『誰も語らなかったジブリを語ろう』を読む。押井守ジブリ作品を忌憚なく語っているわけですが、主に宮崎駿、ついでに高畑勲にその他(宮崎吾郎米林宏昌等)への彼らしい遠慮のない作品評ももちろん面白いんですが、他者の作品を論じる中、押井監督自身の監督論、創作論が語られ、一粒で二度おいしい本となっています。他者の中で己を語らずにはいられない、そういう押井らしさ(?)が実は一番楽しかったり。

押井監督はティテールで映画は成立しない、宮崎駿監督のような溢れるディテールを野放図に描きたいだけ盛り込むのではなく、ディレクションに必要なのは引き算であり、何がいるのかいらないのかを厳密に精査する能力こそが監督に必要なものなのだと執拗に説く。それが出来ないがゆえに宮崎駿は監督として二流、三流なのだと。さらに客観性がカケラもなく、脚本の才能はゼロ、と。脚本については 結末をはっきり決めてスタートしない点も押井監督は批判しています。だから彼の映画は最後があやふやであり、ストーリーを観た後にすじだてて説明できないと指摘します。しかし、ディテールが並外れてすごいために、あのシーンはすごかった、という形で語られやすいのだと。

映画は思いを“熱く”語るツールではなく、構造的なものとしてあるべきだ、それこそが本質だ、と押井監督は言い続けます。監督の力は映画に芯を与え、構造を作り出すことだと。

まあ、僕もいわゆる“ライブ感”みたいな創作論は胡散臭い眼で見てるんですが、ただ、押井監督の指摘に賛同しつつも、映画というか作品の“語られ方”って、結局はディテールに集中してしまうんじゃないのかしら。結局はあのシーン、あのキャラクター、という視点からなかなか僕らは抜け出せない部分がある。それは押井監督の作品ですらそうではないだろうか。ラストシーンから逆算してキッチリすべてをそこに落とし込んだとしても、あのラストシーン良かったね、というふうに語られてしまう。だからこそ、構造を志向する押井作品がなかなか理解されないということなんだろうけど。

僕がよく読むミステリにしてもそうだ。ミステリは結末を決め、そこから人物配置や手掛かりを逆算していく。それはひとえに結末を強烈に、鮮烈にするためだ。しかし、そえれゆえミステリは、こんな話だったね、という物語ではなくトリック、ロジック、衝撃の真相、そいう言ったディテールにいちいち還元されたうえで語られてしまいやすいジャンルである。これこれのトリックが、ロジックが、隠れた構図が、キャラクター性が、すごいorいまいち、というふうに。

そこでプロットを、構造こそを重視すべきだ、という声が出てくるのだが、僕らはどちらかというとディテールに快楽を感じやすい。そういう風に作品の受け取り方を形作られているわけで、げんに押井監督の作品は宮崎監督の作品の前ではちと分が悪い。(いや、僕は同じくらい大好きなんだけど)

まあ、小説の場合は、キングや宮部みゆきといった、ディテールよりも「物語」を強烈に感じさせてくれる作家だっているわけだし、映画についてだって全部が全部そうであるわけではないとは思う。ただ、そういう語りやすさに人は陥りやすい。そこには沢山の人との共感のしやすさや共有感という面も潜んでいると思うのだが、とりあえず眼につく印象的なものたちから一歩引いてみて、この作品はどんな物語だったんだろう、というふうにじっと考えてみる、そういう形の振り返りっていうのは、作品を感じ取るうえで、もっとやるべきものなのかもしれない。

しかし、宮崎監督のエプロン姿を「――職人のつもりらしく、自分でかなり気に入ってるみたいだけど、僕から見たらレザーフェイスだからね(笑)」というのはめちゃくちゃ笑った。なんだかんだである意味しっくりくる気がしないでもない。アニメ界のレザーフェイス宮崎駿。つよすぎる……。

