷を入れた水槽から上がるのだが、全身傷や打ち身だらけで、顔面も大きな痣でおおわれている。物語はそこから過去にさかのぼる。いかにして彼女はそのような凄惨な傷を負うことになったか。この映画は、彼女の傷の記録だ。ちなみにこの浴槽から目覚めるように彼女が上がるシーン、浴槽の向こう、広いガラス窓に臨むビッグ・ベンとその下に広がるロンドンの町を収めた構図はどことなく、映画『ゴースト・イン・ザ・シェル 攻殻機動隊』(アニメ)の冒頭における素子の部屋の構図に似ている。これは恐らく意図して似せたような気もする。

 予告ではシャーリーズ・セロンのスタイリッシュなアクションを売りにしたような感じに見えるかもしれないが、実際のところそのアクションはかなり泥臭い。昨今のヒーローアクション的な、キビキビして一発当てれば綺麗に敵が吹っ飛んでそれっきりというものとは程遠い。人間はそう簡単に倒れないのだ。殴られても立ち上がり、刺されてもコロッと死んだりはしない。互いは相手を必死に殺そうとし、そのために殴り、ナイフを振る。武器を失い、ガンガンお互いを殴って、しまいにはそのへんに落ちてる物を投げつけたりそれで殴ったり。最後は両者ダメージでフラフラとなる。肉体と肉体がぶつかり合う、まさに殺し合いだ。それがこの、アトミック・ブロンドに選択されたアクションといえる。そしてその選択が、リアルスパイ路線に馴染みつつ、その範囲内と延長線上でシャーリーズ・セロンの鋭く、時に派手な動きを印象深く見せてくれる。それが、リアルスパイものではあまり見られないエージェント同士の戦闘シーンとして印象的なものを提供している。

 とはいえ、実のところ、アクション以上にこの映画の特質は、その画面構成によって生れているといってよい。舞台はベルリンの壁崩壊直前の東ドイツ。全体的に白黒調のモノトーンで統一されつつ、時折そこにネオンの光や場所や説明字幕を入れる際のパステルカラーのスプレーを吹く演出が足されることで、ポップさとスタイリッシュさを同居させている。クラシックなスパイの陰影の中にポップな光が躍る。その画面構成がこの作品を特徴的に形作り、唯一無二のスパイ映画としているといっても過言ではない。赤と青の光や赤い服が、灰色の景色に沈んでいきそうなスパイたちを所々で浮かび上がらせる。その色の使い方がスパイの孤独や哀しみを表現していたりしていて、静謐で厳粛な、しかし鮮烈な絵の印象を観る者に与える映画なのだ。

 『けものフレンズ2』の何にびっくりって、この短期間で火中というか、火だるま確実な栗を拾いに(拾わされに?)行く人間が現れたことですよ。どこのどなたが監督するのか分かりませんが、家族を人質に取られたんだろうか……なんて。PVは大荒れでぶっちぎりの低評価ですが、そもそも最初の『けものフレンズ』だって今どきこんな低クオリティCGかよ、と叩かれてたわけで、それも含めてスケールアップしてるのはパート2らしいといえばらしいのでは。

 まあ冗談は置いといて、色々な面で最初から縛りキツイ状態で作ること自体が、精神衛生上心配なものがありますね……。しかし、2って何するんだろう。人類の歩みを振り返る形で、文化、文明の再演、みたいなテーマをきちんとやり切った、たつき監督の『けものフレンズ』の続きって、正直、たつき監督が続けてても難しそうな気がするけど。アプリ版みたく、あたりさわりのないパーク内のRPG風のお話になるのか、キャラクターと動物ネタでわちゃわちゃするキャラ重視の日常物っぽくなるのか……。

 個人的には、たつき監督は『ケムリクサ』で新しいアニメ作ることになったし、動物ものは『ウマ娘』を楽しんでるので、そこまでけものフレンズのことに執着はしてませんが。とりあえずPV観ると、CGのモーション含めてすごく滑らかでよく動くようになってて、それは別に皆が期待してたことではないかもしれないけど、それはそれで見たら楽しいのではないかと。

