蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

島田荘司『Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー』

 

Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー (講談社BOX)

Classical Fantasy Within 第八話 ハロゥウイン・ダンサー (講談社BOX)

 

 島田荘司による(現時点で)未完の大河SFファンタジー、その第八巻目である。ちなみに私は最初から読んでなくて、いきなりこれから読みました。既刊が八巻で躊躇してて、独立した一巻で完結する話ということでまあ、手に取ったわけです。確かにこれ単体で完結していて、こちらから手に取っても構わないと思います。ミステリ作家らしいアプローチで、伏線を回収しつつ隠されていたSF的な世界が読者の目の前に開陳される――その構築性は著者ならではの剛腕で楽しめると思います。

あらすじ

  世界は滅び、かつてあった多くのものが失われた。風は止まり、雨は降り注ぐことなく、太陽がその本当の姿を現すことはない。鳥も獣も、その多くが姿を消した。かつてあった文明も。全ては神話の中に。しかし、それでも人間たちは生き残っていた。失われた文明を受け継ぐ神々の子孫として、世界が再び復活するその日まで、神々が住む聖地で生き残らなければならない。そのためには規律を守れ。疑問を持つな。与えられた仕事をこなし、決められたパートナーと子をなす。それがハロゥウイン・ダンサー市民の務めだ。

 自己を取り巻く小さな世界に対する疑問を持ちながらも、その聡さゆえに自分の中に押し込めてきた青年エドは、己が抱く疑問に正直で奔放な少女メラニーと出会い、彼女に惹かれてゆくうちに自身の疑問――ハロゥウイン・ダンサー市の秘密を追求し始める。何故自分たちが住む世界はそうなっているのか、謎の答えの一端を垣間見た彼らはしかし、それ以上を踏み込めなくなってしまう。そして時は流れ、人生の終わりにようやく彼らはすべての真実へと手を伸ばす。絶対に開けてはならないとされていた「雲の門」を抜けた二人に待ち受けていたのは――。

 

感想 ※ここからはネタバレ前提ですので注意

 

 本格ミステリ界の巨人らしくミステリとして謎を用意しつつ、しかし、この物語は問いかける。

 世界の真実を知ることに意味はあるのか? 

 二人の若者は世界が強要するルールや自分たちを取り巻く世界そのもの謎を追求する。だが、実のところその隠された真実は、全体の幸福のために存在し、それはむしろ知らない方がいいという種類の謎なのだ。しかも、最後二人は真実を希求することで死に至る。

 真実を知ることに意味はない。若き彼らは一旦はその真実の片鱗に触れ、挫折する。そしてハロゥウイン・ダンサー市の中に埋没し、多くの市民の一人としてその人生の大半を過ごす。しかし、人生の最後になって、再び真実への扉を――文字通り最大の禁忌とされる「雲の門」を目指すのだ。

 二人にとって真実そのものには意味はない。が、知ろうとすること自体には意味がある。かつての冒険、その若き日の輝きは二人にとって素晴らしいことには変わりはなかった。そして、人生の終わりに至り再びその輝きを取り戻すために、忘れていた最後の謎を求めて彼らは門をくぐり、そして死を迎える。

 この物語、島田荘司にしてはなんだか残酷な話だ。真実は二人を幸せにしたのか? それは分からない。ただ、世界に疑問を持ち共にそれを分かち合った。その瞬間だけは輝いていたのかもしれない。

 ミステリとしては、なかなか島田荘司らしい偶然の積み重ねが奇跡のような小宇宙を作り出す。船自体を深海に沈めることで出来上がる世界。海底に横たわる生命の小瓶という、その一点のイメージの力からすべてが広がってゆく物語づくりは著者の十八番といった感じだ。時間を途中で飛ばすことで、悲劇的な結末をある程度救っているーーある種の解放の物語としているのは著者のやさしさなのかもしれない。

ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』

 

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 

  全長一マイルにも及ぶ巨大な竜グリオール。かつて魔術師によってその動きを封じられ、千年もの長き時が流れた。やがてその体には草木が生え茂り、川が流れ、人々はその体の上に町を作った。しかし、動きを止めつつも死したわけではないグリオールは、その巨大な力により周囲に影響を及ぼし、それはグリオールに住む人々にも隠然と忍び寄る。人々はそれを自覚し恐れを覚えつつも、その巨大な意思に従わざるを得ない……。