誰かのために物語るということ:KUBO/クボ 二本の弦の秘密

 『コララインとボタンの魔女』で知られるLAIKA制作のストップモーションアニメ。とにかく、その緻密で滑らかなアニメーションがすごすぎです。コララインからめちゃくちゃ進化しててとてもコマ撮りで人形を動かしているようには見えません。映し出される世界も壮大で、特に引きのショットがすごいのなんの。冒頭の大波が割れるところもすごいし、クボから、彼が住んでいる岩山へとワンカットでグーとカメラが引いていくカットなんかどうやって撮ってるんだろうというような驚きに満ちています。この時代、どんな映像を観てもすぐCGが頭に浮かんでしまいがちで、もちろんこの作品もグリーンバックの合成なんかは使われているのですが、それでもどうやってこの映像撮ったんだろう、という興味が強烈に沸く。船での戦いのシーンやクボが三味線で折り紙を操るところなんて、そこだけのために映画館へ行ってもいい。この映画はそれだけの映像の驚きを持っている。質感もすごくて、水の表現とか神がかってます。猿の毛並みとかほんとすごいよ。

 まあまず制作の工程がヤバいですからね。公式ホームページを見ると、全製作期間が94週と二年ちかく、一週間で3.31秒。クボの表情パターンだけで4,800万通りという聞いただけで気が遠くなりそうな数字で、いくら3D プリンターが発達したとはいえ、驚きを禁じえません。メイキングとか見ても、めちゃくちゃデティールすごいのでそれを見てるだけでも楽しめること間違いなしです。

 この映画は日本を舞台にしているわけですが、外国制作にありがちな奇妙な不思議の国感――中国やオリエントとの折衷みたいなエキゾチズム感はほとんどなく、僕たちの日本とは正確には違うかもしれませんが芯を外したものではありません。盆踊りや精霊流しを含めたお盆の光景は、(おそらくそのチョイスにもよるでしょうが)どこか懐かしくすらあり、スタッフの綿密な取材ぶりがうかがえて唸ります。

  さて、とはいえライカのCEOにして本作の監督であるトラヴィス・ナイトはこのような技術はあたりまえとしてストーリーが命、と述べているわけなのですが、そのストーリーはどうなのか。僕自身の感想を率直に述べるとすれば、構成と演出は巧い、がストーリーはもう少し何かが足りない……という気がしました。もちろん悪くはないし、ラストは涙を流しました。綿密に作られているし良作ではあると思いますが、ストリーラインが直線的過ぎ、起伏がもうちょい足りない。武具集めにもう少し機智やクボの技、仲間との連携で切り抜ける場面が欲しい。

 一番気になったのは、何故クボが狙われるのか、クボの祖父の狙いは何なのかいまいちはっきりしないということです。クボの片眼を抉った理由とかも強力な理由づけが薄いし、目的がはっきりしないため、クボが最終的に戦うバックボーンがぼやけてしまっているように感じました。最終的に家族というテーマに収まりはするんですが、敵である家族(まあ、親族ですが)にもう少し描写が欲しかった。

 とはいえ、伏線や演出がいいので、題にもある二本の弦の意味が明らかになる場面とか、きちっと心をゆさぶる場面を作り上げてくれています。

 でも、僕が涙を流したのは、たぶんこの話が死者と物語についての「物語」だったから、いやむしろ物語についての物語だったことに他ならない。

「物語る」とは何か

 この物語は、「物語る」ということに非常に意識的だ。クボは三味線を弾きつつ物語を語る。しかし、母親から伝えられたその物語は聞く人々を夢中にさせつついつも途中で終わる。クボは結末を母から教えられないまま旅に出ることで、母が語る父ハンゾーの物語を追体験しつつ、自分自身の物語の結末――そのピリオドの打ち方を探すことになる。

 一方で物語るとは語るだけでなく伝える、という側面があることが強調される。何を伝えるのか、そこで出てくるのが死者である。クボの村ではお盆の時期を迎えていて、人々は死者たちを墓で出迎え、そこで彼らの話をきき、精霊流しを行う。物語る、ということは死者の生きた証を伝えていくということ。クボもまた、死者たちの列に入った両親を物語る存在として生きていく。生きるということ、それは誰かのために物語るということだ。

 クボの敵となる祖父、そして伯母たちは不死の存在、己で完結することを願い、祖父は己自身の物語を滔々と語る。それにクボは言うのだ「それはあなたの物語じゃないか!」

 自分自身のためだけに物語はあるのではない、とここで製作者たちは明確に宣言するのだ。物語る者は誰かのために語らねばならない。それが語り継ぐ、ということなのだ。

 物語は誰かから受け取った物に自分自身を乗せ、そしてそれをまた誰かへと受け渡していく行為に他ならない。クボは戦いの最後でこれまで探してきた武具ではなく、両親から受け取った“弦”をかき鳴らすことで勝利する。武具を捜す、というこれまでの物語は父の物語だった。その母から受け取った父の物語を追体験し、自分自身をその物語に乗せ、そしてクボは死者たちを見送る。その姿は感動的で、僕は涙を流さずにはいられなかったのだ。

