BEATLESS』『ダーリン・イン・ザ・フランキス』ともに二話を視聴。では、それぞれ感想を。

BEATLESS』は、アナログハックの説明編。モデルシーンで説明するのだが、そのモデルシーンではほへー、とさせつつ、その後のアラトとレイシアの会話で、アラトがアナログハックに引っかかってるなー、という風に視聴者が能動的に突っこみを入れさせることで、実感できるようにきちんとつくられてました。設定を示すところで説明して終わりではなく、説明された側が能動的にそれを指摘できる場面を作る――そういう意味では、制作側の視聴者の“誘導”というものが、作品とその外側、というメタレベルでの二重化が今後もアニメーションの表現の中で出てくるのか、興味深いところです。

あー、でも、もう少し作画に力が欲しい……画面のスペシャル感は今後の戦闘シーンとかに期待していいのだろうか……いやまあ、でも、学校の屋上シーンとか結構好きですけど。

ダリフラは……なんでしょうね……。性をキーワードというか、テーマに扱っていきたいらしいことは分かりすぎるくらいわかりましたが、その微妙で難しい部分を扱えるのかなあ、と正直一話の無造作なところを見るに不安が払しょくできない、むしろ大きくなりそうでした。

まあ、制作者が真顔で提出し、それを視聴者も真顔で観る、ということが、なんだかひどくシュールで居心地の悪い関係性を形成しそうで、なんとも言い難いです。作中の設定を借りるなら、ロボに接続した女の子を男の子が操るように、このアニメに接続する視聴者を制作側は巧く操れるのでしょうか……。個人的には繋がるのを遠慮したいなーと、思い始めていますが。

しかし、この物語はどうなるんでしょう。年上っぽいお姉さんに手ほどきされた初心な少年が、幼馴染をはじめとした色んな属性の女の子(もしくは男の子も?)と浮名を立てるというか、フラグを立てて回るのでしょうか。だから、矢吹健太朗がコミカライズしてるのかなあ、とぼんやり思ったり。

もしくは、ヒロ君の“才能”というのは、男の子が適任とされている操ることではなくて、女の子の適性とされているロボと繋がることだったり? 公式サイトのキャラクターのところを見ると、搭乗者の男女二人組、ヒロとゼロツーだけ配置が他と逆さになっているのは、関係あるんでしょうかね。他の機体は接続する女の子っぽい顔してるけど、ストレリチアだけはなんかゼロツーとは似てない気もするし……。今後、男の子同士で動かすとかもあるのかもしれん。もしくは、ヒロ君が“仰向けになって”接続しつつ、女の子たちが操縦するとか……? 案外、ストレリチアの中ではそうなってるのかもしれませんが……。でもなんか、いずれにせよどうしようもないだけのような気もする。

性をあらかじめ外部からそうあるように決定され、性的に無自覚な少年少女たちが、自らの性に疑いを持つ、みたいな話になるなら、今後続けて観るモチベーションにはなるかもしれませんが、定型の男女の未分化な恋のドロドロを“エンタメ”として物語の中心にするなら、あまりこの作品を支持できそうにはありません。

今期のアニメは今のところ『BEATLESS』と『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(長いな……)をとりあえず一話を観た。『BEATLESS』は原作をいかにまとめるか、というその手際を見るような一話だったが、今後、アニメーションによる原作表現がどのようなものとなるのか、期待したいところである。しかし、アラト君のキャラはなんだか幼い感じがするなあ。原作だと、hIEを道具扱いするその世界の認識からだとヘンな人、という感じだったが、アニメは区別をつけない単にコドモっぽい少年のように見えちゃうんだけど……。声とかもなんか妙に甘ったれた感じがして正直あんまり好きじゃない。

アニメーションの面白さでいったら『ダーリン・イン・ザ・フランキス』がすごかった。作画や動き、構図や演出のタイミング、それはこれまで気持ちいいいと感じてきたツボを押しまくってくれて、非常に気持ち良い。反面、要するに“気持ちいい”と経験した要素で組みあがっているということもできるわけで、どこか作中で示されているような鳥籠の中っぽい印象を作品そのものに抱いたのも否定できない。

とはいえ、鳥籠、というのはそういうのも含めてのスタッフが意識的にやっている可能性が高いとも思われるので、それを主人公たちの境遇含めて打破する、という方向性になるかどうか、そういう関心で観ていこうかな、という気はしている。