 一定のエリアの外から出る所で終わった『けものフレンズ』と自主制作版の『ケムリクサ』。実のところ『けものフレンズ』は『ケムリクサ』の再演でもあったわけで、新しい『ケムリクサ』がその先になるかどうかは分からないにせよ、個人的には『けものフレンズ』の“続き”ってのはそっちの方に期待してるんですね。

ゾンビ映画? いやミステリ映画だ! 映画『カメラを止めるな!』

 まあ時間もたったし、ある程度ネタバレでいきますね。

 

 ようやくあの話題の映画『カメラを止めるな』が我が地元で(地方の悲しみ)も公開され、行ってきましたよ。確かにこれはなるべくネタバレ回避で観に行った方がいいかもしれない。ただ、実のところこの映画は、ネタが割れてからが真骨頂ともいえるので、知ってから観た方が楽しめる気もします。二度三度と楽しめるし観たくなる、そんな映画だと思いますね。とりあえずもう一回は観に行こう。

 確かに前振り長いのはそうなんですよ。そこで期待したほどじゃないな……という感じでそのままずっと行っちゃう可能性は無きにしも非ず。でも、壮大な前振りの後のじっくり溜めに溜めたそれがパズルのピースのようにピタピタ嵌ってゆく感覚はとても気持ちよく、そしていちいち面白い。その怒涛の伏線回収やダブルミーニングの快楽はミステリのそれに近いです。そういうわけで、ミステリ好きとしてはなんだろこれ……と観ていたら、その本番に入ってからの展開にはニコニコしっぱなしでした。ミステリ好きはぜひ観るべきです。また、役者さんの演技も最初と最後で違って見えて、その二重化された演技にもなかなか目を見張るものがあります。なにげにすごい。

 この映画はその伏線やダブルミーニングがことごとく現場での混乱、番組の企画上、カメラを止めない様に右往左往するあれやこれやにつながっていて、前半のグダグダな間にすら理由があったりして、それがいちいち面白く、かつ奮闘する監督をはじめスタッフたちの姿に手に汗握り、応援したくなります。そしてその気持ちが、やがて監督の全力でものを作る姿に入りこんでゆく、という観客の気持ちの導線が見事で、ただ伏線回収が見事な映画ってだけでなく、妥協してばっかりだった男が、父親とは真逆の、妥協したくない娘のサポートで、ショボいはショボいなりに自分の作品を全力で作り上げる、という一本筋の入った映画になっていて、ある意味骨のある映画となっています。家族映画であったりもしますね。お父さんと娘の映画。最後の写真はその作品が父と娘の合作である、ということを簡潔に表してましたね。そういう感じで色々と楽しめるポイントが盛り込んであり、ブログタイトルにミステリ映画だ! なんて書いてますが、まあそれだけじゃないよ、ということを最後に述べて筆を置こうと思います。

 ※どうでもいいですけど、序盤の手持ちカメラ画面は結構酔う上、食べ物の臭いとなんだかよく分からない臭いがミックスされた臭気でかなり気分悪くなって、マジで吐きそうでした。手の先が冷えて頭痛と吐き気で序盤は相当つらく、そういう意味でももう一回行かないと。しかし、映画館は結構食べ物の臭いで気分悪くなること多い……。

 

破壊する先に何があるのか 映画『スター・ウォーズ エピソード8:最後のジェダイ』

 ようやく観ましたよスター・ウォーズエピソード8を。

 まあ、もうじきも時期だしネタバレで語っていくんでそこはよろしくです。

 公開後にその“破壊”を許容するかどうかの姿勢がこの映画の“前進”“革新”を受け容れる者とそうでない者、みたいな分断が広がっていてウンザリして結局映画館では観なかった(あと、長いってのもあったけど)わけで、DVDでの鑑賞となりました。

 結論としてはまあ、悪くないかな、と。個人的にはもうあんまり覚えてないエピソード7よりは好きだと思います。同時にスター・ウォーズ好きの不満もなんとなく分かる映画でもありました。