 最後にクボの祖父は記憶を失い、己の物語を失う。そこで、村の人々が新たな彼の物語を口々に語り始める。そこは記憶を上書きしているようで少し怖かったりするのだが、それは物語の怖い側面でありつつ、祝福でもある。彼のために人々は語り、彼は人々のなかへと還っていく。

 自分自身のためだけに物語を語る人間のそれはとても貧弱だ。「物語作家」を自称する人間はそれに自覚的でなくてはならない。誰かのために、受け取った物語を誰かに伝えてゆくために。

混沌ではなく混乱 いまさらなQ

今更なエヴァQ評。

事前にいとっきますが、僕はそもそもエヴァンゲリオンという作品にいい感情を持ってません。そういうわけで、内容としてはネガティブなものとなるので、そのつもりで。

まあ、僕のいいたいことはここのブログで言い尽くされているんで、盛大な蛇足、という感じなんですけどね。テレビ~旧劇場版については伊藤計劃エヴァ評で事足りる。

koeru.jp

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q。二十年以上前に一世を風靡したアニメ、その今更やってきた映画の三作目だ。

あらすじとかは省略する。一応劇場で見てからだいぶたった。当時覚えた真っ黒い負の感情はそれなりに消えたと思い、久しぶりにDVDで観たわけだ。

うん、微妙だね、コレ。スゲー微妙。というか退屈な映画だ。四回ぐらい一時停止してスマホいじったりしてしまうくらい普通に退屈な映画だった。

いやさ、まず前提的な問題として、抽象的な世界でキャラクターが抽象的なことをくっちゃべってる――そんなの面白いわけないじゃん。しかもみんながみんなだぜ。賢ぶるのもいい加減にしろよ。

まあ、今さらエヴァの抽象的で思わせぶりな会話なんて真面目に聞くつもりなんてないから軽くスルーするとしてさ、アニメーション的な快楽ほとんどないよね。冒頭からいつもの手管だ。

作戦手順の段取りセリフとガンガンなるストリングをアニメーションに重ねまくるいつものやつ。前二作はまがりなりにも物語を重ねていってそのピークとして持ってきたわけだけど、今回はそれしとけば君ら気持ちいいんでしょ、とばかりにそれだけやる。しかも冒頭の宇宙シーンに続けてヴンダー発進シーンと二回も。

同じような戦闘演出続けて二回もするんですよ。そんなの普通に考えて面白くなるわけないじゃないですか。だいたい監督二度目のヤマトごっこのヴンダー発進シーンだけどさ、ネタ元のヤマトや一回目のオマージュであるナディアのネオノーチラス号発進シーンだってそのシーンに至る前提があるわけじゃないですか。敵の強さ、切迫した状況、それらをきっちり積み上げなければ、アクションシーンは光らない。しかし、見事に何もない。

そんなの分かってないはずがないと思うのですが、なんかもう自分が気持ちいいとこだけやる。別に段取り省いたってヤマトだナディアだとファンが騒いでくれるだろうってとこなんでしょうか。だとしたらひどく怠惰な演出だし、客に甘えるのもいい加減にしろと言いたくはなります。ていうか、その時点でもう内輪向きですよそれ。

あと、とにかく使徒に魅力が皆無。こいつらに何か面白いギミックやインパクトのある姿があるとまだましだったと思うんですが、そろいもそろってアルミサエル以下。敵の能力や姿さえも抽象的ってもうなにをかいわんやですよ。

ラストの戦いも何だかこれといったインパクトはないし、二人ならできるよって、何ができるんだ? みたいな。描写不足もいいとこで、ダブルエントリーとやらも効果的な演出や物語性を引き出せていません。使い捨てギミックって感じでなんかもったいな。

 で、ストーリーはどうかというと、いろいろチグハグ極まりないが、とにかく次の最後のために落とせるだけ落としとこうということなんでしょうか。というか、それが目的化しておかしなことになっている。話が一方的にお前のせいだ、というふうにシンジを追い詰めてるだけで、観客が納得するだけの理屈を持てていません。肝心なとこがあやふやで、シンジが取り戻したいものが何なのかすらよく分からなくなっている。だいたい槍を抜けば世界は修復されるとかふわっとしすぎだろ。ちょっとは疑えよ。

