蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

島田荘司『セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴』

セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴: 名探偵 御手洗潔 (新潮文庫nex)

セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴: 名探偵 御手洗潔 (新潮文庫nex)

 なんとなく再読してみようと手に取って、なんだかあっという間に読んでしまいました。御手洗シリーズといえばの強烈で奇天烈な謎、というものではありませんが、奇妙な発端から、次々と御手洗に導かれるようにして意外な出来事がテンポよく繰り出されて、その展開の仕方がすごくよくできた作品であると思いました。

 あと、クリスマスと貧しい少年少女という題材が島田荘司は好きですね。「数字錠」や『鳥居の密室』など、御手洗は基本子供にやさしい。

 ミステリの流れと少女の境遇、それがセント・ニコラス⁼サンタクロースの形で集約されて、構成的にも無駄なくすっきりした感じの秀作になっていると思います。

 ホームズ譚っぽさが色濃い感じもあって、島田荘司シャーロック・ホームズへの傾倒なんかもうかがわせますね。

 しかし、やっぱ巧いですね。迷惑な感じの訪問者のおばあさんから世間話的に語られるちょっと妙な話を発端に、あれよあれよと事態が進展していき、石岡と読者は胸まであるゴム長と釘抜をもって下水管の中にいる。それで事件解決かと思いきや、事態はまた二転三転してゆくわけで、その緩急のつけ方がすごく巧い。新たな事件をどういう形で読者の前に出し、そしてそのためには探偵にどういうふうに語らせるのか、又は語らせないのか。その情報操作の巧さというのも結構よく見える作品ではないでしょうか。

 それにしても、ある種迂遠ともいえる犯罪計画を軸に、このような名探偵の冒険物語に仕立て上げる著者の力量というか、構成力に改めて感心した次第でした。オオネタのトリックを魅せつつそれを煙幕にしてたり、そのへんも良いですね。

詩野うら『偽史山人伝』

偽史山人伝 (ビームコミックス)

偽史山人伝 (ビームコミックス)

 『有害無罪玩具』に続く作品第二集。こちらも著者が自身のサイト「チラシのウラ漫画」で公開していた作品+書下ろしとなっています。今回は、日常に挿入される非日常な風景というか存在を語りつつ、そのことについての認識論的なテーマが通底してあるように思います。それが存在するという私の認識、意識とは何なのか、という問いかけに読者を誘うような作品が収められています。どれも面白いので、ぜひ手に取ってほしいです。また、これを読めば『有害無罪玩具』収録の「金魚の人魚は人魚の金魚」に登場するキャラクターが把握できて、より深く著者の宇宙を感じられると思います。

 それでは、各短編の感想を。

※話の詳しい所まで言及しますのでそのつもりでお願いします。

「日曜は水の町に」

 鏡や水面に移るもう一人の“私”と顔を交換した私。隣の席の好きだった少年から見て傷のない側を見て欲しい、そんな今となってはどうでもいい理由。しかし、交換してから私はその好きな子に何かするというわけでもなく、交換したまま12年の歳月が過ぎ、いつしか向こう側の“私”を見ることができなくなっていた。

 向こう側の“私”はかつての私。私を見ないように目を逸らすのはかつての”私”。左右対称の顔の傷、というギミックを用いて「私」についての揺らぎを見つけてゆきます。同じようで違う、違うようで同じ、そんな「私」の感覚。

「人魚川の点景」

 フラスコに入った人魚を見つけた高校生とその親友のお話。収録作では一番登場人物についての物語性が高いように思います。

 佐々木が、見つけたフラスコの人魚に執着するのは、その人魚が、粗大ごみであふれた川、そこでむやみに稚魚を放流したという事実、そしてその人魚を見つけた時の「こんなの見たことない」と思った自分を担保しているからだ。人魚が死に、埋めてしまえばそれっきり。それまでのことが無かったことになるような感覚に抵抗するように、佐々木は「フラスコの人魚」をホルマリンとエタノールで「固定」する――そうあった風景も事情も自分の気持ちも。そして、佐々木はその後自分の手で川のゴミ拾いを行い、「フラスコの人魚」にあった背景を消してしまうが、そこには新たな人魚の点景がまた一つ生まれるのだ。