 そんな巨竜をテーマに据えた短編が四つ収録されている。いずれも素晴らしい奇譚となっているので気になったらぜひ手に取ることをおススメする。

 この作品はその文体がまず素晴らしい。結構文字数多いというか、びっしり書かれているのだが、それをじっと追っていくと次第に引き込まれてゆく。解説でもある通り、そのまま流れに身を任せて一気に読み通すことをおススメしたい。なんというか、遠く遠くへ運ばれて行く感覚を、読書によって体感させてくれる、そんな読み心地なのだ。

 さて、本作は全編が人の意思を操る竜という巨大な存在をめぐる奇譚なのだが、まずは表題作、「竜のグリオールに絵を描いた男」は、グリオールの来歴と、その動かない巨竜に絵を描き、その絵の具に含まれる毒でグリオールを殺そうとする話。そのアイディアを提唱した男の半生をつづる。メインはその男の竜とともにあった半生だ。

 次は「鱗狩人の美しき娘」。グリオールの体内に囚われてしまった娘の数奇な運命というか、グリオールの意思と娘の意思、それらが絡み合い、役目を背負わされた娘の成長譚的なものとなっている。グリオールの体内に広がる世界描写が詳しく描かれ、その異形の世界もまた見どころ。一種の浦島太郎ものでもある。こちらはグリオールの体内で過ごした日々が娘を強くするのだが。

 「始祖の石」は本格的な法廷モノのテイストがあり、ミステリでもあるので、ミステリ好きも一読してみてほしい。というか、目に見える神にも等しい存在が人々を操っていることが前提での犯罪はグリオールの意思である時、殺意というものは立証することができるのか。巨大な操り手が自明の世界での犯罪なんて、エラリー・クイーンが好きそうなネタっぽい。この設定でのミステリーてのも深堀すると面白そうなんだよなあ。作品としてはどこからどこまでがグリオールの意思なのか、というディック的な感覚が主線という感じだが。

 そして掉尾を飾るのが竜との奇妙な異種婚姻譚「嘘つきの館」。この話が一番奇譚色が強いかもしれない。そしてこれもまたグリオールの意思に翻弄される男の話である。残酷な話なのだが、最後の男に訪れる瞬間がどちらなのか、伏せている幕切れはなかなか素晴らしい。

 全体的にはファンタジーであり、その世界にぐっと読者を飲み込んでいきながら、しかし、不思議とどこか我々の世界とすぐ隣り合っているような感覚がする。そしてそれが、この作品全体を一読忘れがたいものにしているようにも思うのでした。

狂ったケモノが見通す視線 映画『狂った野獣』

 町山智博氏と春日太一氏が語る東映時代のエピソードの中で、渡瀬恒彦最強伝説という話があり、、その伝説の一つとして挙げられて、ずっと観たかった映画。ようやく、見つけてきて鑑賞しました。いやー、なかなかすごかったです。

 渡瀬恒彦っていうと、私は十津川警部くらいしかイメージがなくて、そんなにすごいアクションしてるの? みたいな感じで観てたわけですが、サラッととんでもないことしててびっくりですよ。あと、本作はあまり予算がなく、突貫で作られたらしいんですが、編集の巧さか、かなりの車がクラッシュし、バスがバイクをひき潰し、鶏小屋やら小さな小屋やらを吹っ飛ばしたりと派手派手な画面が出来上がっています。

 脚本もテンポよく、バスジャック犯と渡瀬演じる宝石泥棒がブッキングして、やがて渡瀬に主導権が移る構成や、何より狂った野獣なんていうタイトルからすると恐ろしいくらい冷めた視線が視聴者を見つめてくる。そんな油断ならない映画でした。ただのバイオレンスアクションくらいに思っていたので、少しびっくりしましたね。

 この映画のアクション部分はすごいのですが、それはあくまで装飾で、きちんとそれを纏う芯の部分がきちんとしている。その芯の部分はハイジャックされるバス内の描写だ。ここをきちっと序盤から中盤まで描き、それがラストの大アクション、そして皮肉な結末が生きる。渡瀬恒彦のむちゃぶりアクションで語られるが、実のところこの映画の秀逸な部分は、バスの乗客たちの描き方といっていい。