そういえば、シンジがショックで頭グラグラするシーンは演出に工夫がなさすぎでヤバいです。ああ、いつものやつ(の劣化版)ね、くらいにしか思えないんですよ。ほんとそこはヤバかった。

そもそも抽象表現にメリハリがないんです。テレビシリーズでは、いわゆる精神世界はシンジがエヴァの中にいる時に展開されるという前提があって、そこで舞台劇的な演出が繰り広げられる、という境界線がきっちり引かれていました。しかし、この映画の中では、そこのメリハリが崩壊してて、ゲンドウを前にしたシンジの横で誰が操作してるのか分からないスポットライトがカチカチレイやカヲルを照らしたりする演劇演出なんかが平気でなされるし、そもそもが書割じみた背景ばっかりで、画面全体が抽象世界でしかない。そんなんだから世界が崩壊したとかいう話も抽象的過ぎて嘘臭さしか感じないんですよ。夢かこりゃ。

「混沌からモノは生まれるが混乱からは、何も生じない」という言葉にのっとるならば、この作品は混乱でしかない。作ってる側のやむにやまれるカオスではなく、途方に暮れた混乱にしか僕には思えなかったし、監督しか、もしくは監督すら知らない作品世界にスタッフがついていきかねてるんじゃないかとすら思えた。

 あとさ、日本を代表する作画のスーパースターが集められているにもかかわらず、絵的な楽しさ、快楽が薄いってのもヤバい。ハッとするようなデザインや美術、シーンや動き、ほとんどないもんね。書くものがないのかオブジェが少なすぎて画面がのっぺりしてて、それがまたこの作品の貧弱さに拍車をかけてるし。それがあえての演出? 冗談言うなよ、だとしたらつまんないだけじゃん。何描くか、ビジョンをきちんとみんなで共有できてるのか? そういう疑念しかわかない。

とにかく作品そのものの 行き詰まり感がすごくて、前二作を繰りかえすような演出が頻出するんですが、土台にしてるんじゃなくて、ネタとして消費して縮小再生産してるようにしかみえません。そもそも序も破も内容的には貧弱じゃないですか。まあ、いってみればまだ芽みたいなもんで、それをきちんと育てるべきところで逆に引っこ抜いてネタにしてる。どんだけ行き詰ってるんでしょうか。

キャラクターについては、一応注目していたマリ、見事にエヴァキャラになりました。オメデトー。そしてさようなら。エヴァキャラじゃないからキャラ立ちそうだったやつがエヴァキャラになってどうする。

〈勝手もいいですけど、エヴァにだけは乗らんといてくださいよ! ほんまかんべんしてほしいわ……〉

このセリフだけはなんかしみじみ共感しました。シンジ君にじゃなくて監督に向けてですが。ほんと、勘弁してほしいです。

その昔、旧劇場版を観た時、中学生の私が感じた感想が、「監督、たいへんそうだなあ」だったわけですが、Qを観た時もそう感じたんですよ。その瞬間、何でオレはいつまでもこの人に大変だなあ、と思わなきゃいけないわけ? と思った瞬間、すべてがすーっと覚めていったのが今でも思いだされますね。

いやまったく、勘弁してほしいです。

バラエティなホラーとして

そう言えばちょっと前に『パラノーマル・アクティビティ』をようやく観たんですよ。ほとんど個人で作ったような超低予算映画で大ヒットしたというアレです。まあほんと今さらですね。

警察が押収したビデオテープ――そこには死亡した持ち主が遭遇した怪現象が納められていた……という体裁でリアリティを纏ういわゆるファウンドフッテージというやつで、『ブレアウィッチ・プロジェクト』や『トロール・ハンター』なんかが有名ですね。

本作は素人が寝室にセットしたビデオにエライもんが映っていた、という話で、内容的にはざっくり言うと、超低予算で撮った『エクソシスト』みたいな話でしたね。

カップルのうち、女性の方が小さいときから怪現象に悩まされていて、だんだんと悪魔に取りつかれていく……。天井裏でガタガタ音がしたり、半分乗っ取られてふらふら歩きまわったり、そしてついに完全に乗っ取られてニヤッと笑みを浮かべるとかですね、なんとなーくエクソシストを思い起こさせる演出で少しづつ盛り上げて、最後はバーン! という大オチで、そのオチの一閃にすべてを賭ける――その低予算らしい思いきりっぷりはなかなか成功していると思います。