「人間のように立つ」

 体の真ん中に穴が開いた水川とその友人、土倉が彼女に抱くふとした恐怖の感情を描く。

 今まで何も感じなかった水川にこれまでとは違う感情が忍び寄る。そのこれまでと違う「私」とは、何か。土倉が抱く恐怖のその瞬間を、水川の胸の穴を通して描く。彼女の恐怖の根源とは何なのだろうか。彼女はそれを背徳感と自分の中にある感情――罪悪感のような何かではないかと思う。

 背徳感はその水川の穴に手を入れるという行為だろう。水川は急に自分の穴に手を入れ、その先の橋の欄干に置かれたリンゴを取るように言う。言われたとおりにした土倉を触る水川。もともと穴が開いていない服に彼女が着ることで穴が開くように、彼女が触れ、その魂の一部になれば穴が開く。それは、自分の魂の一部にならないか、という誘いであり、かなり露骨なメタファーであることは明らかだろう(まあ、穴を通してリンゴ(生命云々のメタファー)をつかむのは見たまんまですし)。結局は服のようにはいかないのだが、そんな「私」の一部にならないか、という唐突な誘いが土倉の背徳感の根源だろう。

 ではもう一方の土倉の罪悪感のようなものとはなにか。それは恐らく中学生の時に死んだ六本腕の少女らしいことが示されている。直後見る土倉の夢では、橋の上で恐怖を覚えた瞬間――水川の穴に手を入れてリンゴをつかむ彼女たちの下、その六本腕の少女の死体が流れている。また、以前水川がそのクラスメイトについて尋ね、土倉が彼女の死を告げる場面では、川の死体を橋から眺めている土倉が描かれる。それ以上のことは分からないが、その時の罪悪感の延長が水川に覚えた恐怖に繋がっているのだろう。(※これはあくまで私個人の空想にすぎないが、六本腕の少女は自殺したのであり、それが土倉に対するある種の感情によってであって、それこそが土倉の罪悪感の源ではないか。もっと言うと、その感情を今度は土倉が水川に覚えたからではないか)

 背徳感と罪悪感とで変質してしまった「私」は水川にどう向き合うのか、その反応を彼女は決めなくてはならない。

「姉の顔の猫」

 死んだ姉の顔を擬態する猫とそれを拾った双子の妹の話。「日曜は水の町」にと通底するテーマを扱っている。姉と「私」の違いは目元のほくろの有無でしかない。この作品の世界では哺乳類は死んだ人の顔を盗める。しかし人間は猫ほど上手くなく、死者の肉を食べなくてはそれができない。つまり、人の顔をした猫を食べれば、猫が擬態した人の顔を引き継げる。妹である私は姉の顔をした猫を食べることで、自分の顔にほくろのついた姉の顔を引き継ごうとする。

 私は姉が死んだ実感がない。そんな自分は死にゆく姉の顔を見て、“私”が死んでゆくように感じていた。姉の顔を引き受けることで、なにかが変わる期待感がなかったわけじゃない。しかし、やはり日常は淡々と過ぎ、今度は私が捨てたはずの“私”の顔をした猫を拾い、しかしもう猫を食べることなく、姉の顔をした私は“私”の顔をした猫の死を看取ることを決める。

 同じ顔をした他者が死にゆくとき、「私」というものはその同じ顔だという認識を通してその他者ではなく、「私」の死を体験する。そうすることができなかった姉の代わりのように、姉の顔で「私」の死を看取る時、「私」はなにを思うのか、はたまた何も思わないのか。

「現代路上神話」

 これもなかなか一筋縄ではいかない話というか、「在る」という認識についてのお話。人が認識することで存在する、又は存在しない神たちについての話が、道の神、ガラスの神、水たまりの神……というふうに次々と語られてゆく。また、それらの神はこの漫画によって読者が認識することで創造されるという仕掛けが外側にしてあって、さらにはこの漫画もまた、あるメモ紙、そしてメモ紙は手帳に依っていて……。

 それを認識することで存在というものが立ち上がる、ということについて執拗に描かれた一編。個人的にはこの作品が一番好みかもしれない。

偽史山人伝」

 山人(やまびと)という存在を、執拗なほどのディテールで、その存在を浮き上がらせようとする壮絶な一編。様々な目撃談や研究資料から山人の性質、人との関係を多角度から綿密に描く。文献の引用や注釈が、さらに事細かに山人についてのディテールを上乗せさせてゆく。そこに描かれるのは、人間が山人をどう認識して来たのかという歴史に他ならない。そしてそれはなかったことになっている。