 あっという間に銀行強盗犯たちに乗っ取られ、映画『スピード』的な凶悪犯と戦う主人公と頑張る乗客たち、というある意味ハリウッド的な定型を思い浮かべたのもつかの間、それとはほとんど真逆に進んでいく。主役は犯罪者だし、乗客たちは映画『ある戦慄』に近い形でパニックに陥り、好き勝手行動していく。しかし雰囲気がある戦慄と違うのは、その好き勝手ぶりが妙なおかしみを醸し出しているところだ。意図的に入れている笑いもあるのだが、おもむろにバナナを食べだす老人や、急に歌いだす旅芸人たちと、冗談なのか何なのかよくわからない絵面が何とも言えない笑いを誘う。その何とも言えない地獄の中での笑いも、この映画の面白い部分だ。ほんと、結構笑ってしまった。

 好き勝手言い合い、乗客同士で罵り合い、決して連帯することがない乗客たちがついに最後で連帯する瞬間が訪れる。しかし、その連帯する姿が観客にとってのカタルシスとなることはない。それどころか、エゴイズムで連帯する小市民的醜さを目の当たりにすることとなる。その、大衆を見つめる視線はかなり冷めているが、今日的というか、この映画から何十年たっても変わらない大衆の姿がそこにはある。七人の侍の農民イズムというか、戦後のクリエイターたちが批判的に見つめていた大衆の一面。それは今でも時を超え、観る者を鋭く見つめてくる。

 そういう意味で、渡瀬恒彦の伝説として語られがちな映画ではありますが、その批評的な視線もまた、語られるに値すると思ったのでした。

無音の中の音 映画『クワイエット・プレイス』

※ネタバレ前提で語ってます。

 

 ホラーと音は密接な関係にあるといっていい。無音が何かが起こり得る予兆と緊張、そして実際に起こる何か。ホラー映画はその配分が出来を左右するが、優れたホラーはどちらかというとその無音の部分――何かが起きる予兆が怖かったりする。

 とはいえ、これまでは何か事が起こる――そのリアクションとしての悲鳴や絶叫、に軸足が置かれていた(と思う)。炸裂する音そのものに恐怖をのせることをメインとしてきたわけだ。無音の予兆はそのための前提的なものだった。しかし、最近のホラー映画はその予兆の恐怖をメインとして引き延ばす方向性(おそらく日本のホラーの影響があると思われる)が出てきて、『ドント・ブリーズ』がその種のエポックといってよく、今作もその延長線上にある。というか、『ドント・ブリーズ』の盲目の元軍人を宇宙生物にして、より舞台を広いフィールドで無音と音の恐怖を展開したのが『クワイエット・プレイス』といえる。

 しかし、ホントにものすごい緊張感の連続である。音を立てれば死に直結する状況下、凌いでも凌いでも襲い来る宇宙生物の恐怖(そこはやりすぎなくらいこれでもかとやる)。その中で、家族の物語が静かに、しかし激しく描かれる。発せられる言葉がほとんどなく、音による感情表現を極限まで抑制した中で描かれる人間の悲しみ、怒り、そして愛。

 無音の中の感情表現。言葉は発せない、だからこそ音が映える、重要な意味を持つ。ところで無音の映画、ということでサイレント映画を思い浮かべるかもしれない。しかし、それとは少し違う。実際のところ、この映画は結構音がする。それはサイレントの完全再現を目指した『アーティスト』とは違う。

 実のところこれは“音”の映画なのだ。夫婦がイヤホンで音楽を聴きつつ静かにダンスするシーンがあるのだが、妻がイヤホンを外して夫の耳にあてるところで、音楽がぶわっと広がるところなんか、かつてあった音楽のある日常が伺える素晴らしい演出だ。この映画の音の部分はある意味、人間的な部分を担っているといえる。

 そして無音の“恐怖”を司るのが宇宙生物だ。目の見えないコイツらはなんというか、盲目のエイリアンって感じで、母親役のエミリーブランドを探してなめるような至近距離構図とかは、まんまリプリーのオマージュっぽさがあるし、まあ、ほとんどこのお母さんはリプリーみたいなもんではある。