内容はそんな風に低予算エクソシストって感じなんですが、この映画の画期的な部分――というか、何がミソなのかというと、たぶん撮ったビデオに移る怪現象を渦中にある人物たちが確認する――なんというか怪奇バラエティ的な要素(?)だと思うんですよね。

ファウンドフッテージ物って臨場感、つまりリアル感を大事にするわけで、手持ちカメラ持って怪奇現場に突入し、人物たちの喚き声の中、ブレブレの画面の中になんか映ってる、みたいなのが基本じゃないですか。しかし、そうすると、臨場感はあるのかもしれないんですが、肝心の画面に映る“何か”がよく見えなかったりして、それが恐怖に繋がるというよりは、よく分かんないもので映像の中の人物たちがギャーギャー言ってるだけで、こちらは白ける、という結果に陥りがちです。

そこで、この作品ではカメラを二つに分けて、手持ちカメラの人物視点、そして自分たちが寝ている寝室に設置する定点カメラの視点という二つの視点から怪現象をとらえることにしています。特に定点カメラ、というのがキーになってます。

まず、定点カメラでじっと見ていると、明らかな怪現象が映りこんで、それを寝ている作中の人物たちに先んじて目撃してしまう――それによって、ホラーでよくある、何も知らない登場人物たちに危機が迫って“後ろ、後ろ!”ってやつの緊張感。そしてそれは定点カメラによって視点が動かないことが観客にとって動けないという感覚となり、怪奇現象をじっと見る、というか見せられることになります。

そして、次に人物たちが目覚めて定点カメラを確認し、妙なものが映っているのを見て戦慄する様子を見る、という二段構えな演出になってるわけなんですよ。

 このように視聴者は事前にわかってて、それから人物たちのリアクションを見る、という要素ってなんだかバラエティ的な気がしたんですね。自分が分かってる出来事を人が恐怖している様子を見て楽しむ、そういう感覚はどこかテレビ的な感覚で、言ってみればドッキリっぽいのかな? まあ、とにかくそこがファウンドフッテージ物でありながら、ちょっと新しい感じがしたところだったように思いました。

とりとめもなく、いまさらな話。

ここ数日、ライムスター宇多丸×辻田 真佐憲の動画漁って深夜にゲラゲラ笑っていた。戦時中の童謡や軍歌、大本営発表と辻田氏の専門領域の話がめちゃくちゃ面白く、そして笑えてしょうがないのだ。軍歌の世界とか全然知らなかったので、面白い話が満載であったし、なかでも決戦盆踊りの題名のインパクトはZ級映画のそれに匹敵するし、防諜音頭成る珍妙な軍歌もまた笑える。

もうほんと、笑うしかないのだ。その最たるものが大本営発表のムチャクチャさで、そのあまりにもあんまりな内容には乾いた笑いしか出てこない。酷すぎて、真に受ける人間は戦争末期になるとほとんどいなくなるたらしいのだが、沖縄戦前に北大東島に渡り、そこで硫黄島二宮和也ばりに塹壕堀にいそしんでいた祖父は、それでも勝利を信じていたのらしいのだから、なんともいえない。笑えねーが、笑うしかない。そういう話だ。

ただまあ、大いに笑うには笑ったが、なんかそのシステムというか、ドツボにはまるメカニズムが、あんま変わってないぞ、と。そのどうしようもなさの地続き感というのは確実にあって、そこもまた笑えない部分である。

まあとにかく、辻田 真佐憲氏の話は面白かったので、『大本営発表』と『文部省の研究』は買ってきた。楽しみである。

 

そういえば辻田氏を知ったのって、以下の一部で悪評高い(?)シン・ゴジラ評でであった。

gendai.ismedia.jp

このシン・ゴジラ評だが、自分の中にあったこの映画に対する乗りきれなさ、なーんかヘンな感じ、というのをかなり具体化した形で文章にしてくれていて、僕としてはかなり頷くところが多かったのである。

しかし、この文章は燃えた。本人曰くゴジラが上陸した東京のごとくということだが、正直そこまで燃えるようなことかというか、この映画の一部の神格化は僕にはちょっと異様に思えるということをなおさら強化することになった。