 なかったことになっているかつて存在したもの――。存在しなくなり、その記録もなくなって私たちがいずれ認識しなくなれば、それはもともと「無かった」こととなる。そうして「偽史」は生まれるのだ。

「存在集」

 書下ろし。こちらもまた、認識や存在についての興味深い話がザクザク。掌編だが、多彩。しかし、通して読むことで、一つの大きなお話のような感慨もある。

 

 最後の最後まで、徹底して認識を問い、この漫画を読む行為にまでそれは及ぶ。それは、「私」がぐらぐらする一種の体験だ。次は果たして著者はどのような作品を紡ぐのか、今から楽しみでならない。

十階堂一系『赤村崎葵子の分析はデタラメ』

 

赤村崎葵子の分析はデタラメ (電撃文庫)

赤村崎葵子の分析はデタラメ (電撃文庫)

 

  日常ミステリで多重解決ものとして挙げられていたのを目にして、手に取ってみました。これはかなり面白かったですね。具体的なネタバレはしない形で語っていきますが、構成などには触れるため、まずはなにも予断なく読んでみた方がいいと思います。

 面白いのでとりあえず手に取ってほしいですねーーオワリ。

 

 

 

 

 この作品は、分析部と称して日常のちょっとした出来事に対して“分析”を行う赤村崎葵子とそれに付き合わされる加茂十希男という高校生コンビを中心としたいわゆる日常の謎ミステリなのですが、その事件に対する推理――“分析”が何とも言えないあやふや感をかもしだしているのです。というか、タイトル通り、赤村崎葵子が行う“分析”をはじめとし、この物語におけるいわゆる推理は、その真実性に大きなグラデーションがある。まず、葵子の推理は、ほぼほぼ真実にかすらない。

 最初の話、十希男の靴箱にラブレターらしきものが紛れ込んでいた事件からして、正直「探偵」という役割すらこなせていない葵子の推理というか分析は、すぐに想定される説を長々と遠回りしたにすぎず、続く第二話、第三話でもトンデモ方向に突き進んだ分析を披露し、それはタイトル通りの“デタラメ”ぶり。

 その一方で、十希男はチャットで「ヴィルヘルム」なる人物から各事件の「真相」を解説してもらいます。では、そこでの推理が事件の完全解答なのか、というと最後に付け加えられた、キャラクターが出てくるあとがき風Q&Aによって更なる解説が加えられ、一部は更新され、さらにはヴィルヘルムがとらえきれなかった側面が浮かび上がってきたりする――三重底とも言っていい構成となっています。

 十希男の前でデタラメを並べ立てる葵子も、ただの分析好きの道化なのかと思いきや、真実の一端を捉えつつ道化を演じているような側面を見せたりして一筋縄ではいきません。自身をテルと名乗り、「ヴィルヘルムがささやいている」とときおり独り言を漏らす彼女はどこまで真実を見抜いているのか。どの“分析”も名探偵のそれとは異なり、すべてを説明しつくすのではなく、それぞれの拠っているところからの分析は、情報の偏りなどもあり見えない個所もある。よって最終的な形を浮かび上がらせるのはそれらを俯瞰できる「読者」というわけです。しかし、それも果たして十全なのかという問題は残る。

 そんなわけで、推理というものの多面性やグラデーションについて意識させる物語の組み立て方や登場人物たちの役割など、とても面白いものがありました。個人的には第二話が結構好きですね。事件の真相だけではなく、テルのデタラメみたいな行動の裏に隠されていた彼女の思い(しかし、これは最後で疑問符がつく)。テルの思いをそのように分析した“彼女”の思い。それが最終話に繋がってきていて、上手いなあと思わされました。

 三話も面白くて、犯人の条件を示したうえで特定をぼかして終るのですが、その犯人の条件はよくよく読み返しても見当たらず、最後のQ&Aで判明する犯人について、事件の流れは解明できていても、結局は犯人を外していたことが分かります。この事件は単独で起こっているのですが、テルをはじめラブレター事件にとらわれすぎていて、一連の流れであるとバイアスがかかっていることで、犯人が財布を盗んだ理由*1をラブレター事件と関連付けてしまい、肝心な犯人が間違ったままというのは面白いです。