 映画全体の構成はゴジラ型というかジョーズ型というか。最初は恐怖の対象を見せずに、しかし確実に迫っている感じを演出し、中盤あたりでその姿を現すと今度はその具体的な恐怖の対象との闘いとなっていく。この辺はセオリーというか、過去作をよく研究している。最初はどこから襲ってくるかわからない画面外の恐怖から、画面の中に姿を現して以降は、そのおぞましい姿と凶暴な怪物を音をたてないようにしていかに避けるか、というメタルギア的な緊張感へと移行していく。

 声をあげて泣けないことはこんなにもつらいのか。子供を守るために咆哮を上げる父親の声なき声はすさまじく。そして、父があきらめず続けた聾の娘への贈り物がついに無音の抑圧を跳ねのけた時、母親の決意とともに、人類反撃の“音”が静かに響く。そのショットガンの撃鉄の音で終わるのはすごくカッコいいラストだ。

 設定的には深く考えると、この程度の宇宙生物で人類が追いつめられたりするんかな……もっと人間は狡賢いぞ、と思ったりするのですが、そういう部分はきっぱり切り捨てて、津波のように押し寄せる緊張感で観てる間はすっかり映画に飲み込ませて、余計なこと考えさせない作りにきっちりとなっていました。実際的なグロ描写はほぼないので、怖いの苦手な人でも楽しめると思います。

幻想が溶けた後に残るモノ 戸川昌子『緋の堕胎』

 

緋の堕胎 (ちくま文庫)

緋の堕胎 (ちくま文庫)

 

 

 戸川昌子という作家についていえば、歴代一の激戦と言われた第八回の江戸川乱歩賞において、あの『虚無への供物』そして『陽気な容疑者たち』を退けて入選を果たした『大いなる幻影』の著者、という知識があるだけで、手に取ったことはなかった。

 よって今回の日下三蔵編によるちくま文庫の傑作選が自分にとっての初の戸川昌子作品ということになる。

 ここに収められている作品は(短絡的に)一言でいえばエログロミステリという感じになるだろうか。エログロをより先鋭化させた江戸川乱歩の正当後継者と言えるかもしれない。全編が背徳的、反道徳的な題材や展開に濃厚な官能性を絡ませ、それが幻想性を纏い始めると、即物的なミステリとして落とす。全編の骨格としてはそのような作品が選ばれている。

 作品ごとに濃厚な官能描写が織り込まれているが、よくある中間小説的な下世話さはあまり感じない。それは解説で編者が言及しているように、それを描写している著者の視線が理性的でどこか冷淡なことに起因している。展開されていく人間が為すある意味忌まわしい行為を著者はどこかものを見るようにじっと見つめてゆく。

 そのように異様な展開や行為を何でもないかのように描くことで、それらはどこか彼岸のモノのようになり、やがて濃い幻想性を帯びてゆく。しかし、著者はその幻想性を即物的なミステリとして現実の地平に解体してゆく。感想をあさるとそのことに不満を覚える向きもあるようだ。せっかくの幻想性をどうしてミステリ的なオチで矮小化するのか、という意見はまあ、分からないでもない。だが、異様な情景を積み上げた幻想性を律義にミステリ的に落とす(堕とす)ことが、これらの作品を忘れがたいものにしているように私は思う。

 どんなに異様で不道徳だろうがグロテスクだろうが彼岸の幻想として愛でることができるということは、ある意味、読者にとって安心して鑑賞できるということでもある。そして出来のいい“幻想”という風に飲み込むことができるだろう。しかし、著者はその幻想めいた異様な風景をミステリを用いて現実的な地平に解体する。それによって幻想に溶けるのではなく、異様な諸々は矮小化しつつもごろんとしこりのように残る。

 どこか寒々とした幻影のあとに残されたそれはとても飲み込みづらく、読後に残されるこれは何なのか読者は戸惑う。それはやはり、著者の冷淡な視線のような気がするのだ。著者が異常なシチュエーションの中にある人物たちを通して、それを読む読者の方をも見つめてくるような、そんな感覚。そしてそれに見つめられたという感覚が、著者の作品を忘れがたいものにしている、そんな気がするのだ。

 

 ※ここからはそれぞれの作品について。ネタバレ込みで書くので注意。

 