この映画にちょっとでも現実的な観点から批判的な(だと彼ら信奉者が感じる)ことを言うと返ってくる常套句――現実と創作を区別しろ――これはとても甘ったれた言い草で、扱ってる題材が題材なだけに現実的な観点や政治的な視線にさらされないわけがないと思うのですが。しかも現実対虚構というキャッチフレーズぶちあげてるタイトルじゃないんでないの、と思うわけなんですけどね。“現実”とは関係なくボクら楽しんでますよ、てのはひどく自堕落なものに僕の目には映るわけです。

ていうか、一番思ったのは、辻田評を批判する多くの人間がもしかして辻田評が指摘している幻想性――儚い願望を飲み込んだうえで楽しんでいるわけではないのでは、という疑惑が浮き彫りになったんではないかと。つまり、“あえて”そう観ているのではなく、 “マジ”で観ているということなんだろうなあと、そう思ったんですね。

マジで俺たちはまだまだやれる、上のやつらが一掃されればすべて丸く収まって一丸となって事に当たれるようになる――そう思っている人間が多いのかな……。というか、そういう中間層にピタッと嵌ったのかなあ。

はっきり言うとこの映画の“願望”はかなり危険だと思うし、この国の、自分たちの“底力”とやらを疑う視点を失うとエライことになりかねないよ、と僕は思うんですが。

なんだろう、この映画を絶賛する層は「ボクらには秘めた力がある」という誘惑から距離を取り切れてるのかな、というまあ、余計なお世話かもしれませんがそういう危惧ですね。

なんだか、とりとめのない話からグダグダした今更なシン・ゴジラ評になりましたが、まあ、なかなか書けなかった私のスタンスを表明したところで筆を置いときましょうか。

追:レビューで危機は日本を成長させるとかマジで書いてるのを見ると、本当に危険な映画だと思います。

ブレードランナー2049 感想 :パンドラの箱に残った“希望”は誰のものか

ネタバレなし感想とかめんどくさいんでネタバレ全開でいきますからそのつもりで

というか、観てないとあんまりわかんないかも。あらすじも略。

 

 

 

 

 

 

初日に観てきてすごい良かったのもあって、ようやくというか、開設したもののほとんど放置してたブログに感想を書くという気力が湧き上がってきたと言いますか。それでももう5日ぐらいたってますが、そこはそれ。

 

とりあえず、ざっくり結論から。

ブレードランナー』――説明不要の名作カルト映画の続編にして、その陰画とも言える映画に、この『ブレードランナー2049』はなりおおせた、といってもいいのではないでしょうか。

とにかく、続編として云々、比べてどうだとか、テーマが、結末が、とかそういう些末なことはブン投げて、映画を観る喜びの一つ――その時間と空間にひたすら浸る――に満ちた映画でした。抒情的――というのは前作もそうではありましたが、このブレードランナー2049は、前作を動とするなら静といっていい、そのひたすら静謐な画面の中に抒情性を溢れんばかりに納めた映画となっています。

 

冷え切った未来としての30年後

この作品は前作『ブレードランナー』の世界観を忠実に再現しつつも、30年の時を推し進めた姿を描いてます。その時の経過が顕著な形で表れているのが、猥雑さの後退であり、画面にはひたすら静謐な退廃の姿が描かれていきます。前作『ブレードランナー』は暗い暗い、とはさんざん言われてはいましたが、それでもその昏くよどんだ世界の下で人間の猥雑な営みが喧騒と共に描かれていました。人々はけだるげながらもタバコを朦々と燻らし、女を抱きながら酒をかっくらい、淫靡な熱気をいまだ発している――そのくらいには、人類というものが熱を帯びていたのです。

 しかし、30年後には煙草を朦々と燻らせる人物もいませんし、酒は享楽に浸るためというよりは、何処か孤独の慰めのように人物たちは杯を干します。

どこか寂しく、熱の冷めた世界――それは冒頭のワンショットですでに提示されます。前作『ブレードランナー』の冒頭――あの有名すぎるランドスケープは炎を吹きだす石油コンビナート群がどこまでも続いていく風景。

対して、今回は整然と並ぶ冷え冷えとした太陽光パネル――人類はすでに化石燃料を使いつくしたのか、雲に覆われた空からそそがれるわずかな光をかき集めている、そんな世界。そして、主人公は喧騒の街のなかに佇むのではなく、枯れ果てた木が一本立つ寂れた農場に降り立つのです。

 まさに死の天使といった趣です。新型のネクサス9である主人公が旧型のネクサス8を狩る。レプリカントレプリカントを狩る、という構図は前作のデッカードレプリカントか? という曖昧さではなく、はっきりとした形で提示され、同族狩りというより陰鬱な意味合いをくっきりと浮かび上がらせます。