 つまり、スター・ウォーズといえば、という部分を突き放しているというか、わざと外している。

 それから、この映画の大きな主題は「ヒーロー」の否定であり、全編がこのトーンで貫かれていて、よって、ジェダイというある種の伝説の存在を半ば否定する形でルーク・スカイウォーカーを葬り去る。そこがまあ、反発を呼ぶ一因になってるのかもしれませんが、全否定ってほどでもないし、ジェダイそのものというよりジェダイがすべてを動かすといった期待や幻想を否定する、という方向性っぽいので、個人的には強く反発しなくてもいいのかなあ、とは思いますが。

 一方、光が濃く成れば闇も濃くなる、という問題提起は出るべくして出たような問題提起で、スター・ウォーズシリーズの中では踏み込んだものというか、元々ジェダイとシスというものを真っ二つに割っていた光と闇をひとりの人間が混在させる、そういう新たなフォースの使い手の誕生、そしてバランスという落としどころを狙っているのかもしれません。ただそれによって従来のジェダイ観は破壊された。

 まあでも、ジェダイはともかく独断専行で“ヒーロー”になろうとするポーをレイアがたしなめて、彼がやがてその場その場の英雄的行為を諫めるようになり、英雄ではなくリーダーとなる、という流れは悪くないと思います。しかし、その英雄的行為がだいたい特攻ってのはなんだかなあ、という気もしますし、そういうのを否定するようなそぶりをしつつボルド提督に特攻させてしまうのはどうしてなんでしょ。そもそもボルド提督がクルーザーに残る意味あるんだろうか。ドロイドとかでいいのでは?

 そういう、演出のむらがあってどうも一貫性が薄くなってるのも気になるところです。割と脚本の行き当たりばったり感が強いというか。まあ頭がもげて壊滅寸前の軍隊なんてそんなもん、ということで一つよろしく――なのでしょうか……それで納得できるかどうかは観た人次第かも。

 まあとりあえずスター・ウォーズを象徴していたライトセイバーを破壊し、旧作における“最後のジェダイ”を葬った。ハンソロも死んだ。次はミレニアムファルコンが標的なのかもしれない。旧作の遺産を葬ることで新しいものを打ち立てる、しかしその行為は、あくまで旧作の遺産で成り立っている。破壊できるのはこれまでそれが打ち立てられていたからだ。結局は旧作の遺産に依拠した破壊なのであって、それ自体を評価できるかというと、個人的には微妙というか、問題はそこから何ができるか、ということなので次回を見なければ今回の“破壊”は評価できないかなあ、という気がします。

 では、破壊しきった地平に何があるのか。2時間半という長尺で色んな場面を挿入してある割に物語は実のところ全然前に進んでいない。レジスタンスがニュー・オーダーから辛うじて逃げ切ったか――というだけなのだ。次への種まきをしているのかもしれないが恐ろしいほどの停滞ぶり。これ何なんだろう、先を読ませないようにするというハリウッド脚本の悪癖が炸裂したような、右と思わせて左というようなひっくり返しの連続で、そのため伏線に乏しく、物語の流れを作るのではなく単発的なエピソードの陳列状態になっている。これって大丈夫なんだろうか。

 敵地に潜入して装置を破壊すると思ったらしない。マスターのもとで修業すると思ったら特にしない。ジェダイとシスが剣を交えるかと思ったらしない。したかと思ったら実は一方は思念体(なので実はつばぜり合いしていない)であったとか、この映画はこれまでやってきたことを反復するように思わせてはぐらかすことを執拗に繰り返す。まあ、同じことをやってもしょうがないし、すでにエピソード4のプロットを反復した7まであるのに同じことやっても縮小再生産になるだけで、このあえて反復しない、という行為を評価する向きもあるんだろうけど、私としては、違うことやりたいんならストレートに違うことをやればいいだけだと思うし、前振りとして過去を反復するのはそれこそ過去に依拠している。それは結局、破壊のための破壊ではないか。在ったモノを壊すという行為と自立した新しいものを作るということは違う。まあ、それは次に持ち越しということなのかもしれないが、しかし今作を革新作とは言いづらいかなあという感じです。