 テルと三雫の大切な人の存在がちょっと唐突っぽかったり、主人公のポリシーと彼の本質についても同様だったり、最終話で急性にまとめたようなきらいもありますが、全体的にはかなりよくできた日常の謎を“分析”するミステリだったと思います。著者には創元あたりで再び青春ミステリを書いてほしいです。その辺、編集者さんに期待したい。

*1:(Q&Aで明かされる理由はかなりしょうもないが、財布についての証言が実のところ犯人特定の“秘密の暴露”であったところが見事)。※ネタバレで白くしてます。

アニメ『押絵ト旅スル男』

 ここ連日めちゃくちゃ暑いですね。アツいアついあつい……白くとんだ視界、ゆらゆら揺れるは蜃気楼……というわけで「押絵と旅する男」について、ではなくアニメ作品の『押絵ト旅スル男』についてです。(なんかえらい無理矢理な導入ですが、日常的なフリから入るやつやってみたい気分だったんです……)

 『押絵ト旅スル男』は、江戸川乱歩の短編「押絵と旅する男」を原作とした短編アニメーションです。監督を務めた塚本重義氏はフリーのアニメーション監督として、自主製作の短編アニメを多数手がけています。氏の作風は公式ページである『弥栄堂』

iyasakado.com

 こちらを見てもらえば分かると思うのですが、徹底したレトロ趣味で貫かれ、好きな人にはこのページを見るだけでもたまらないものがあると思います。制作された作品がYouTubeニコニコ動画などにも多数公開されていますが、とりあえずは10分ほどの短編作品、『端ノ向フ』を見てもらうのがいいでしょう。

www.youtube.com

  このどこか暗がりを帯びたレトロな世界観。それが、乱歩の世界とあわないはずがありません。氏の作風が気に入れば、彼が描く「押絵と旅する男」も気に入ると思います。※文学作品を原作としたものにはこの作品の他、太宰治の「女生徒」もあります。

 この『押絵ト旅スル男』は9分ほどですがかなり巧くアニメーションになっています。謎の語り手の老人、浅草十二階、八百屋お七の覗きからくり、そして妖艶な押絵の少女――。それらの主要な要素を一つの見世物小屋の中に配置するようにして、観る者をその迷宮の中に彷徨わせます。一方で原作と決定的な違いがあって、それは原作の冒頭にある、主人公が老人と出会う動機となる蜃気楼という存在、そして出会う場所である汽車。一番大きいのは蜃気楼という導入が省かれている点でしょう。

 舞台は汽車ではなく、東京を走る電車。押絵を持った老人に招かれる形でそれに乗り込む男。やがて、老人の話は兄を追いかける弟の話になってゆく。弟は十二階で兄を見つけ、兄がそこから双眼鏡で覗いていたものを知る。語り手と聞き手、兄と弟、それらがいつしか茫洋とし、溶けるようにしてこの見世物小屋のような世界を永遠に彷徨う。そんなテイストに仕上がっています。香具師の口上がいつまでも、いつまでも響いているような、そんな永遠の見世物小屋。アニメだからできる、からくり仕掛けの様なその世界は好きな人にはたまらないものがあると思います、予告を見て気に入ったのならぜひ。

 監督は今現在クラウドファウンディングでオリジナルアニメ『クラユカバ』を制作中。そちらも楽しみですが、ふたたび乱歩作品のアニメを手掛けてくれないかな、という希望もあったり。


梶裕貴、細谷佳正出演!新作アニメ『押絵ト旅スル男』30秒予告

島田荘司を読んだ昔、そして今。

 今回は自分にとっての島田荘司ということについて語っていきたいというか、書き留めておきたい。というわけで好き勝手語っていきますよ。

 島田荘司という巨大過ぎる作家の作品を私が読み始めたのは、新本格ミステリ、中でも二階堂黎人有栖川有栖法月綸太郎といった作家を読み進めていくうちにその名前が次第に意識されていったからでした。本屋に行けば、その著者のコーナーーー講談社文庫の黄色い背にはずらりと魅力的なタイトルが並んでいるではないですか。