「緋の堕胎」

 初っ端から堕胎というテーマで解説に引かれた筒井康隆の評が述べているように、半人間という堕胎胎児が醸し出す背徳性にまずからめとられ、その物言わぬ半人間という存在を中心に医者や助手、妊婦たちが歪んでゆく。その過程が淡々とした視点で語られることで、より異様な世界へと読む者を引き込む。掘り返される半人間たる胎児たちの骨とともに「人間」の骨が掘り出されるシーンは出色の場面だろう。そこに添えられる疑惑を含めて。

「嗤う衝立」

 病院を舞台にしたエロティック・ミステリという感じなのだが、そのエロスが不信感と混ざり合い、異様な宙づり感を作り出している。最後には妙なオチがつくのだが、笑っていいのか分からないこれまた妙な宙づり感。なんだか丸く収まっているようなのだが、はっきり言って妻とアシスタント・プロの関係がそれで晴れたわけではない。最後に勘違いした医師を笑う主人公を、まさに事件を見ていた衝立は嗤うのだ。

「黄色い吸血鬼」

 視点によってなんでもない光景が奇観と化すという島田荘司的な手法が用いられているのだが、視点人物にそれを据えるか、というような選択が著者らしい。今だとおいそれとはできない。主人公が見ている光景は異様ではないが、その光景の背後に異様なものが控えているので、奇観が晴れてもイヤなものが残る。

「降霊のとき」

 降霊相談所の女助手がふとした機会から霊媒師に成り代わって、降霊を行い、依頼人の女性たちと交わってゆく。男の霊を自身に降ろしてセックスするという倒錯的な話から、妙な因縁話が引き出される。

「誘惑者」

 黄色い吸血鬼に続く吸血鬼テーマだが、アプローチは違う。こちらもまた倒錯的な話で、その倒錯が、吸血鬼的な形で感染してゆく。短いが、まとまりはいい。

「塩の羊」

 問題作にして傑作。フランスのモン・サン・ミッシェルと思しき島が舞台。日本人捜査官が同胞女子大生失踪事件の捜査のため訪れる。修道院、そして羊から原罪というモチーフが浮かび上がる。塩の草を食べた羊は塩の味がする――という塩の羊というタイトルの挿話もそれを指していると思われる。過去の罪を食んだものが、その罪を引き受けなくてはならないのか、その「羊」は本当に塩の味がしたのだろうか。荒涼とした海と羊の皮をかぶった女の姿を主人公のごとく、読者は傍観するしかない。

「人魚姦図」

 個人的なお気に入り。背徳的な人魚との交わりの背後にあるゆがんだ父と子の関係性と因果。そして救いのない結末なのになぜかユーモラスというか、飄々としていて気味の悪さはピカ一である。

「蜘蛛の巣の中で」

 いわゆる“信頼できない語り手”による告白文のテイスト。彼女の告白は果たしてどこまでが真実なのか、“嘘”の蜘蛛の糸に搦められているのは誰なのか。

「ブラック・ハネムーン」

 まさにブラックな話。こちらもまた書簡形式というか、女性の書置きを読むことで、彼女に降りかかった悪夢を追体験することになるのだが、その悪夢の外側もまた無残なな現実であるという構成の妙が光る。ある意味甘美な悪夢が即物的な現実によってさらにイヤな形になって読者の前に現れる。確定させないにせよ強くにおわせることで、じっとり残る、その書き方が巧い。

ドニ―・アイカ―『死に山』

 

死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

 

  この本でディアトロフ峠事件という遭難事故を初めて知った。

 1959年、冷戦下のソ連ウラル山脈でその遭難事件は起きた。ウラル工科大学生が主なその登山チーム9名は、テントから一キロ半ほども離れた場所で死体となって発見された。遭難者たちは氷点下の中ろくに衣服を身に着けておらず、全員が靴を履いていない。うち三人は頭蓋骨折、そして女性メンバーの一人は舌を喪失していた。おまけに遺体の着衣からは異様な濃度の放射線が検出されたのだった。

 そのあまりにも不可解で異様な遭難者たちの最後は、様々な憶測を呼ぶが、最終的に「未知の不可抗力による死亡」という結論が下される。目撃者もなく、半世紀以上も広範な捜査が行われたが、いまだにこの悲劇に説明はついていない。全滅したトレッキング隊のリーダーの名前を取り、彼らが遭難した周辺はディアトロフ峠とよばれ、事件の総称もそこから来ている。