 あと革新性、旧作との決別を謳ってるようにしつつもヨーダのパペット感とか、過去の音楽垂れ流しとか旧作回帰な部分は何なんだぜ。サービス? よく分からない……。

 いろいろ言われてるローズとフィンのパートいるのか、とかレイアのフォースで宇宙遊泳とか、ルークの豹変とかよく上がる不満部分は、スター・ウォーズにあんまり思い入れがないせいもあってか、青筋立てることなくまあ……という感じでスルーしてしまった(できた)のでした。色々列挙されている“謎”についても正直どうでもいいというか、レイの両親とかスノークの出自とかそんなに気になります? やたらと散りばめた謎で風呂敷広げる物語は大抵ろくでもないものと相場が決まってるので、あまりそういうのに執着するのもどうかと思いますが。

 物語はともかく、この映画はシーンの美しさや印象に残るショットという意味ではかなり素晴らしいものがあると思います。スノークの間の赤い空間とそこに控える赤い甲冑の親衛隊たちが醸し出す妖しくも美しい空間だったり、最後の赤い大地に塩が降り積もった惑星での戦闘、大地をひっかく様に戦闘機が表層の塩を削って赤い線が引かれるさまは、ビジュアルのための惑星設定バリバリながらもとても印象的なシーンを創り上げています。夕陽や炎といった使い方も巧く、月や雨が作り出す闇夜の陰影も悪くない。そして、本作のテーマカラーの赤の使い方がなかなか印象的だったようにも思いますね。あとレイとレンのフォースでの交感シーンは、カットの切り返しだけでそれを成立させていて、シンプルで説得力のあるシーンを生んでいたと思います。ついに二人が同じ画面に収まるところなんかはこの映画の一つのピークでしょう。

 また、いろいろ言われているマーベル的なギャグですが、個人的にはあまり気になりませんでした。まあ、そこまで欲しい要素ではないかもしれませんが、長大な尺のある程度の息抜きにはなっていたとは思いますし(とはいえ、そもそもそんな余計なことがあるから長いのだと言われてしまえばそうなんですけど……)。

 この映画は旧来のものを破壊しつつも、ただ、エンタメとして最低限の軸までは破壊していないので、大雑把に場面場面を見て、引きまわされるままに観ていけば楽しめるようにはできているますし(異論はあるでしょうが)、主人公たちを追い詰めつつもそれは三部作における二作目の役割の範囲内で落としてるわけで、この先どうすんだよ……というほどの破たんはなく、次回はレジスタンスのピンチに銀河周辺の同盟が応えてニューオーダーを打つ、という形ですっきり終わるんじゃないかと思います。いやまあ、それが面白いのかどうかは別の話かもしれませんが……。

 しかし、旧三部作から戦ってきたレジスタンスもを葬って、ニュー・オーダーと戦って勝つにせよ、これでスター・ウォーズサーガが終わるということもなく、恐らく新たな戦いが始まるかと思うと、何だか虚しい気もしますね……。

スター・ウォーズそのもののこれから>

 そもそも、スター・ウォーズサーガってこれから広がりを持つんだろうか? これと近いものをすでに私たち日本人はよく知ってるはずだ。

 宇宙世紀――というやつだ。

 そう、一連のガンダム宇宙世紀サーガである。一年戦争という最大の戦いが終わったシリーズは、やがて局所的な小競り合いや政治闘争へとその争いは小さくなってゆく。そして、最終的には一年戦争時やシリーズ間の穴埋めや年代記の時間を大幅に飛ばすか、ということになる。それら偉大な原点ありきのシリーズたちは原点を乗り越えただろうか? そこはいろんな意見があるかもしれない。とはいえ、個々の作品の好みはともかく、先があるのかといわれると何とも言えないものがあります。スター・ウォーズもまた、このままだと出来事の穴埋めは行き詰まり、先を描くために何千年かすっ飛ばして仕切り直すか、最終的には旧三部作やプリクエル自体をリブートするのも時間の問題でしょう。

 行き詰りつつあったガンダムは、そこをいわゆる“ガンダム顔”をしてるMSが出てくればガンダム、という強弁によってシリーズをパラレル化し、仮面ライダー戦隊シリーズと同様に際限なくガンダムユニバースを広げていく選択を取りました(そういう意味でGガンダムという作品はガンダムでやる必要がないといわれつつも、偉大な作品ではあるのでしょう)。