ただ、古臭いお色気要素はやはりどうもね……特に一部で批判されたりしている、博士の特に意味ないお尻を触るセクハラシーンはちょっと意図を掴みかねる。あんまりにも典型的で何も考えていないように思えるそれは、少女の体のラインぴっちりスーツ(いい加減、ロボものにおけるこのぴっちりスーツ、ダサいと思うのだが)姿を後ろからお尻をとらえるアングルなどを含め、え、今それをやるのか……という戸惑いを隠せない。

そういうところを含め、何だか不安な要素はありますが、とりあえずは付き合おうかなという感じですね。

恐怖に克て:映画『IT』

年を越してようやく観に行きましたよ。というか、ようやく観に行けたというべきか。

本作はスティーブン・キングによる傑作小説の二度目の映像化――その一番初めの映像化であるテレビミニシリーズ版を観たのは小学生の時でした。

父親と何の気はなしにぼんやりとテレビを観ていると始まったのがそれでした。そしてのあの冒頭の排水口から現れるピエロ――薄気味悪さの果てに、その豹変。

めちゃくちゃ怖かった。その後もビルが見るアルバムから血が噴き出すシーンなどの恐怖映像の連続に、父が私を慮ったのか、はたまた自分も怖かったのか、黙ってチャンネルを変え、それっきりITは私の恐怖映画の筆頭となり、いまだに観返すことができない恐怖の記憶として、あのピエロは頭の裏側に張り付いているのでした。特にあのペニーワイズは“顔面力”と言われる顔のインパクトがすさまじく、その顔だけでめちゃくちゃ怖いのです。

だから、ITの二度目の映像化にして初の映画化であるこの作品を観に行くのは二の足を踏んでいたわけですが、ええい、ままよと思い切って観に行ったわけなのでした。

 

あらすじ

メイン州に位置する、どこにでもあるような田舎町デリー。

その日は雨が降っていた。

雨が降りしきるなか、黄色い雨合羽の少年が手作りの舟を追いかけてゆく。

歩道の端を流れる雨水に浮かぶ小さな紙製の舟は、流れの中を勢い良く滑っていく。それを少年――ジョージーは追いかけていた。

兄――ビルがワックスを塗り、作ってくれた舟は出来が良すぎるくらいだった。それはどこまでも滑ってゆき、ジョージーを引き離し、追いつく間もなく、ついには排水口のなかへと吸いこまれて行ってしまった。あっという間だった。

叫び声を上げつつ、滑り込むようにして排水溝に取りつくジョージー。覗き込んだ先には闇。

闇の中から、それは現れた。

妖しい二つの光が、爛々とした二つの目となり、ジョージーを覗き返していた。そして目の前に現れたのは禍々しいピエロ。手には排水溝に呑み込まれたジョージの舟を持っている。ピエロは自らを「ペニー・ワイズ」と名乗った。

一緒に遊ばないか、ジョージー? ピエロは誘うように舟を差し出す。

一緒に浮かぼう――大切な舟なんだろう?

兄に作ってもらった舟――無くしたら大変だ――手をのばすジョージー。

ピエロはむんずとその腕を掴む。がばり、と開いた口はおぞましいほど鋭い歯が並び、ジョージの腕を噛み千切る。突然のことに絶叫し、腕から血を流しながら這いずって逃げようとするジョージー。背後の排水口からはするすると禍々しい手が伸びてゆく。そして、這いずる少年を掴むと、そのまま排水口のなかへと引きずり込んだ。その暗い暗い、闇の中へ。

町はその年、子どもたちがずいぶんたくさん消えていた。町中に行方不明の子どものポスターが貼られ、その上にまた新しい子どものそれが、人々の記憶を上書きしていく。ジョージーもすでにその上書きされた失踪者たちの層に埋もれつつある。ビルはジョージーの死を受け入れられず、いまだその姿を探すことをあきらめきれないでいた。そしてジョージーの失踪は、ビルに吃音という形で、いまだ刻まれている。

そして、夏休みがやってきた。 ビルはリッチィ、スタンリー、エディ、冴えないはみ出し者たちの集まり、ルーザークラブのメンバーでいつものように夏をすごしていたが、そこへ、いつも彼らを標的にする不良たちに絡まれ、追いかけられてきた転校性の少年、ベン、傷ついたベンを介抱するため立ち寄った薬局で出会った、とある“噂”から皆に避けられている少女ベヴァリー、同じようにして不良たちの標的となっていた黒人の少年マイクをメンバーに加えることになる。