 そんな世紀の怪奇事件にアメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

 こんな奇妙な事件があったとは。正にミステリーである。まあ、なんというかムー的な香りがするというか。もちろんそんな謎の蜜に多くの人間が引き寄せられ、様々な説が唱えられた。雪崩や吹雪といった常識的なものから脱獄囚の襲撃、放射性廃棄物による死、衝撃波、または爆発によるショック死などから、果てはUFO、宇宙人、凶暴な熊などなど。冷戦下のソ連ということもあって、政府による陰謀論なども出てくる始末。しかし、どれも決定的な解決には結びついていない。

 もう60年近くの事件なのだ。関係者だって年老いている。いまさら新しい情報が出てくることが期待できるわけでもない。それを全然関係のないアメリカ人のドキュメンタリー映画作家が調べる――今さらいったい何のために?

 著者自身もそんなことを自問しつつ、始めは明らかに異様な事件に対する好奇心から事件に足を踏み入れていく。この作品は事件の真実を求めつつ、ある意味その理由を探す記録でもある。とはいえ、決していい加減な形で世紀の怪事件を面白おかしく取り上げようとするドキュメンタリーではない。著者はかなり誠実に事件に向き合っていく。

 著者の調査は実に丹念だ。当時の状況――トレッキングメンバーの人となりから、遭難現場までの行程、事件発覚と死体発見、そしてその後の捜査までの様子を資料や証言、当時の記録から出来るだけ詳しく再現してゆく。それは奇怪な事件を探る、というよりも、事件に遭遇したまだ大学生がほとんどだった遭難者たちがどのような人物たちだったのか、という所にきちんと筆が費やされている。彼らは実際にその時代に生きていたごく普通の大学生であり、家族や友人がいて将来を夢見ていた。

 そのように被害者たちをきちんと浮かび上がらせてゆく。そんな彼らが何故死ななくてはならなかったのか――だから、これは追悼の書なのだ。何の縁もゆかりもない外国人がしかし、いつしか彼らの存在を身近に感じつつ、彼らに「謎の事件」の被害者ではなく、きちんとした死の真相を明らかにすることで謎から解放すること。その意味で、このドキュメンタリーは探偵小説的でもある。“謎の死”を詳細な証拠をもとに“推理”し、個人が遭遇した不幸な事件として解体すること。

 実際、ホームズを引用し、著者が真相に突き当る過程は消去法である。これまでのあらゆる説を検証し、そのうちにとある現象の可能性に思い当たる。探偵小説ではないので、劇的ではないのだが、それによって導き出される答えはある意味恐ろしい偶然で、まさに遭難者たちには不幸としか言いようがないものだった。それは現地の言葉で、その名の通り“死の山”がもたらした死への誘いだったのだ。

 歯ごたえのある、死者たちを想うきちんとしたドキュメンタリーとなっていて、おススメの一冊である。

 伊藤計劃のサイト、「スプークテール」を今さら見てきたんだけど、自己紹介をクリックした先にある「モノローグ」や、掲示板に伊藤さんが書いている、エロゲーあるいは「萌え文化」に対する批判が結構激烈で(とはいえ、内容はなかなか面白い)、これを書いた当時(98年から2000年あたり)、伊藤さんは二十代前半だと思うんだけど、その批判の仕方がえらく年配的な感覚がして、ああ、こういう皮肉でなく頭のいい当時の青年たちが、そのまま年を取っているというわけか、そんな感じがしましたね。身体論に搦めて、他者性の欠如した(と規定した)想像に対する異様なほどの嫌悪感はいわゆる「オタク」内部から生まれ出ていた、という一つの証左としてみることができる。

 僕はエロゲ―をほぼやったことないし、Keyだとかマルチだとかそういうものがあったというくらいの認識しかないし、そもそも「オタク」という自称する意味がよく分からないというか、何でそんな言葉いちいち使うのか。伊藤さんは「オタク」という自らの領域と認識したその場所が堕落しているという風に感じて、失望していたのだろう。

 伊藤さんはアニメやエロゲ―に対する屈折した思いを結構吐露しているんだけど、それだけ期待してたのかもしれないし、特になんにも思わない僕の方が冷淡なのかもしれない。まあとにかく、当時の「萌え」やエロゲ―に対する伊藤さんのスタンスが垣間見えてなかなか面白かったです。今さらですが。