蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

言葉でどこまでもつながってゆける 笹井宏之『えーえんとくちから』

 詩や短歌、それは僕にとって何とも言えないジャンルだ。一応、学校の教科書のものを目にしたことはあるわけで、「君死にたもうことなかれ」とか、「白鳥は悲しからずや」とか、なんかそんな感じのが記憶にある。古文の万葉集とか、古今和歌集とかその辺は全然ダメで、いまだに何言ってるのか分からない。とりあえず愛の歌が多いんだっけ?

 学校経由のイメージはそんな惨状。とはいえ、好きな詩とかは一応あって、中原中也の「骨」とか「サーカス」、萩原朔太郎の「殺人事件」、「干からびた犯罪」。あと、施川ユウキ経由で宮沢賢治の「告別」とか。短歌はあんまりよく分かんない。そういえば中井英夫の『黒衣の短歌史』は積んでる……。

 まあなんというか、好きだなあ、みたいな詩が片手で数えるくらいあるだけで、系統だった詩歌の流れとかほとんど知らないし、まともに詩歌集を読み切ったことも無い。

 そういう人間が、とりあえずこの本に出会った。そういうわけなのだ。

 例によってツイッターである。ちくまのアカウントが発売するということで、タイトルが流れてきた。「えーえんとくちから」というなんだか一瞥してよくわからない言葉。永遠解く力? 永遠と口から? 著者は26歳で亡くなったらしい。夭逝。俗人なのでそういう言葉と人に興味を持つ。検索。そして、ブログを見て(まだ、ご両親が続けているようだ)そこにある詩「切れやすい糸でむすんでおきましょう いつかくるさようならのために」を見て、あ、買ってみたいなと思った。その言葉にもっと触れてみたくなった。そして日曜の朝から本屋にのりこみ、一直線にちくま文庫のコーナーに向かい、手に取った。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください

 ああ、これはすごいものに触れてしまったな、そんな感じがした。この冒頭の歌が私をつかまえた。同時に私も彼の言葉をつかんだ。そんな感覚はなかなかない。とにかく、この歌に何か感じたのならこの本の歌たちに触れてほしい。これ以上、歌は引用はしない。本を開いて何首か見てほしい。

 彼の歌はまさに言葉に触れる、そんな感じなのだ。透明感があり、熱くも寒くもなく、どこまでものびやかで、すごく近くにいると思えば、いつのまにか遠くに連れ出されている。彼の言葉を介し、世界をゆったりとただようような感覚に連れ出される。

 「私」と「世界」との交歓感覚。穂村弘は解説でその歌の特徴を魂の等価性と述べている。“私やあなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海の魂が等価だという感覚”それがおそらく、作者の歌にある透明感に繋がっている。また、作者はあとがきでこう述べている。

キーボードに手を置いているとき、ふっ、とどこか遠いところへ繋がったような感覚で、歌は生まれてゆきます。

(中略

風が吹く、太陽が翳る、そうした感じで作品はできあがってゆきます。

ときに長い沈黙もありますが、かならず風は吹き、雲はうごきます。

  流れに逆らうことなく、彼は言葉を待っている。そして、拾い上げられた言葉は、それにふれるものを作者と同じように、ふっ、とどこか遠い所へ繋げる。言葉で、ひとはどこまでも行ける。気負うことなく、当たり前のようにつれて行ってくれる。

 そして、私はその繋がったそれを放さないようにと怖れることなく、離すことができるのだ。その言葉が、私を、その繋がるすべてと等しくさせてくれているのだから。

 

えーえんとくちから (ちくま文庫 さ 49-1)

えーえんとくちから (ちくま文庫 さ 49-1)

 

 

「体験」を再現する装置としての映画 『ボヘミアン・ラプソディ』

 というわけで、新年初の映画はこれでした。おまけに恐らく人生初のIMAXで観た。ぶっちゃけ、同行者との時間の都合でIMAX字幕しかなく、えー、高い、みたいな感じで劇場に乗り込んでいったのですが、いや、観てよかったです。というか、これはIMAXで観るべき映画だ。