やがて彼らは、それぞれが怪物に襲われながらもその手から逃れてきた恐怖体験を持つことに気がつく。転校生ベンは、失踪事件を独自に調べ、町の歴史を調べるうち、「ペニー・ワイズ」という子どもを襲う怪物の存在を突き止め、しだいにルーザーズクラブの面々は、27年ごとに町に現れ、子どもを喰らうIT(鬼)、との対決へと赴くことになる……。

カンソウ

この映画は、恐怖映画でありつつ、非常に良質な青春映画でもあります。恐怖の合間に挟まれる、少年少女の瑞々しい姿、その“青春”の切り取り方がほんと素晴らしい。原作の過去と現在を行ったり来たりする構成ではなく、少年時代のみを描くことでそれが際立った感があります。ラストシーンのビルとベヴァリー(特にビル役のジェイデン・ビーバハ―が)美しすぎる! ああいった人物を美しく撮る力量が、青春映画には不可欠である、と確信した次第です。

とはいえ、この映画、もちろん怖いところは怖いです。特に、最初のジョージーの腕をペニー・ワイズが噛み切るところとか。たぶんそこが一番怖い。排水口を覗いたらそこに誰かが――ピエロがいるってビジュアルイメージはやはり鮮烈です。

ペニーワイズについては、ティム・カリーが演じた90年版の方がインパクトはあるし、やはり怖い。そこはしょうがない。あの顔面のインパクトはそう狙って出せるもんじゃないだろう。それに、あのティム・カリー・ワイズの怖さは、もしかしたらその辺のピエロの格好をした殺人鬼のおじさんなのかもしれない、という部分にあるような気がする。そのもしかしたら人なのかもしれない、というあやふやさが恐怖を醸成しているように思われるのだ。むしろ、恐怖の根源というのはその“あやふやさ”なのではないか。

今回のビル・スカルスガルド演じるペニー・ワイズは造形が洗練されている分、純粋な異形のバケモノ感が加速していく。具体的な化け物となる。そして言ってみれば怖くなくなっていく。だが、それはこの映画の瑕疵ではない。むしろ構造と関わってくるのだ。

ビルはジョージ―、ベヴァリーは父親、マイクは両親の死を、というように少年たちはそれぞれが恐怖を抱えている。ペニー・ワイズはその恐怖の似姿として、彼らの前に現れる。そんなペニー・ワイズに勝つには、その己の中に巣くう恐怖と戦わなくてはならない。そう、この物語は恐怖を克服する物語だ。それぞれが仲間の力を借り、自らの恐怖と向き合い、それを克服する。だから、この映画は恐怖映画でありながら、観終わった後に、映画館の暗がりや帰り道の背後を気にしたりするような恐怖が後を引いたりはあまりしない。観終わった後はどこか爽やかですらある。恐怖が具体的な姿になれば、それを乗り越えることができる。前述したようにこの映画は、恐怖映画でありながら、怖くなくなっていく映画なのだ。

そういう意味で、彼らが大人になった第二章があるとはいえ、ここで終わっても正直構わない。それくらい、物語としてはきちんとしたまとまりをもって終わってましたね。個人的には続きはいらねーんじゃねーかとすら思った次第。

恐怖とは、分からないことに起因している。いや、薄々わかっていながらも目をそらしていることから恐怖は生じるのだ。しかし、一人で恐怖の源を見つめることはできない。――けれど、誰かがその手を握ってくれるなら、その恐怖を見つめることができるかもしれない。少年たちはそうやって恐怖を克服していく。そいういうわけで、ホラーと青春がガッチリと結びついた傑作になっていると感じましたね。

では最後に、個人的に好きなシーンを挙げるとすると、みんなで輪になっての誓いから、ベヴァリー、そしてビルのアップ(ここの風で前髪分けたリーバハ―がすごくいい! あの青春を閉じ込めた一瞬!:強調)、というラストまでのショットを除くと、ペニー・ワイズをボコボコにするところも好きだが、みんなでベヴァリーの家の浴室を掃除するシーンが好きですね。大人には見えない血まみれの浴室を、みんなでせっせときれいにしていく。恐怖を文字通りみんなできれいに拭い去ってゆく。血まみれなのに、どこか朗らかな感じがしてしまう、作中屈指の青春シーンだと思うのですがいかがでしょうか。

――というわけで、この映画を観ることができたわけですが、私は、私自身の幼い日の恐怖である90年版と向き合うことが、果たしてできるのだろうか?