 いったいどれから読めばいいのか、迷いながらも比較的薄い物を――と思いつつもそのタイトルの言葉に惹かれ、手に取ったのが『斜め屋敷の犯罪』でした。日本の最北端に建つ文字通り傾いだ屋敷、そしてそこで次々と巻き起こる奇妙な出来事とついに起きる殺人。完璧な密室殺人に困惑する刑事たちの前に現れる、奇矯な占い師を名乗る名探偵。立ち上がるゴーレム! そして明らかになる驚愕の密室トリック。あの伝説となっているトリックは、日本はおろか世界の密室トリックの歴史の中に大きな位置を占めるのは間違いないでしょう。

 奇妙な建物とトリックがここまで有機的に結びついた例は中々ないですね。時々、特殊な舞台だからトリックがすぐわかるとかいう賢しらぶってマウンティングしてくるバカがいますが、その発想の凄さが分からないなら、永遠に作者との“知恵比べ”とやらをして俺の方が賢いとかやってればいいです。お前は別に賢くなんかない。

 ……まあ、少し取り乱してしまいましたが、とにかくこのトリックは強烈でしたね。最初に原理を聞いたときはえ、それだけ? みたいな感じなんですよ。この作品についてそういう反応が大したことない、というニュアンスとともに言われたりするように、原理だけ要約すると超シンプル。しかし、それが御手洗のあのセリフ、ただそれだけのために――という言葉の通り、その巨大な事実と結びつくことで読者の脳みそをぶん殴るのです。このトリックはなぜ強烈なのか。島田荘司の作品が示すのは、シンプルであるということが大事であるとともに、トリックというものはいかにしてそれを語るのか、ということがより重要であり、島田荘司という作家はそれがとんでもなく卓越した作家であるということなのです。

 繰り返しになりますがいかに語るのか、というのがトリックの醍醐味でもあるのです。トリックはなに? 答えを知って大したことないね、というクイズの答えの良し悪しをはかってやろうという読み方では、トリックやそのミステリを十分には楽しめない。トリックというものをいかに語るのか、というのがミステリ、特に本格ミステリが形作る物語の一側面である、と言ってもいいのではないでしょうか(ちょっと大きく出た感じではありますが。まあ、あくまでも一側面です)。そこを意識して読む……とまあ、正直わざわざ言う必要もない話ではありますが。

 ……ちょい説教気味&わき道にそれ気味なので修正です。とにかくこの作品から、『占星術殺人事件』『異邦の騎士』と読み進めていきました。『占星術殺人事件』はあの『金田一少年の事件簿』にトリックを流用されていたことを知っていて、トリックを知っていたのにもかかわらず面白く、二回も挿まれる読者への挑戦、そしてそのカタストロフにドキドキしたものでした。一方の『異邦の騎士』は何も知らないこともあって、よけいその真相に驚きつつも涙ボロボロでした。

 そんなわけでハマりましたね。御手洗潔シリーズ読み進める傍ら、吉敷竹史シリーズの『奇想天を動かす』や『北の夕鶴2/3の殺人』にも衝撃と感動を受けてますます島田荘司という作家の作品を読みふけっていったのでした。

 島田荘司という作家はそのトリックの創造力もさることながら、それ以上にたぐいまれな演出力を持った作家です。投入されたトリックが水面を描くように、そのトリックを行使することで発生する謎――いかにしてトリックを行使する過程や行使したことで生まれた結果を奇妙な現象として読者に提出するか。その演出力はなかなかマネできるようなものではないです。そして、その演出力をもって紡ぎ出されるのが骨太な物語。御手洗シリーズは長大化してゆく中で、そのごつごつしつつも力強い物語がトリックを支えていました。

 御手洗シリーズについては、初期の三作、『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『異邦の騎士』も大好きなんですが、ブロックバスター的な大作――『暗闇坂の人食いの木』『眩暈』『水晶のピラミッド』『アトポス』を経た後の三作、『魔神の遊戯』『ネジ式ザゼツキー』『摩天楼の怪人』あたりが、最近は好きになってきたり。吉敷シリーズだとやはり『奇想天を動かす』や『北の夕鶴2/3の殺人』ですね。あと、ここ最近、というほど最近の作ではないですがノンシリーズの『ゴーグル男の怪』が幻想小説としてかなり偏愛してて、こんな記事も書いたくらいです。

kamiyamautou.hatenablog.com

 