 まず映画が始まる前からアツい。20世紀フォックスのファンファーレがエレキで奏でられる。ここでもうビリビリと掴まれた。このファンファーレ、現クイーンのブライアン・メイロジャー・テイラーがこの映画のために録音したものだそう。そして、オープニングはベッドの上で目覚めるフレディ・マーキュリー。咳き込む姿に彼の生涯を少しでも知っているなら、それが重く胸に垂れ込めるだろう。彼はステージに向かう「ライブ・エイド」という、アフリカ難民救済のためのコンサート。そして、クイーンが語られるうえで伝説となったコンサートへ。スタッフによって幕が開かれ、満員の客が待つステージに上がるまでにかかる「Somebody of love」で既に何かこみあげてくる。一応言っとくと、私はそこまでクイーンのファンってわけじゃないです。ベスト盤をヘビロテしてた時期があった、というくらいでメンバーのこともフレディがエイズで亡くなったくらいしか知らない。

 それでも震えた。その音に感動した。それはまあ、IMAXの力ということかもしれないけど。

 映画はフレディのバンド生涯を追うように、その時その時の発表した楽曲を鳴らしながら、2時間30分のランニングタイムとはいえ、かなり一気に駆け抜けていきます。そういえば、観る前に時間もなげえな……と思っていたのですが、ほとんど気になりませんでしたね。それほどスピーディーに展開していきます。

 父親が望む強い男性像に反発しつつも、なれなかった自分として惹かれてゆく。そういったフレディの性的嗜好を軸にして「家族」への葛藤、反発、孤独、そしてバンドという「家族」へと回帰してゆくのが、この映画のドラマパートで、まあ、その辺は事実とどうこうというのはあるのでしょうが、映画の最低限の骨組みとしてそれはあるという感じでしょう。

 この映画の本質はその音と臨場感、そして、最後の最後にあるライブエイドのライブにあるといっていい。IMAXで観るそれは、圧倒的な体験として観る者に刻まれる。それはたぶん、当時の「体験」を体験することを目指している。当時の映像を、記憶を忠実に再現し、「体験」を体験する映画。多分これはそんな映画なんだ。

 過去との接近。これはたぶん、この十年くらいのインターネットの作り出した世界のカタチに沿っているのではないか。つまり、僕らは時代を超えて気軽に過去のコンテンツに触れられる時代にある。好きな時に、好きな時代の映像が、音楽が、そばにある時代。かつてないほど今と過去が漸近して、それはさらに進んでゆくだろう。

 そんな感覚の先として、VRが進化し、そこにいたことをよりリアルに「体験」することができる時代がきっと来る。ライブだけでなく、世界で起きているあらゆる出来事、デモや戦争をはじめ、歴史的な瞬間の数々を世界のあらゆる人々が「体験」し、まだ見ぬ未来の人々とそれを完全ではないかもしれないが「共有」する時代。そんな未来のとば口に立っているのかもしれない――なんて考えて、その始まりとして、こんな映画がジャンルとして増えてゆくのではないか、と映画の感動とは別な部分でもワクワクしたりしたのでした。

 最後は、映画の感想からは外れちゃったけど、もしまだ観てないならとにかくIMAXで観るんだ、実は言いたいことはそれだけだ!

 小学生の時だ。友人と合作で漫画を描き始めた時期がある。私としては本来小説を合作するつもりで誘ったのだが、うまく伝わらなかったのか、友人は勘違いしたか漫画を描こうぜ、ということになった。ノートというか、白い横長の雑記帳に何列かの線を引いたコマ割りに、アドリブで絵を描き、セリフを入れ、それを交互にしていくことで物語らしきものを行き当たりばったりで作っていったのだ。

 小説を書こうと誘ったわけで、私自身は絵なんか描けなかった。対して友人は漫画をたくさん持っていて、私なんかよりずっと絵が上手かった。その代わり、私は話を作るのが得意だった……としたら、もう少しこの“共作”は続いたかもしれない。しかし、話を作るのも友人の方が巧い、というかメインになるアイディアは友人で、私はテキトーな補足というか、余計なセリフの追加とか、展開の引き延ばしみたいなことしかできなかった。当然、このはるか昔の「バクマン」はあっさりと終わりを告げた――それぞれで描こうぜ、という風に。