旧型の同族を“解任”した彼はそこで、木の根元に埋まる箱を発見するわけですが、まさにそれはパンドラの箱といっていい代物だったわけです……。

この映画は、この箱から始まり、箱で閉じる円環構造を持っています。そしてこのパンドラの箱には文字通りの災い、そして希望が残ることになるのです。

しかし、ここにはものすごい捻じれが潜んでいます。彼が発見した箱の中には災いが潜んでいるが、その災いは人類にとってであり、希望はレプリカントにとっての希望――という単純な物でもない。

まず、災いは人類といってもすべてではなく、地上に取り残されている人間にとっての災いなのです。要するに、それを災いと言いたてるジョシ警部補を代表する地球残留組にとってでしかなく、ウォレスに代表される地球を捨てた富裕層にとっては自身をさらに宇宙へと拡張するための福音――ギフト――である。そして同時にレプリカントたちにとっての福音でもある。もちろん違う意味で、ですが。(ただ、希望一辺倒としてレプリカントたちは捉えていますが、もしかすると彼らにとっての災いになる可能性も十分にある。希望は絶望と表裏一体という意味で)

 

“箱”の物語

この映画は、この“パンドラの箱”を代表とするように、入れ物、のイメージが横溢しています。あとで述べますが部屋や都市、スピナーといったものが、箱や抜け殻、卵の隠喩として頻繁に出てくるものとなっているように思います。

この物語は基本的に入れ物に納められていた人形が自分の意志で外に出る、という物語です。それは主人公のKしかり、AIのジョイしかりで、人間もまた地球という箱を出たがっている、という意味ではそうなのだと思います。

部屋は明らかにKにとっての箱ですね。自室や任務を終えた後に入れられる検査室、それからスピナー、どれも彼をネクサス9という“人形”たらしめている箱だ。そして彼はそこから出ていくことにする。製品としての人形ではなく“特別”であろうとするために。

それはジョイもまた同じで、コンソールから消去され、それまでいた“箱”から出ることで製品としてではなくKにとっての取り返しがつかない“特別”へと成るのです。

もう一つ重要な箱――入れ物は都市です。そしてこれは人間にとっての入れ物である。Kが希望を求めて赴くラスベガスは、人間の抜け殻として描かれます。都市に足を踏み入れたKがまず出会うのが予告で印象的な人間の像の頭部――その張りぼてが露になっている――であることで明らかでしょう。膨大な過去を抱え、打ち捨てられた都市はかつての人間たちの抜け殻だ。しかし、その後Kが遭遇する生命――蜂によって希望の地でもあることが暗示されてもいます。誰にとってなのかは分からないが――。

抜け殻の都市は人間がいよいよこの星を去ろうとしている、そんな気配をどことなく感じさせます。この作品の人間たちは、どこか“人間味”のようなものを欠いた、映画を観る我々とは何か違うモノのようにも思えます。ウォレスがその代表格といっていいでしょう。彼はどこか半神半人といってもいいような、人間が“神”へと近づいているような予感を感じさせます。造物主たちはいずれ去り、残された被造物たちの世界が、人間の抜け殻となった世界で新たに芽吹くのではないか――そんな気もしました。

 

特別とは何か

自身の植え付けられたはずの記憶が現実であり、自分は作られたのではなく、レプリカントから誕生した特別な存在なのではないか? そんな疑惑が芽生え始めるKですがしかし、最終的には自身の”特別性”――特別な存在であることを否定されます。ただあるだけでは特別ではなかった。しかし、それでも特別であることはできる。製品であるジョイがKにとっての特別となったように、その意志と選択が“個”を特別にする。

 冒頭の太陽パネルやウォレス社のデータバンク、スキンヘッドの子どもたちといった所々で挿入される、同じものがたくさん集まった集積回路のような画は示唆的です。そこにあるだけでは特別ではないのです。Kは反乱分子たるネクサス8の残党から与えられた任務――デッカード殺害を拒否することを選び、最後の戦いに赴きます。

 

Kと対になりつつ、交わることのない完全な鏡像たるレプリカント、ラヴとの最後の戦いもまた寓意と隠喩に満ちています。まず、場所である海。これは新たな生命の誕生を。さらに、スピナー――デッカードが囚われていたどことなく丸っこいフォルムのそれは卵を思わせます。そして卵の中で戦い、勝利することでKは産み直される。レプリカント同士が戦う場所が、人間たちのいる都市と海を隔てる巨大な壁の向こう――人間たちの外で行われるというのもどこか示唆的です。