 

いやー、しかし、観たのは元旦(今年の初映画!)だったのですが、ずいぶん放置してようやく今年初めの記事が上げられましたね。なんだか先が思いやられますが、がんばってこー。

最近、イノセンスを結構観かえしている。今観ても圧倒的な画面は当時の最高峰だし、おそらく、今でもそうだろうし、今後、これを超えることができるのか、心もとない気がしないでもない。

ま、それはともかく、本編もすごいのだが、特典の対談、監督の押井守とプロデューサーの鈴木敏夫とのそれが、すこぶる面白い。

というか、鈴木敏夫という人の凄さみたいなものがよく分かる。表現者が何を表現したいかを的確に理解しつつ、それを分かりやすい形で第三者に伝えようとする、彼はそんなプロデューサーの権化みたいな男なのだ。的確な理解力とそれを分かりやすい形に加工するすごさと同時に怖さを彼からひしひしと感じるのだった。まさに映画は語られることによって映画になる。あの押井守が全面的に鈴木敏夫の咀嚼した映画の理解に同意している姿は珍しい。

というか、あの当時あそこまで理解してた人、観た人たちにいたんだろうか。

記憶を外部化するその先――人はかつて自身が名づける以前に存在した身体を外部化するという視点はいまだ鮮烈だ(まあ、あまりSFに明るくないので、僕にとってということかもしれないが)。

人は誰かと共に生きていかなくてはならないが、その横にいるのが人間である必要が必ずしもあるわけでなはい、という視点――今度アニメ化する『BEATLESS』は人の横にいるのは魂のない道具でもいいじゃないか、という話で、どんどん人の魂の輪郭が外部化していく。そう言うのを見ると改めてイノセンスの先見性は光るな、とまあ思った次第です。

しかし、『ブレードランナー2049』が人でないものを主人公にしながらも、古典的な「ピノキオ」を下敷きにし、人形が人間に成る、結局は人間中心主義的な価値観のまわりをぐるぐるしている(まあ、輪郭は曖昧になり始めていたが)なか、十年も前に、人間が人形になる話をここまで徹底して描いていた、というのはやはりすごいな、という気はします。

まっかな終末

私がクリスマスも終わろうとしていた深夜、何をしていたのだというと映画を観ていた。タイトルは『吸血鬼ゴケミドロ』。

例のごとく観なきゃなあ、と思いながら積んでいた映画の一つ。ようやく観ることができましたよサンタさん。

ゴケミドロの話はシンプルだ。小型旅客機が未確認飛行物体に遭遇し墜落、そこに(何故か)留まる乗客たちに宇宙生物に寄生された客の一人が襲い掛かり、生き残った乗客たちは一人また一人と餌食になっていく……。

映画は開幕早々から不吉な赤い色。その空の色はタランティーノキルビルで引用したことから有名になっているが、そこを飛ぶミニチュアの飛行機はなんだか異様な感興を観る者に与える。すでに世界は変質している、そんな不安を。

 いや、すでに世界は終わっているのだ。あの異様に赤い空でそれはもう表現され尽くしている。あのワンカットだけで実はもうこの世の終わりを描いてしまっているのだ。

墜落シーンの特撮は今見ても悪くないです。56年のエドワード・ドミトリク監督の『山』とかの墜落シーンとかに比べてもまあ、そう遜色はないんじゃないんでしょうか。実物大の飛行機を用意していてなかなかお金かけてるな、なんて思ってましたが、そこに予算を全振りした以外はチープです。舞台にお金をかけた一点豪華主義の潔さ!