 結局一人で白い紙を前に私は何もできず、友人の漫画をチラ見して似たような冒頭を描いて、友人は私に漫画を見せようとしなくなった。

 まあ、今は昔のこれは前振りだ。その時のなんとなく印象に残っている友人の漫画の冒頭が、これから書こうとすることに繋がっている……ような気がする、というだけだ。その冒頭は、パンパかぱーん、と新世紀を祝っている人々の前に敵が襲来するという、まあ、他愛もないといえば他愛もない冒頭。しかしそれが今も印象に残っているのは、私が新世紀を迎え、その後の世界を見たからだ。もしかすると友人はその新世紀の気分をとらえていたのかもしれない……なんていうのは私の後付けの理屈なのかもしれないが。

 世紀末、という気分を私はその時期に思春期をすごしながらも、少し年上の人たちがにめり込んでいたような終末的なものとして浸れなかった。そして、この世の終わり、終りへと向かうフィクションに浸ることができなかった。

 世紀末で終わりを迎えることなく、新世紀を迎え、新たな戦いが始まる。もしかしたら、友人のその漫画の冒頭は、私の当時の世紀末にノれない気分をさりげなく代弁していたのかもしれない。まあ、先に書いたように後付けと言えば後付けな話ではある。しかし、時間がたつごとに、その時見た漫画の冒頭が印象深くなっているのも確かだ。

 他愛もないが何故か忘れがたいものと化している、そんな話。

 そして、友人の漫画の、新世紀とともに始まった戦いの続きは分からずじまいだ。

「高天原の犯罪」の構造 天城一『密室犯罪学教程』

 

探偵小説は読者に参加の夢を与えると称しながら、実際は読者を操作するにすぎませんでした。

                    『密室犯罪学教程』献辞より

 

 ※「高天原の犯罪」そしてチェスタトンの某作(ブラウン神父の童心収録作)に触れています。いずれもネタを割る、又は真相を示唆する部分が出てくるので、未読の場合は注意してください。

 ツイッターのフォロワーさんのブログに触発され、天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)の主に「密室犯罪学教程」を読み返しています。個人的に天城一は結構むかしに読んで、短い割になんかよく分からん、密室トリックがことごとくしょぼい、みたいな印象で、代表作の「高天原の犯罪」に感心しつつも、ああ、チェスタトンのあれの日本的バリエーションね、みたいな感じで、かなり不真面目に読んでいました。というか、私にそれを読み込むだけの力がなかった(今だってあやしいもんですが)。密室犯罪学教程も結局はトリックカタログとして、トリック第一主義の阿呆の前には作例集的に消費されただけでした。トリックに囚われるな、という言葉も囚われた人間にはうるさい小言にしか聞こえなかった、というところでしょうか。

 天城一は、トリック中心主義――その真ん中に居座っているとして江戸川乱歩を批判するために、トリックなど大したことないよ、ということを理論と実作によって証明しようとしました。その批判はまるで、トリックに囚われた乱歩を救おうとしているかのように見えたりします。天城は戦後も乱歩に戦前のような小説を書いてほしかったのかもしれません。

 トリックは大したものではない。確かにトリックなどどうとでもなる。しかし、乱歩と天城にはそのトリックに対する食い違いがあったように思われます。無二のトリック、人跡未踏の地を渇望する人間を、ある意味既成の理論によって生成されるトリックがその渇を癒せただろうか。トリックは大したことない――確かに大したことないトリックがそこには量産されていた。

 大事なのはトリックではない。それをいかに使うか。そのためにはシチュエーションが大事だ――トリックの鬼に多分それは伝わらなかった。

 天城一はそのトリックをいかにして成立させるか、そのシチュエーションに拘ります。密室犯罪はメルヘンですと喝破し、徹底した作り物として高度にフィクショナルでなければならない、そしてそれこそがこの《教程》が書きたいところだというのです。

 天城一の興味は恐らく“構造”にある。トリックの構造を解析し、徹底してフィクショナルな世界としての探偵小説に還元する。先ほどの乱歩との食い違いを絡めていうならば、乱歩は新たな“構造”を求めたが、天城は“構造”を分析して自分なりのカタチで複製することに拘った。