 スター・ウォーズも選択肢として、フォースと光る剣が出てくればスター・ウォーズという方向性をとるかもしれません(後ヘンな仮面の悪役とか……)。というか、これまでのキャラクターを捨て去ったのでその下地はできているといえるのではないでしょうか。

 実のところ顔と名前の固定されたキャラクターってシリーズとして物語を延々続ける究極的には邪魔になる場合が多く、ヒーローものやガンダムがここまで続いてこれたのは、中身をとっかえる器――それはマスクだったり、ロボットだったりがあったからで、スター・ウォーズも極端な話、ライトセイバーさえ出てくればスター・ウォーズって感じで、現代のアメリカの高校生が主人公の学園物だって出てきちゃうかもしれません。それがまあ、楽しいかは別の話ですが……。

 しかし、宇宙に光る棒を持ち込んだ、というか棒を光らせるだけでチャンバラをSFにしてしまった。それは本当に画期的で、スター・ウォーズの本質はこの光る棒にあるといっても過言ではないでしょう。

 まあ、そんなわけでグダグダ長くなりましたが、個人的には新三部作の行方よりはスター・ウォーズサーガのこれからの展開が気になる方かもしれません。

 

根無し草の怪物 映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

 黄色いМの文字――それだけで分かる店がある。

 マクドナルド。

 世界で初めてレストランを効率化し、30秒でハンバーガーを出すハンバーガーショップの代名詞。そしてフランチャイズ化することにより、アメリカはおろか、世界のあまねく地域でその黄金色のダブルブリッジを目にすることになる。一日に世界人口の実に1パーセントの人間がその提供する商品を口にする、超ド級ハンバーガー帝国。その幕開けとはいかなるものだったのか、そしてそのファウンダー――創業者とは何者だったのか。

 マクドナルド――それは人名だ。ということは創業者の名前であるはず。しかし、実は違う。この映画の主人公であり、マクドナルドの「創業者」の男の名前はレイ・クロックという。つまり、彼はその名を奪ったのだ。

 「マクドナルド」とは、彼が簒奪したまさにすべてといっていい。この映画は、けた外れの野心以外は何も持たなかった男がひたすら「成功」を求め、それを際限なく拡大することに執念を燃やす物語なのだ。

あらすじ

 1954年、レイ・クロックはシェイクミキサーを売り歩くセールスマンだった。中西部を車で駆け巡り、重たいシェイカーを手に飲食店の経営者へ得意のセールストークで売飛び込み営業をかける日々。食事はドライブインレストランでとるが、そこは大抵たちのよくない若者のたまり場で、時間はかかるし、注文を間違えるのもしょっちゅうだ。その日も注文を間違えられ、レイは不機嫌だった。セールスもなかなか上手く行かない。

 食事を終え、レイは自社の秘書に電話をかける。秘書からはなんと一軒のドライブインレストランからミキサーの注文が6台あったという報告が。あまりの大型注文に疑いを覚えるレイだが、そのレストラン――マクドナルド・ハンバーガーショップに電話を入れると、尋常ではない繁盛した様子と2台の追加で注文が8台になる始末。なにか電話の向こう側で大変な事態が起きているらしい。そう嗅ぎ取ったレイはすぐに現地に向かう。そこで目にしたものは、これまでにない画期的な効率化システムを取り入れた新しい飲食店だった。

 これはフランチャイズ化すべきだ、そう確信したレイは創業者のマクドナルド兄弟に迫る。なんとしてでもこれに乗りたい。しかし兄弟はあまり乗り気ではない。フランチャイズ化はすでにしている、しかし、大きくし過ぎることで管理が行き届かなくなり、質が落ちる。結果これ以上大きくならないし、もう大きくしたくもないのだと。

 しかし、レイは諦めず、その執拗な執念に根負けするようにして兄弟はレイにマクドナルドのフランチャイズ化を任せることにする。そしてその時、マクドナルドの「創業者」は生まれたのだ。