 ゴーグルのようにノンシリーズも面白いものが多く、『ひらけ勝鬨橋!』や『都市のトパーズ』『透明人間の納屋』『切り裂きジャック百年の孤独』(これは一応、あのシリーズの人物が登場しているのでは、という可能性はありますが)『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』『夏、19歳の肖像』なんかもおすすめです。

 今のところ、個人的なベストとしては『龍臥亭事件』『ネジ式ザゼツキー』『異邦の騎士』がベストスリーという感じでしょうか。ちなみに裏ベストは『ゴーグル男の怪』『透明人間の納屋』『ハリウッド・サーティフィケート』。まあ、ベストは気分で変わります。面白いものがたくさんあるので。

 そういえば、『龍臥亭事件』についてですが、この作品、物語がトリックを支えているいい例ですね。後半というか中盤の津山三十人事件の真相に迫る都井睦夫パートは長くてコレ必要なのか、という声もあったりしますが、この怨念のようなパートがあるからこそ、最初に起きる事件の真相が恐ろしくなるのです。アレはほとんどホラーですよ。そして、あの絵が撃ったという意味合いをきっちりと支えている。

 まあ、なんというかだんだんとりとめもない感じになってきたので、ここらへんで筆を置こうと思いますが、やっぱり島田荘司は面白いですね。今も昔も新しい本格の可能性を追求し続ける異邦の騎士。その姿は、自分の中で大きな存在として今でも追いかけている作家のひとりなのです。

 

 ※うーん、しかし、なんか難しいですね。なかなかきちんとした文にならないです……少しでも島田荘司の魅力が伝わればいいのですが、一人で騒いでるだけのような自己満足性が抜けきらない。タイトルもこれでいいのか……。まあとりあえずは、冒頭にあるように今現在の私の“気分”というものを書き留めておくということで。

 久しぶりに、このブログの初めになに書いたのか見てみたんですけど、(感想は)主にミステリーについて、になると思いますとか嘘書いていたのでちょっと笑いました。ミステリは……なんか感想書きにくいというか……一応、最初は別のところで書いてたんですけどね、大して書いてたわけじゃないんですがミステリ専門みたいな感じで。横溝やクリスティ中心にやってたんですがだんだん意欲が低下していったというか。仕切り直したらなおさら書かなくなったという。

 そういえば、ポジオリ教授の他のシリーズを書きたいとか書いてましたが、「冒険」のほうの感想ノートを紛失してまた一からダラダラしてる次第。二階堂黎人の『巨大幽霊マンモス事件』も意気込みだけの書きかけ文章がどこかに眠ったまま……。こんなふうに書けば、なんかやろうという気力がわくのかどうなのか分かりませんが、ポジオリとあと、『火蛾』はぜひなんとか、という自己満的な意欲があるのでだらだら時間をかけて何とかする――したいと思ってます。

 うーん、しかし、もう少しミステリの感想を増量したいんですが……最近読んだ中で面白かったのは今邑彩『そして誰もいなくなる』青崎有吾『早朝始発の殺風景』柄刀一『或るエジプト十字架の謎』西澤保彦『彼女が死んだ夜』あたりでしょうか。あと、今読んでいる『赤村崎葵子の分析はデタラメ』がなんか妙に面白いです。ついに読んだロースンの『首のない女』はコレクターズアイテムという感じで大事にします。

 まあ、ミステリの感想はざっとこんな感じでしょうか。機を見て、色々記事を作りたいな、とは思いますね。

自ら踏み越えようとする人間の深淵:『ザ・バニシング―消失―』

 1988年に公開された本作は、その評価とは裏腹に長らく日本で劇場公開されないまま、キューブリックが震撼したという言葉とともに、ちょっとした伝説の映画として、映画ファンの間で語り継がれてきました。その映画が、ようやく日本で劇場公開され(DVDは発売されていた)私の住む田舎の地方都市でも単館上映が行われて、何とか観に行った次第です。これが伝説の映画、というふうにちょいドキドキしながらの観劇でした。

 なんというか、この誘拐犯のオジサンこえー、というか気味が悪すぎてその人物像に戦慄した次第です。何気ない恋人たちの旅行、その隙間にインサートされる妙な男の影。そして、失踪する恋人。失踪した女性を探すプロットかと思いきや、事態は一風変わった様相を見せ、やがてジワジワと恋人を探し求める男、そして観る者たちを蝕んでゆくのは、真実を知りたいという欲求であり、その果てに現れる恐怖に何とも言えない嫌な後味を刻み付けてくれます。正直、中盤あたりは眠気があった私ですが、終盤は本当にじりじりとしたそのイヤな予感と焦燥感で押しつぶされそうでした。