 原理を発見することで特定の恩寵を誰にでも分かつことができるとする、それが天城の構造への希求だった。それが科学である、と。それによって探偵小説は神秘ではなく、誰にでも開かれたものになりうるのだ、というのが彼の信念だった。

 その構造を分析する、という信念がトリックとともに、それを成立させる空間に及んでいきます。それはフィクショナルなものでありながら、しかし磨き抜かれた故にか現実の社会を映し出す鏡となってゆく。やがて天城一は“我々”を分析し、その構造を見つめてゆくことになる。

 密室犯罪学教程は後半になるにつれ、社会批評的な色を帯びてゆきます。

 体制は批判ではなく対策を出せといいます。対策は否決できますが、批判は否決できません。体制は批判を恐れます。

 批判を欠く体制は破滅です。それでも権力は批判を恐れます。

  これなど、今なおこの国を蝕む腐敗の構造ではないでしょうか。そして、天城が日本人なるモノの構造を分析して生み出されたのが、かの傑作と名高い「高天原の犯罪」でした。その前段階として天城はチェスタトンの「見えない男」のトリックの構造を意識下の密室であると分析します。明なものは見えない――それはこの国の人間にとって何か? と問うことで神殺しのトリックを案出します。

 次にトリックが成立するシチュエーションを探すこと。それは社会の構造を分析することであり、日本人の構造を分析することだったわけです。そして日本人にとって明らかなるがゆえに見えない存在――天皇を導き、それを神と紙に還元し、新興宗教団体を縮図として「神殺し」を描いたわけです。

 神と紙。冗談のように聞こえるかもしれませんがこれが重要なのです。神は見えないだけでは片手落ちなのです。神として上がっていったモノが紙として下りてくる。そしてそれは時代の変遷をも示唆している。「高天原の犯罪」の凄みとは、見えない“神”が見えない“紙”として戦前と戦後の間を行き来する。現人神が憲法という成文によって象徴となる。ただの人間となって詔を持って下りてくる。内実を失った象徴。しかし我々はそれを形式的に受け入れていく。

 内実は関係ない。形式さえ崩れていなければ、お前たちは滞りなくそれを続けるだろう。それがどんなものかなどどうでもいいのだ。お前たちがぬかずくのは神と書かれた紙で十分なのだ。このトリックを外部から眺めるようにし、まるで千万年前から「民主国」に住んでるような顔をして、今度は民主主義という「神」をあがめるか。天城一による彼の、そして我々日本人なるモノの構造へのナイフのような批評は、今なお我々の喉元に突きつけられているのではないでしょうか。

 最後に、天城一は探偵小説の構造は本質的に平凡人の勝利を、そして平林初之輔が予感したように大衆の時代を予知するものであるとしています。すべての人々に探求の門が開かれている。誰にでも参加の資格があると告げ知らせるものとしての探偵小説。それはこの時代に達成されたでしょうか。そもそもそれはどういうことなのか。冒頭にあげた彼の言葉のように、やはり今でも探偵小説は読者を操作するにすぎないのか。

 すべての人々がある程度、平等に情報を発信するようになった時代。ある意味、平等に探偵たる大衆の時代は訪れた。それが天城一の思い浮かべた光景だったのか、この時代に書かれる探偵小説の姿は果たしてどう映ったのか、もう彼が答えることはないにせよ、それを我々が自問することは意味があることなのかもしれません。

 

 

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 

 

 文章を書く、ということについて、みんなどんな風に書いてるんだろう。とにかく書くのが楽しくて、それだけでたーのしー、というタイプもいるんだろうけど、自分はあんまりそういう感じではない。一気に書くというよりはぶつぶつ書いてはやめ、うーんと唸り、パソコンから目を逸らし、適当に動画サイトやSNSに逃げ、戻ってきてはぽつぽつ言葉をひねり出して……の繰り返し。ぶっちゃけ結構つらい。書くこと自体は嫌いではないが、問答無用で楽しくてたまらないという感じじゃない。