 店を金持ちの道楽的な投資ではなく、上昇志向を持つ夫婦を中心にして任せることにより、フランチャイズ化の拡大に成功し、さらなる拡大をもくろむレイ。だが、そのたびにマクドナルド兄弟と対立することになる。やがてレイは自らの枷となった兄弟を「マクドナルド」から追放することを画策してゆく。

 

感想

 マクドナルドの「創業者」――それはファストフードの基礎ともいえる調理工程の徹底した効率化とマニュアル化を考案したのでないばかりか、そのアイコンも作り出したわけでもなく、マクドナルドという名前すら自分のものではない。彼がしたことはただ一つ、それをひたすら広げたこと。そしてその原動力は成功への執着という、けた外れの野心。

 ほんと見事なまでに彼はマクドナルドがマクドナルドたる全てについて何一つ生み出してはいない。作中で確執の原因の一つになる粉末ミルクシェイクだって彼のアイディアではない。彼が語る成功哲学ですら、どこぞの誰かさんが吹き込んだ「ポジティブの力」というレコードの言葉の引用なのだ。彼自身の根っこは何もない。しかし、それでも彼はマクドナルドの全てを手に入れた。

 そもそも彼はその時点ですでにある程度の成功者なのだ。立派な家に住み、金持ちクラブでの交流も持っている。同じ年ごろの人間たちはゴルフに酒の悠々自適の生活で、52歳にしてもう一旗揚げようとする彼のその野心の原動力とは何なのか。

アメリカンドリーム――開拓の再演>

 セールスマンとして、売るものをとっかえひっかえし、彼自身は何かを生み出すことはない。だからこそ“成功”というものに固執するのか。いや、彼が固執しているものは実は“アメリカ”そのものなのだ。最後に彼がマクドナルドという名前を手に入れたがった理由についてこう言う――響きがとてもアメリカ的だ、と。クロックでは人は振り向かない。それはじめじめしたスラブ系の名前だからだ。マクドナルドというフランチャイズの本質がハンバーガーではなく不動産業であり、遅れてきたスラブ人の彼がかつて西へ向かって開拓したアメリカを、今度は東のカルフォルニアから西のニューヨークへと開拓してゆく。乗り遅れたアメリカンドリームの再演だ。彼が作中唯一といっていいほど成功を体感するシーンは新店舗の開店時、そこの土地の人々に感謝と共に歓迎されるシーンだ。そして糟糠の妻を捨て、出資者から略奪するように再婚する妻は明るいブロンド美人。

 アメリカであること。それが根無し草である彼の望みだ。しかし根っこがないことは現状に満足し、根を下ろすことがない。彼は際限なく彼の店をアメリカ中へ広げてゆく。アメリカになるために。アメリカが彼になるように。その貪欲ともいえる様は怪物的で、無慈悲にローカルな人々を飲み込んでゆく。かつての“開拓”がそうであったように。そして今日でもまた、マクドナルドは“アメリカ”を世界に広げている。

おわりに

 なんというかキャストが絶妙ですよね。なんといってもマイケル・キートン。その胡散臭く脂ぎった野心が、わざとらしいしぐさの端々に現れるレイ・クロックを好演しています。やりすぎな感も無きにしも非ず、しかし、怪物的な人物としてはちょうどいいくらいです。演出もくっきりしていて、特に電話の演出でマクドナルド兄弟とレイの関係性の優劣がやがて逆転していく様を分かりやすく示し、善良で頑固な兄弟が次第に怪物にのっとられていく過程は一種のサスペンスと言えるでしょう。

 映画のラスト、鏡に向かいマクドナルドの創業物語を練習しようとするレイ。それは冒頭のセールストークの構図と同じ我々に向かって語り掛けるように。しかし、どうにもうまくいきません。それもそのはず、彼にはその実体験はないのだから。巨大な帝国の「創業者」には肝心の根っこがない。それは私たち観客がよく分かっている。そしてラストショットの部屋を出ていく彼の後姿はピンボケしたようにぼんやりとしています。それが彼そのものなのか、その姿はどこか蜃気楼めいて、映画のラストを印象付けているのでした。