しかし、チープなわりに全編に異様な雰囲気が漂っています。特に人間がUFOへと誘蛾灯に惹かれるがごとくふらふらと近づいていくシーン、その合成は上手くいっていないにもかかわらず、非常に印象深い気味の悪さを醸し出しています。人間の額がぱっくり割れ、なかにアメーバ状の生物が入りこんでいくシーンの強烈さも、リアルとは違うしかし拭い難いインパクトをぶちまけています。

特撮のチープさ、それがはからずしも世界の歪みの効果として、観客の不安をあおっていきます。画面を嘘くさくしていることが世界そのものが嘘くさいモノへと変質している、世界が異質なものへとすり替わっているような不安と結びついていて、実は“特撮”は恐怖と相性がいい。それがいつしか“怪獣”の特権のようなものへとなっていったのはエンジンの片方が無くなったようなものなんじゃないだろうか。

まあ、それはさておき、閑話休題

本作の話は密室恐怖劇という感じで閉ざされた場所でバケモノが襲ってくるというシンプルなものなんですが、バケモノの怖さとそのバケモノに襲われた人々はどう反応するのか、という恐怖映画の基本がきっちりしているので面白く観れます。

 マタンゴと並ぶ、恐怖が人間性を抉り出していく過程がねちっこく描かれ、そこが映画をしっかりと支えています。恐怖映画におけるモンスターとは畢竟、それにさらされた人間たちの人間性を抉り出すための触媒であるということを理解している映画こそが面白い映画となりうるのであり、この映画もまた面白い映画なのです。

 世界はいつの間にか終わっている。まっかな空の色がそのことを明らかにするラストシーンは、映画史に残る風景であり、観た人の恐怖の原風景になることは間違いありません。

『屍人荘の殺人』の快進撃を見つつ、ほんとすごい新人が現れたなあ、と。本格ミステリ30周年にして斯界に力のある新人が現れたこのインパクトは、綾辻行人を思わせるものがあり、作品のもたらしたその手があったか、の衝撃も氏を重ね合わせるところがある。そしてさらにロジックもトリックもド直球の本格ミステリのテイストで、それがここまで多くの読者を獲得しているという事実は何よりも素晴らしいことだ。

屍人荘の素晴らしいところは分かりやすい、もしくは共有したくなる“驚愕の真相”という飛び道具的な仕掛けがメインではなくフックであるところだ。それ自体はコロンブスの卵ではあるが特に瞠目するようなネタではない。しかし、それをもって本格ミステリのロジックとトリックを成立させ、何より面白い物語として過不足なく語り切ったことにある。

本格ミステリというものが分かる人間たちのものではなく、そのクオリティを保ったままでも多くの人を読者にすることができる。面白がらせることができる。それを新たに示してみせた、それが私には何よりうれしいのだと思う。

あと、かなりどうでもいいが第27回鮎川哲也賞には私も初めて書いた作品を応募していて、まあ、最終選考に残れなかったので、大したことはないのだが、すぐ近くに名前が載っていたのはちょっといい記念になった。と同時に少し奮起するというか、面白い探偵小説が書きたい、という思いが沸いてきた(実は最終に残れなかったのは結構ショックだった……選評、欲しかった……)

頑張ろう。

わくせいだいせんそう

スターウォーズ 最後のジェダイ』である。なんかスルーしようかと思っていたら、町山さんの大絶賛でどうしよっかなあ~、な気分になったのもつかの間、先に観に行った連中の感想がいずれも低評価でまたも迷う。さらになんだか肯定、否定が革新派、保守派という単純極まりない二元的言語空間が形成されつつあり、それに観る前から萎え萎え。

僕が作品について“既成概念を破る”とか“進歩”とかいう言葉で絶対的な良きものとしての装飾が行われている事態に警戒感が強いのは、かつて新本格――本格ミステリー(もしくは探偵小説)がそういう言葉によって否定されてきた歴史を見てきたからで、それはただの進歩というポジションでふんぞり返りたいだけの、他を低めることで褒めそやしたいものを上げているだけの行為だった場合が多分にあったわけで、進歩や革新といった言葉が過剰に前に出過ぎている今回の新作に食指が動かなくなっているわけですよ。

観てないし、今回のことがそうであるかどうかは言えないことは確かだ。だけど、肯定する側が、革新、進歩を受け入れる側、みたいなポジションを取りたがる姿や、なぜ物語の外側の話をしたがるのか、そこが気になってしまう。否定するものは変革を受け入れない者、というレッテル張りに移行しているようだし、そういう選別が焦点になる作品って、ちゃんと物語の力は、構造の力は宿ってるのかな。疑いは濃くなる。

まあ、そんなことをグダグダいう前に観に行けよって話ではあるのだが……なんか気が進まない。