 ただ、なんだか自分の中で形になっていないものを書きだして、削り取ってはこね、なんだかそれっぽい形にしてゆく、それが楽しいという感じだろうか。その書きだして作り出した文章のカタチが上手く行ったらそこそこうれしいし、うまくいかなかったらションボリという、まあ、それを含めて楽しいかな、という感じだと思う。

 なんだかすごくとりとめのない文章になったが、一応、来年もまあ続けていけそうかな、ということで筆をおこうと思います。

ウマ娘プリティーダービー 『BNWの誓い』感想

 三周ほどしましたし、BNWの誓い――ウマ箱四巻に収録されているOVA新作三話についての感想を。筋に沿って語るため、ネタバレ前提なのでそのつもりで。まあでも、映像的な情報や楽しみが盛りだくさんなので、話の筋を知ってもその面白さは変わらないと思います。ほんと、噛めば噛むほどといいますか、クセになる情報量なので、何度も観ちゃいますね。

 私は特に競馬はやらないし、知識もアニメ観てからネットでちょこちょこ調べたくらいの知識しかないので、まあ、そういう人間の感想です。

 

 BNW――ビワハヤヒデナリタタイシンウイニングチケット。一九九三年の三冠戦線で皐月賞日本ダービー菊花賞をそれぞれ分け合い、三強と並び称された馬たちがモデルのウマ娘たちを中心としたこの話は、『ウマ娘 プリティーダービー』というアニメの、そのテレビシリーズにあった魅力がぎゅっと詰まった作品となっています。

 まずはそのキャラクター。実在の、または実在した競走馬たちをモチーフに、どのような形で女の子としてキャラクター化されているか。そしてそのキャラクターたちが繰り広げる、ギャグを取り混ぜた学園ものとしての日常。さらに、キャラクターとともに盛り込まれたのが、ウイニングライブというアイドル要素――主にキャラクターソング。それからこのアニメの魅力の中核をなすのが、個別の勝負服(G1レース以外は体操服)でそれぞれが走った史実を再現する形で走るレース。そしてなによりこのアニメの、アニメだからできること――その競走馬たちのifのレース。

 テレビシリーズが、サイレンススズカの復帰を描いたように、この『BNWの誓い』もそのifを中心に、というかifに向かって描かれます。

 三冠を分け合い、三強と言われたBNWですが、史実では菊花賞を最後に三頭がともに走ることはなく、一九九四年の秋の天皇賞ビワハヤヒデウイニングチケットがそれぞれ一番人気、二番人気で出走するも5着、8着と敗れ、そのまま怪我で引退してしまいます。ナリタタイシンも怪我で思うように出走できず翌年に引退。三頭が三強とばれた期間はとても短かった――そこから、このアニメのifは出発しています。

 ストーリーの始まりは史実においてその三強が終わってしまった秋の天皇賞あとから。それぞれのケガが癒え、再び三人で走る大阪杯に向かうはずのBNW。しかし、彼女たちはどこかぎくしゃくしたまま、お互いを避け続けていた。そんな彼女たちを危惧した生徒会はファン感謝祭の目玉として、三人をチームリーダーとしたチーム対抗駅伝大会を企画、(トレーナのくじ運の悪さで)感謝祭の実行委員に選ばれていたチーム<スピカ>が三人の説得に向かう(スイーツ一年分につられて)……というのが第一話の流れです。

 第一話は感謝祭準備期間、ということで学園祭的なノリの中、テレビシリーズ未登場だったウマ娘たちが多数登場します。次々と登場するウマ娘たちを観てるだけでも楽しいですね。そういえば、ファン感謝祭という名目で実質学園祭を割と任意に描けるのはなかなか強い設定なのでは、と思ったり。

 そんな初登場や再登場のウマ娘たちの間を縫いつつ、BNWの駅伝参加へと説得を試みるスピカメンバーが中心的に描かれていきます。先に言ってしまうと、このテレビシリーズ最終話からの流れで、メインフォーカスがスピカ、そこからBNWの三人へと移ってゆく展開がかなり自然に描かれていて、その構成がなかなか巧いです。