すべてが終わり、最後の最後にデッカードは言いいます「君にとっての私は何だ?」

K――ジョーは答えません。デッカードがKにとって何であるかではなく、デッカードにとってKはジョーである――それで十分なのだから。

彼に降りしきるのは雨ではなく雪――その思いを流れるのではなく止めるように。

 

デッカードが天使ジョンに導かれた先にある箱には希望が残っていた。しかしその箱から取り出せない希望はレプリカントたちやウォレスら人間が期待するに値する希望なのか。それは分からないにせよ、一人の天使にとってはそうであったのだ。

 

夏の夜に怖い映画を~観るはずだった夜 『エクソシスト2』という怪現象

 

夏の夜なんだし、怖い映画を観たいな~と、『エクソシスト2』を観ました。

そして視聴後……

f:id:kamiyamautou:20170807040539g:plain

………………とりあえず、このAAを貼りたくなりました。

ホント、どうしてこうなった……何とか言ってよブアマン!

いや、監督があの「ザルドス」のブアマン、という時点で訝しむべきだったのだ。

本作は、多くの人を恐怖のどん底に沈め、一世を風靡したホラー映画のキング・オブ・キング、あの『エクソシスト』の続編だ。暗く、硬質な画造りと緩急のついた恐怖演出で、ジワジワと悪魔が表出してくる硬派な恐怖映画であり、そしてなにより、抜群にカッコイイ画面が印象的でもあり、私のホラーに対するイメージを変えてくれた作品でもあるあの『エクソシスト』。

その続編は、まことに珍妙な映画と化していたのでした。

映画のパート2というと1作目がヒットしたことによる潤沢な予算からパワーアップする、というのがセオリーである。ターミネーターやエイリアンが代表的だが、その場合、一作目の良質な部分――ウケた部分を拡張する方向性が顕著だ。

当然、『エクソシスト2』もその拡大路線を踏襲している。しかし、問題はそのお金のかけ方が妙な方向へと向かっている、とういことだ。

エクソシスト』の大きな要素の一つとして、少女の変容がある。悪魔に取りつかれ、無垢な少女が文字通り悪魔になっていく恐怖。その特殊効果はかなり印象的だったはずだ。今回はどのような特殊メイクが炸裂するのか、悪魔による超常現象はいかなるものか、観客は期待する。

しかし、しかしだ、監督の興味は何故か恐怖演出ではなく、神父のアフリカ大冒険へと向かっているのだ。大規模なセットやエキストラ、という方向にお金が使われているのが分かる。なんかあまり意味のない空撮、ラストは家が真っ二つになる。なるほど派手だ。しかし、それは何ら“恐怖”には貢献しないどうでもいい部分なのだ。

そしてこれでもかと強調されるのが“蝗”である。悪魔といえば、蝗――アバドン、ということか、ブアマン。とにかく蝗がやたらと出てくる。少女に取りついていた得体の知れない悪魔が、蝗、という形をとるのが『エクソシスト2』なのである。 蝗に具象化された悪魔は正直言ってあんま怖くない……どころかどこか間抜けな空気すら漂う。蝗視点というか、蝗の背中越しの主観カメラがやたらと出てきて、それがまた緊張感を著しく奪う。

この映画はいったい何なんだ……全体的に緩い空気が漂いだすと、もうダメだ。やがて立ちのぼってくるのはシリアスな笑いである。シュールというか、脱力気味の笑いが浮かび上がり、実際ラストのリーガンの家に母親を乗せたタクシーが突っこむシーンから笑いがこらえられなくなっていた。大量の蝗が飛び交う中、リーガンがかつてメリン神父により悪魔の憑依を退けた少年コクモの悪魔祓い(というか蝗払い)を再現するシーンはあまりのシリアスな笑いっぷりに爆笑必至である。

というか、そもそもどんな経緯でブアマンに監督の鉢が回ってきたのか、メリン神父の死の真相なんかよりそっちの方がよっぽど気になる映画、それが自分にとっての『エクソシスト2』であった。あの『エクソシスト』がこんなことになるなんて、それこそ怪現象としか言いようがなく、背筋が寒くなることもなく、じっとりとした暑さの中、唖然としたまま、夜は更けていったのであった……。