 

あらすじ

  オランダ人のカップル、レックスとサスキアは、フランスへ小旅行へ出かけていた。ケンカをしつつも旅を楽しんでいた彼らだったが、途中で入ったドライブインでサスキアが忽然と姿を消す。必死で探すレックスだったが、その姿はようとして知れず、そのまま三年の月日が流れた。それでもサスキアをあきらめきれず、テレビで情報を呼びかけるレックスに、犯人と思われる人物からの手紙が何通も届き始める。

 

感想 ※この先はネタバレ前提ですので、そのつもりでお願いします。

 

 消えた恋人を探す男の話かと思いきや、事態は思いがけない方向に向かう。事件の真相を知るという男が名乗り出てきて、揺さぶりをかけるのだ。真実を知りたくはないか、と。この映画は、そのレイモンという男の映画だと言える。サスキアやレックスはこの男の自己証明の物語に巻き込まれた哀れな人間にすぎない。この映画はいってみれば踏み越える人間の物語だ。というと、フリードキンの映画を思い浮かべるかもしれない。向こう側へ踏み越えてゆく人々の映画。しかし、この映画はフリードキンのそれとは決定的に違うところがある。フリードキンの向こう側への越境は、人物たちにそれを強いる状況があり、その状況の中で人物たちは転がされ、果てに向こう側へと踏み越えてゆく。しかし、この映画のレイモンという男は、始めから自分の意志で踏み越えようとする人間なのだ。

 普通なら踏み留まる場所から自らの意志でそれを超えること。それは、彼が語る少年時代のエピソードーー二階のベランダから骨が折れることが分かっていながら飛び降りる――で示される。幼少期から“踏み越えてみたい”という欲求が、彼にはある。そして、結婚後にも“踏み越える”瞬間が訪れる。溺れた少女を助けるため、橋から川へと飛び込むエピソードだ。少年時代の出来事を反復する形だが、これは溺れている少女という状況がそうさせているに過ぎない。よって彼の満足するところではない。

 彼は状況に強いられるのではなく自らの意志で踏み越えることを望む。そして、女性を誘拐するという計画へ没頭してゆく。少しずつ、少しずつ計画を練り、実践のためのシミュレーションを積んでゆく姿は、滑稽な面もあるが、蛹がやがて禍々しいモノへと変態してゆく過程でもあり、イヤな焦燥感が募ってゆく。

 この映画は女性が消失し、その消失点へと向かう映画でもある。じりじりと“真実”へと向かう、それは避け得ない悲劇を見つめなければならない過程であり、常に最悪の状況を予感した上の宙づり状態となる。恐ろしい緊張感。

 そして、睡眠薬入りのコーヒーをレックスが飲むかどうかでその緊張感は頂点に達する。明らかに飲んではいけないのに、真実を知りたいという欲求が、地獄に突き進むことになる。そして、恐ろしい結末を刻み付けたまま、どこか穏やかな風景の中に溶けてゆく恋人たち……。なんてイヤな映画なんだ。

 映画の始めに写されるのはナナフシであり、それはレイモンの擬態している昆虫のような人物を暗示してる。そしてラストに写されるカマキリが、捕食者となった彼が犯行を続けてゆくだろうことを印象付け、家族たちの穏やかさの中に潜むレイモンという人物のおぞましさを際立たせているのだ。

 とにかくこのベルナール・ピエール・ドナデュー演じるレイモンという人物が気持ち悪いというか、得体が知れなくて、その気味悪さがそれこそ虫を見ているような嫌悪感を抱かせる。自ら踏み越えようとする人間というのはかくもおぞましいものなのか。この映画は、知りたいという宙づり状態が恐怖感を生み出しているということはよく言われるが、このレイモンという男の造形もまた恐怖の一因であると感じたのだった。

 踏み留まる人間には、踏み越えざるを得なかった人間の姿はまだ分かる部分がある。しかし、自ら踏み越えようとする人間の内奥はうかがい知ることはできない。それがこの『ザ・バニシング』という映画の恐怖の深淵なのだ。