 元々かつての三人のように戻りたいと思っていたビワハヤヒデは、積極的に駅伝の企画を承諾、ついでウイニングチケットスペシャルウィークの説得(?)で参加を表明。ウイニングチケットが迷っていた理由は、怪我が治ったといえ、もし全力を出せなかったらほかの二人に申し訳ない、というある種の遠慮的なものに起因しています。ライバルに対する思い。それはスペシャルウィークサイレンススズカへの思い――そのまっすぐさで解くことができた。

 しかし、それとはまた違った、テレビシリーズにはない形で迷いに囚われているのがナリタタイシンで、第二話はそんな彼女の迷い――いや、恐怖に焦点が当たります。

 スペシャルウィークが主役であったテレビシリーズは、彼女の夢をメインに描き、レースはその夢を叶える場として描かれました。その中である意味、注意深く省かれていたのが、外部の視線――レースを観る人々の期待、そして失望の視線。ナリタタイシンは彼女が勝てなかったレースで人々の失望の視線を目の当たりにし、期待を裏切ることへの恐怖、そして、そこから自分自身を信じられなくなっていました(このレースは恐らくナリタタイシン最後のレース、そして16着と惨敗した一九九五年の宝塚記念がモチーフだとおもわれます)。

 引退を口にするほど彼女の意思は固く、見切り発車で進んでいた駅伝企画に暗雲が立ち込めます。この辺、タイムリミットサスペンス的になり、緊張感が高まります。ファンの期待を裏切る、という恐怖はスピカの面々にはないので、説得することができません(特にゴールドシップがメインで当たっているのは相性が悪すぎる……)。いったい誰が自分のことを待っているの? という思いにとらわれた彼女の前に現れるのが、ビワハヤヒデの妹(元の馬は弟ですが)であるナリタブライアン。彼女もまた、一時期怪我で低迷し、ファンの期待に応えられず、引退を考えたこともあったと語ります。しかし、阪神大賞典マヤノトップガンを僅差で下しての復活。その時に、自分は雑音になるものを見ないように、聞かないようにしてきた、しかし自分が見ないよう、聞かないようとしてきたものの中に、大切なものがあったと語り、タイシンに復帰を促します。姉は、そして私も信じている、と。

 その際、ナリタブライアンを介してビワハヤヒデが雨のなか探していた四葉のクローバーのお守りを手渡します。「みんな待ってる」と添えられたそれがタイシンの心を動かします。しかし、それでも彼女の「みんな」に対する恐怖は消えません。「私が私を信じられない」という言葉とともに涙をこぼすタイシン。もう少し、あと少しの勇気が欲しい。

 そんな彼女の背中を最終的に押すのはやはり友人であり、ライバルでもあるビワハヤヒデウイニングチケット。彼女たちが呼びかけることでタイシンは走り出します。そのほかの「みんな」の期待は裏切ったとしても、彼女たちの期待は裏切れない。彼女が走り出すところで第二話が終了。走り出してから、EDの歌詞につなげる演出はなかなかニクイというか良いですね。

 そして第三話。なんとか駅伝最終区にタスキが届く前にタイシンが到着したのも束の間、雨のなか四葉のクローバーを探していたことが原因となり、ビワハヤヒデが熱発で倒れてしまいます。駅伝は最終区前の第六区で中止が決まりかけますが、そこへナリタブライアンが駆け付け、姉の代役を務めることで事なきを得ます。レースは続行され、彼女たちは走る。そして、ゴールへと向かうタイシンはその中でファンの声援を耳にするのです。自分が見ないように、聞かないようにしてきた外部の声の中に、自分にとっての大切なものがあることに気づく彼女。そしてウイニングチケットとのデッドヒートのすえ、一着でゴールするのでした。

 レースは彼女が制したわけですが、しかしその後スピカの面々(スペシャルウィークゴールドシップメジロマックイーン)がそれぞれそろって意図せず違反を犯していたことが発覚、スピカのやらかしで全チーム失格となり、彼女たちの戦いはG1大阪杯へーー史実にはないifのレースへと持ち越しとなります。この辺のうっちゃりは何だよという人もいるかと思いますが、ここはあくまでBNWの三人がレースへの意欲を燃やすという形でうっちゃっておいて、真の戦いにつなげるという演出は、個人的には最後の盛り上がりにつながる形になっていいのではないかと思います。あくまでBNWの物語として、彼女たちのレースで決着をつける。彼女たちが三強として走り続けるifのレースへ、続きの物語へ繋がることで、タスキのように作り手たちの思い、視聴者たちの願いがつながってゆく。すごく見事な構成だったと思います。新曲で最後のライブも飾り、アニメウマ娘の魅力がこれでもかと詰め込まれた作品でした。

 「走るのをやめたいウマ娘はいません」「私たちは走ることを諦めない」「走り続けるの、私たち」――ウマ娘たちは言います。それは、本来の競走馬たちの気持ちというよりは、それに夢を託していた人々の願い。それは、言ってみればエゴにすぎない。しかし、彼らの走る姿に魅せられた私たちは、それを願わずにはいられない。その願いを作り手たちは真摯に描く。だからこそ、このアニメのウマ娘たちの走る姿に感動せずにはいられないのです。

 それにしても、やはり勝負服のレースはいいですね。ライブの衣装とはまた違ったアニメ的魅力があります。

 そういえばこのアニメ、競走馬+ライブという、いわゆるアイドルアニメの系譜につらなるものなのですが、それらとはズレたところがあって、ライブシーンが明らかにメインではなく、視聴者も特にそれを期待していないという特徴があります。テレビシリーズも、第一話以降は最終話までまともなライブシーンは出てきません。アイドルアニメを装いながら、ライブをカットすることがある意味、視聴者との共通認識となっていて、このOVAでも新曲を披露しつつ、ライブシーンは止め絵でとどめていますし、第一話のBNWのレースVTRを鑑賞した際、レースが終了すると即映像が切り上げられ、スカーレットがウイニングライブも見せてくださいよー、と言う場面は、なんとなくネタっぽいメタ描写に見えなくもないです。

 アイドルアニメにおけるライブは、ウマ娘にとってはレースなのだな、と改めて思いました。このアニメはやはりレースが一番熱い。勝負服をまとって走る彼女らの姿は、最高にカッコイイ。いつかまた再び、アニメでその姿が見れたらいいな、と思いつつ、この作品をもう一周しようと思います。

 

  それにしても素晴らしいジャケットだ。

 

 「百合」って言葉、別に好きでも嫌いでもないんだけど、それを気嫌いする気分というのはまあ、分からないでもないというか。

 なんだろう、人物の関係って、その人物たちごとにあって、そこにはある意味、名づけようのない関係性がそれぞれあるわけで、一様ではない。そこへ何でもかんでも「百合」という一言ですまされては、それらがその「百合」という言葉にベタっと塗りつぶされてしまう。その、繊細さのかけらもない野暮ったさというか、無遠慮さに対するいら立ち、と言いましょうか。さらにいえば、作品そのものが持つ多様な味わいが強い言葉で塗りつぶされてしまうこと(それを言うと、百合以外のジャンルを指定する言葉もそうではあるが)。これはまあ、「BL」という言葉にも言えるだろうけど。

 まあ、作品を他者と共有するうえでそういった繋がるための言葉が必要なのもわかるし、そういうので大きな共感の輪を広げた方が、作品を共通意識の下で盛り上げるためには必要なことだろう。その言葉が作品の入り口になるのなら、それもアリだ。

 でも、大きな言葉を大勢が振り回すとき、それはどこか乱暴なにおいを放つ。その乱暴なにおいで、それぞれの微細なニュアンスが塗りつぶされてしまう。私が思うのは作品に触れる個々人が、その大きな言葉の下敷きになっている、それぞれの「百合」を拾い上げられてたらいいな、ということ。

 「百合」という言葉は「ミステリ」や「SF」というジャンルの言葉とそう変わらないとは思うのだが、どこか乱暴なにおいがするのは、畢竟、キャラクターの関係性に貼り付けられるからかもしれない。キャラクターの関係性――それを尊いといいつつ、一様な言葉で括る乱暴さ、無遠慮さが、どこか嫌なにおいとして私には感じられる時がある、というところだろうか。

 まあ、フィクションなんだし、好きに消費すれば、とも思うけど。